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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十一話 亡霊の正論が棲む家(5)

   *


 昔のエミルは、よく食べる子だった。


 匙を持つのは少し遅い。

 椀を抱える手も小さい。

 けれど、粥を前にすると目が明るくなった。


 熱い粥を出すと、まず大きく息を吸う。

 それから、ふう、と吹く。

 一度では冷めない。

 二度、三度、吹く。


 それでも熱ければ、匙を持ったまま待つ。

 待つが、今のような待ち方ではなかった。

 匙を離さず、湯気を見たまま待った。


 ある朝、エミルは二杯目を欲しがった。


「もう少し食べたい」


 リディアが鍋へ匙を入れようとした時、姉のヘルダが言った。


「育ちがゆっくりな子に、腹いっぱい食べさせりゃいいってもんじゃないよ」


 ヘルダは扉の前に立っていた。

 自分の家の桶を抱えている。

 いつ来たのか分からないくらい、自然にそこにいた。


「でも、欲しがってる」


「欲しがるまま食べさせるのは、親が安心したいだけだよ」


「胃が弱い子は、少し足りないくらいがいい。施療院の養生書にもある」


「エミルは、今朝はよく食べてる」


「よく食べた朝ほど、あとで苦しくなるんだよ。あんたは、その場だけ見て喜ぶから危ない」


 ヘルダが養生書を口にすると、リディアの匙は鍋の上で止まった。

 エミルは確かに、よく熱を出した。

 食べた後に眠くなることもあった。


 だからリディアは、鍋から匙を引いた。


 エミルは椀を見ていた。

 両手を椀に添えたまま、鍋を見ていた。


「今日はここまでにしようね」


 リディアが言うと、エミルは一度だけヘルダを見た。

 それから、うなずいた。


「うん、分かった」


 その日の残りの粥は、ヘルダの家の鍋へ入った。

 ヘルダは悪びれなかった。


「うちで食べるよ。残すよりいいだろ」


 その時、リディアは姉の鍋へ移る粥を見ていた。


 それから、エミルは二杯目を欲しがらなくなった。

 椀に湯気が立っていても、少し待つようになった。

 椀の底に残る麦が増え、洗い桶へ運ぶ手だけが早くなった。


 リディアは、椀に残った麦ごと洗い桶へ入れた。

 桶の水が白く濁っても、姉の鍋へ移した二杯目の方は見なかった。


 ヘルダは、エミルの腹を見ていたのではない。

 二杯目をよそったあとで、もしエミルが戻したら。

 もし腹を痛がったら。

 もし誰かに、食べさせすぎだと言われたら。


 その時に傷つくリディアを、先に見ていた。


「あんたが責められる前に、止めてるんだよ」


 ヘルダは一度だけ、そう言ったことがある。


 その時、リディアの手は鍋から離れた。

 ヘルダが止めれば、二杯目をよそうか自分で決めずに済んだ。


 数日後、エミルは二杯目を欲しがる前に、椀を自分で洗い桶へ運んだ。


「もういいの?」


 リディアが聞くと、エミルはうなずいた。


「もういいよ」


 椀の底には、まだ麦が少し残っていた。

 前なら、匙で集めて食べていたはずだ。

 エミルは椀の外へ目をそらした。


 リディアは椀を受け取った。

 もう一度よそうかと聞けばいい。

 そう思った。

 だが竈の奥に、姉の声が残っていた。


 親が安心したいから食べさせるのは、親の欲だよ。


 リディアは口を閉じた。


 エミルは、小さくうなずいた。

 リディアは、そのうなずきから目をそらし、椀を洗い桶へ入れた。


 二杯目を欲しがらない子になった、と言えば聞こえはよかった。


 だが違う。


 エミルは腹の声をなくしたのではない。

 椀を差し出す前に、母の手元を見るようになったのだ。


 鍋へ匙が戻るか。

 扉の前の姉が何か言うか。

 母が困った顔をするか。


 それを見てから、欲しいかどうかを決める子になった。


 そんな朝昼晩が重なるたび、エミルの椀に残る粥は増え、欲しいと言う声は減っていった。


   *


 エミルは、よく気づく子でもあった。


 桶の音が軽い。

 薪が湿っている。

 鍋の匂いが薄い。

 母が昨日より背を丸めている。


 そういうことを、すぐ口にした。


 ある昼、ヘルダの家で煮ている鍋を見て、エミルが言った。


「伯母さんの鍋、うちより豆が多い」


 悪気はなかった。

 ただ、見えたことを言っただけだ。


 ヘルダは笑った。


「よく見てるねえ」


 だが、そのあとが続いた。


「でも、余計なことを言う子は、外で嫌われるよ」


 リディアは身を固くした。


「子どもだから」


「子どもだから、今のうちに教えるんだよ」


 ヘルダは鍋をかき混ぜながら言った。


「気づいても、飲み込む稽古をさせな。何でも口に出すのは、あの子のためにならない」


 外では、言わない方がいいこともある。

 人前で鍋の中身を比べるのは、確かに行儀が悪い。


 だからリディアは、エミルへ言った。


「今は黙って」


 エミルの声が、言葉の途中で切れた。


 言い終える前に口を閉じたエミルの姿が、今でもリディアの目に残っている。


 ある日、エミルが庭の濡れた石を指さしかけた。

 リディアは、その指を見るだけで言った。


「今はいいから」


 エミルは、指を下ろした。

 石は濡れていた。

 そのあと、リディアはそこで滑った。


 エミルは、助け起こしながら泣きそうな顔をしていた。

 それでも、濡れた石を指さし直さなかった。


 エミルは、よく見る子のままだった。

 そのぶん、黙るのが上手くなった。


   *


 エミルは、手を出す子でもあった。


 竈のそばで小枝を分ける。

 椀を並べる。

 桶の水をほんの少しだけ運ぶ。


 手つきは遅い。

 でも丁寧だった。


 ある朝、エミルが火かき棒を持った。


「僕、これ動かせる」


 リディアは笑いかけた。

 その時は、任せてみようと思った。

 だが、ヘルダが来た。


「やめさせな」


 エミルの手が止まる。


「あの子の手つきは遅い。火のそばに置くと危ないよ」


「でも、やりたがって」


「できないことをさせるのは、親の欲だよ」


 リディアは火かき棒を取った。


「危ないから、いいよ」


 火傷をしたわけではない。

 灰を散らしたわけでもない。

 ただ、やる前に止められた。


 母が迷えば手を引く癖は、外へ出る時にも残った。


 町の端で、子どもたちが読み書きの板を囲んでいた。

 エミルは遠くから見ていた。

 指先が、空中で小さく動いている。

 見た線を真似しているのだ。


「行ってみる?」


 リディアが聞くと、エミルは振り返った。


「行っていいの?」


 その顔は明るかった。


 リディアはうなずきかけた。

 だが、ヘルダが低く言った。


「周りと比べられたら、あの子がつらいよ」


「見てるだけでも」


「外へ出るのが怖くなる前に、家で守ってやりな。外へ出すだけが育てることじゃない」


 その言葉を聞くたび、家の扉を内側から閉められたように感じた。

 外は危ない。

 人は見る。

 早めに傷を避けてやるのが、親の務め。


 どれも正しかった。

 正しいから、反論すると、子どもを危険にさらす母に見えた。


 リディアは言った。


「今日は、見るだけにしよう」


 エミルは、読み書きの板を見た。

 それから、うなずいた。


「うん。僕は、まだいい」


 その日から、エミルは行きたい場所にも、持ちたい道具にも、食べたい粥にも「まだいい」と言うようになった。


 エミルにそう言わせたのは、ヘルダだけではない。

 ヘルダの言葉を毎日の家の中で使った、リディア自身だった。


 だから今、冷めるまで椀へ手を出さないエミルを、見過ごすことはできなかった。


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