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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十一話 亡霊の正論が棲む家(6)

   *


 家へ戻っても、雨はまだ続いていた。


 ヘルダの家の屋根には、誰もいないのに煙が細く残っていた。


 リディアは、また火皿を手にしていた。

 リュカは、立ちつくすリディアへ言った。


「熱いうちに置け」


 リディアは顔を上げる。


「何を置くんだ」


「エミルの粥だ」


「でも、エミルはまだ」


「食べるかどうかは、あの子に任せろ」


 リディアは、火皿を置いた。

 ヘルダの家へは行かなかった。


 その代わり、鍋の前へ戻った。

 エミルの椀を手に取る。


 椀の粥は冷えていた。


 粥を鍋へ戻し、もう一度温める。

 エミルの椀へよそう。

 今度は湯気が立った。


 エミルの前へ置く。


 近すぎず、遠すぎず。

 今までより少し近い場所へ。


 エミルは椀を見た。

 目が少し開いた。


「食べていいよ」


 リディアが言う。


 エミルは匙を持たない。


「僕には、まだ早いよ」


 リディアの手が、椀のそばで止まった。


「熱いうちに――」


 食べなさい、と言いそうになった。

 それではまた同じだ。


 食べなさい、と言い切れば、今度は食べる時までリディアが決めることになる。


 リディアは口を閉じた。


 通りの先から、まだ煙の匂いがする。

 リディアの口が勝手に続きを探す。


 でも、そこで止めた。


 リュカは、竈の火へ視線を戻した。

 言えば、今度はリュカの言葉になる。


 エミルは湯気を見ている。


 湯気は、椀の縁で細く揺れた。

 エミルはそこでやっと匙を持った。

 だが、粥をすくう前に手を止めた。

 やがて、湯気は消えた。


 しばらくしても、リディアはその椀のことを考えていた。


 熱い粥を置いた。

 それだけならできた。

 でも、エミルは食べなかった。


 なら次は、どうすればいいのか。


 リディアは、答えを探して、また姉の言葉の方へ行きそうになった。

 急に変えても、あの子が困る。

 家ではうまくできない。

 慣れた人の手に任せた方がいい。


 どれも、考えなくても口に出せるほど馴染んでいた。


 エミルは、その間、竈のそばで小枝を見ていた。

 自分から触れはしない。


 ただ、リュカが小枝を二つに分けると、エミルの指が少し動いた。


「やってみるか」


 リュカが聞く。


 エミルはリディアを見た。


 危ない。

 遅い。

 疲れる。


 言葉はいくつも浮かんだ。

 けれど、そのどれも姉の形をしていた。


「……一本だけだよ」


 リディアが言うと、エミルは小枝を一本取った。

 折るのに時間がかかった。

 だが、折れた。


 エミルは折れた小枝を見ていた。

 やがて、そっと肩の力を抜いた。


 そのあと、リディアは姉の家から持ち帰った小さな板を洗おうとした。


 泥がついている。

 灰も残っている。

 きれいにしなければと思った。


 エミルが言った。


「泥だけ拭いて」


 リディアの手が、水桶の手前で止まった。


「灰もついてるよ」


 エミルは灰の線を見た。


「それは残して。僕が書いたから」


 その言葉に、リディアは板を見直した。

 汚れだと思った灰の線は、エミルが昔、字を真似した跡だった。

 曲がっている。

 字にはなっていない。

 でも、確かに何かを書こうとした線だった。


 リディアは水桶へ伸ばしていた手を戻し、そばの布で泥のついた端だけを拭いた。

 灰の線には触れなかった。


「これでいい?」


 エミルは板を見て、うなずいた。


「うん」


 リディアはそれから、板を棚へ置いた。


 エミルの椀の横。

 エミルが手を伸ばせば届く場所。


 家の中に、エミルが触っていいものが増えた。


 しばらくして、リュカはエミルに小枝をもう一本渡した。


「同じ長さに折れるか」


 エミルはリディアを見た。

 リディアは、今度はすぐにうなずかなかった。

 すぐ止めもしなかった。


「やってみる?」


 エミルは小枝を受け取った。

 一本目より少し太い。

 手の中で何度か向きを変え、節の少ないところを探す。


 折るまでに時間がかかった。

 でも、折れた。


 リュカは二本を並べる。


「だいたい同じだ」


 エミルは眉を寄せた。


「少しだけ違う」


「見えてるなら、次は直せる」


 エミルは二本の小枝をもう一度並べ、長い方の端を指でなぞった。


 リディアは、その横顔を見た。


 ヘルダなら、何と言っただろう。

 ほら、曲がった。

 疲れただろう。

 こういうのはまだ早い。


 リディアの口に、そのどれも上がってきた。

 だが、言わなかった。


 エミルは折れた小枝をもう一度見て、竈の脇へ置いた。


 その小枝は、その夜まで残った。


 エミルは、折れた小枝を見たまま、ぽつりと言った。


「向こうでも、こういうこと、していいのかな」


 向こう。

 それが施療院のことだと、リディアにはすぐ分かった。


「向こうで、何をしたいの」


「邪魔にならないことをする」


 リディアは、竈の脇の小枝へ目を落とした。

 邪魔にならないこと。

 その言葉が、家の中でどれだけ増えていたのか、今さら数えられなかった。


「僕、母さんが困るなら、向こうでちゃんとするよ」


 ちゃんとする。

 エミルは、折った小枝を竈の脇へ寄せた。


 ちゃんとする子にしたかったわけではない。

 困らせない子にしたかったわけでもない。

 それなのにエミルは、自分が家に残るかどうかを、母を困らせるかどうかで測っている。


 リディアは、いいんだよ、と言いかけた。

 だが、その言葉も軽すぎた。


 いいなら、なぜ預けようとしたのか。

 いいなら、なぜ今まで止めてきたのか。


 リディアは口を閉じた。

 エミルは寝台の足元の包みを見た。


   *


 夕方前、リディアはもう一度、施療院へ向かった。


 リュカは止めなかった。

 止めれば、またリュカが決めることになる。


 エミルは小さな包みを持った。

 今度は、自分で持つと言った。

 包みの中身は同じだ。

 着替えと木匙。


 家を出る前に、リディアは一度だけ聞いた。


「嫌なら、言って」


「嫌って、言っていいの?」


 リディアの足は止まった。

 けれど、施療院へ向いたままだった。


 リディアは言った。


「少しの間、向こうで過ごすだけだから」


 エミルはうなずいた。


「うん。少しだけ」


 リディアは、エミルの包みから目をそらした。


 この家にいる限り、自分はまたエミルを止めてしまう。

 なら、自分から離した方がいいのではないか。


 施療院の門が見えた。


 エミルは門を見上げた。


   *


 施療院の食堂には、また粥の匂いがあった。


 温かい匂いだ。

 リディアの家の粥より、少し濃い。


 ミラは、二人を見ると眉を寄せた。

 だが、眉を寄せたまま、椀を一つ出した。


 エミルの前へ置かれる。


 湯気が立つ。


 エミルは、待った。


 家で見た時と同じように。

 昨日までと同じように。

 これまでずっと、そうしてきたように。


「食べないのかい」


 ミラが聞くと、エミルは椀を見たまま答えた。


「僕は、冷めてからでいい子だから」


 前より静かな声だった。

 言い終えると、エミルは匙のない右手を膝へ押しつけた。


 その間にも、湯気は細くなっていた。

 エミルは匙を取り、粥を一口だけ口へ運んだ。

 椀の中に、小さなくぼみが残った。


 リディアは、長机の縁をつかんだ。


 自分は、エミルを楽にしたかったのではない。

 自分は、エミルの椀と声を施療院の長机へ置いて、家へ帰ろうとしていたのだ。


 ミラは、エミルの椀へ目をやった。


「今日は、この子と一緒に帰りな」


 リディアは顔を上げる。


「でも、私はもう」


「まず家で、温かい粥を前へ出してやりな」


 ミラは続けた。


「ここは、家でできることまで諦めて、子どもを置いていく場所じゃない」


 リディアの手は、長机の縁から離れなかった。


 エミルは椀を見ている。

 湯気が少しずつ薄くなる。


 エミルは、さっき一口だけ食べた。

 リディアは見ていた。

 匙が粥に入り、口元まで行った。


 けれど椀は減っていない。

 匙は乾いている。

 ミラは、心配そうに言う。


「まだ食べていないなら、無理に急がせなくていい」


 エミルは首を振った。


「一口、食べた」


 その声は、小さかった。

 だが、今度はリディアの耳に入った。


「食べたかったんだね」


 ミラのその言い方で、エミルの事実はまた願いに戻される。

 やったことではなく、やりたかったことにされる。


 リディアは、その湯気が消えるまでの時間を、初めて長いと思った。


 帰り道、リディアはエミルの包みを持とうとしなかった。


 エミルは、包みを抱えて歩いた。

 施療院へ向かった時より、少しだけ足取りが重い。


 軒下で薪を束ねていた男が、二人をちらりと見た。

 すぐ目を戻したが、戻し方が早すぎた。


 リディアの中で、姉の声がまた形を取る。

 ほら、見られている。

 外へ出せば、あの子は人の目に置かれる。


 リディアは包みに手を伸ばしかけた。

 持ってやれば、少なくとも足取りは少し速くなる。


 だがエミルは、包みを抱え直した。


 リディアは手を下ろした。


 少し先で、読み書きの板を抱えた子どもたちが走っていった。

 雨上がりの道に足跡がつく。

 エミルはそれを見た。


 リディアも、足を止めた。


 子どもたちが曲がり角の向こうへ消えるまで、二人で見ていた。


 その夜、包みをほどくまで、リディアは施療院の話を切り出さなかった。


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