第十一話 亡霊の正論が棲む家(5)
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昔のエミルは、よく食べる子だった。
匙を持つのは少し遅い。
椀を抱える手も小さい。
けれど、粥を前にすると目が明るくなった。
熱い粥を出すと、まず大きく息を吸う。
それから、ふう、と吹く。
一度では冷めない。
二度、三度、吹く。
それでも熱ければ、匙を持ったまま待つ。
待つが、今のような待ち方ではなかった。
匙を離さず、湯気を見たまま待った。
ある朝、エミルは二杯目を欲しがった。
「もう少し食べたい」
リディアが鍋へ匙を入れようとした時、姉のヘルダが言った。
「育ちがゆっくりな子に、腹いっぱい食べさせりゃいいってもんじゃないよ」
ヘルダは扉の前に立っていた。
自分の家の桶を抱えている。
いつ来たのか分からないくらい、自然にそこにいた。
「でも、欲しがってる」
「欲しがるまま食べさせるのは、親が安心したいだけだよ」
「胃が弱い子は、少し足りないくらいがいい。施療院の養生書にもある」
「エミルは、今朝はよく食べてる」
「よく食べた朝ほど、あとで苦しくなるんだよ。あんたは、その場だけ見て喜ぶから危ない」
ヘルダが養生書を口にすると、リディアの匙は鍋の上で止まった。
エミルは確かに、よく熱を出した。
食べた後に眠くなることもあった。
だからリディアは、鍋から匙を引いた。
エミルは椀を見ていた。
両手を椀に添えたまま、鍋を見ていた。
「今日はここまでにしようね」
リディアが言うと、エミルは一度だけヘルダを見た。
それから、うなずいた。
「うん、分かった」
その日の残りの粥は、ヘルダの家の鍋へ入った。
ヘルダは悪びれなかった。
「うちで食べるよ。残すよりいいだろ」
その時、リディアは姉の鍋へ移る粥を見ていた。
それから、エミルは二杯目を欲しがらなくなった。
椀に湯気が立っていても、少し待つようになった。
椀の底に残る麦が増え、洗い桶へ運ぶ手だけが早くなった。
リディアは、椀に残った麦ごと洗い桶へ入れた。
桶の水が白く濁っても、姉の鍋へ移した二杯目の方は見なかった。
ヘルダは、エミルの腹を見ていたのではない。
二杯目をよそったあとで、もしエミルが戻したら。
もし腹を痛がったら。
もし誰かに、食べさせすぎだと言われたら。
その時に傷つくリディアを、先に見ていた。
「あんたが責められる前に、止めてるんだよ」
ヘルダは一度だけ、そう言ったことがある。
その時、リディアの手は鍋から離れた。
ヘルダが止めれば、二杯目をよそうか自分で決めずに済んだ。
数日後、エミルは二杯目を欲しがる前に、椀を自分で洗い桶へ運んだ。
「もういいの?」
リディアが聞くと、エミルはうなずいた。
「もういいよ」
椀の底には、まだ麦が少し残っていた。
前なら、匙で集めて食べていたはずだ。
エミルは椀の外へ目をそらした。
リディアは椀を受け取った。
もう一度よそうかと聞けばいい。
そう思った。
だが竈の奥に、姉の声が残っていた。
親が安心したいから食べさせるのは、親の欲だよ。
リディアは口を閉じた。
エミルは、小さくうなずいた。
リディアは、そのうなずきから目をそらし、椀を洗い桶へ入れた。
二杯目を欲しがらない子になった、と言えば聞こえはよかった。
だが違う。
エミルは腹の声をなくしたのではない。
椀を差し出す前に、母の手元を見るようになったのだ。
鍋へ匙が戻るか。
扉の前の姉が何か言うか。
母が困った顔をするか。
それを見てから、欲しいかどうかを決める子になった。
そんな朝昼晩が重なるたび、エミルの椀に残る粥は増え、欲しいと言う声は減っていった。
*
エミルは、よく気づく子でもあった。
桶の音が軽い。
薪が湿っている。
鍋の匂いが薄い。
母が昨日より背を丸めている。
そういうことを、すぐ口にした。
ある昼、ヘルダの家で煮ている鍋を見て、エミルが言った。
「伯母さんの鍋、うちより豆が多い」
悪気はなかった。
ただ、見えたことを言っただけだ。
ヘルダは笑った。
「よく見てるねえ」
だが、そのあとが続いた。
「でも、余計なことを言う子は、外で嫌われるよ」
リディアは身を固くした。
「子どもだから」
「子どもだから、今のうちに教えるんだよ」
ヘルダは鍋をかき混ぜながら言った。
「気づいても、飲み込む稽古をさせな。何でも口に出すのは、あの子のためにならない」
外では、言わない方がいいこともある。
人前で鍋の中身を比べるのは、確かに行儀が悪い。
だからリディアは、エミルへ言った。
「今は黙って」
エミルの声が、言葉の途中で切れた。
言い終える前に口を閉じたエミルの姿が、今でもリディアの目に残っている。
ある日、エミルが庭の濡れた石を指さしかけた。
リディアは、その指を見るだけで言った。
「今はいいから」
エミルは、指を下ろした。
石は濡れていた。
そのあと、リディアはそこで滑った。
エミルは、助け起こしながら泣きそうな顔をしていた。
それでも、濡れた石を指さし直さなかった。
エミルは、よく見る子のままだった。
そのぶん、黙るのが上手くなった。
*
エミルは、手を出す子でもあった。
竈のそばで小枝を分ける。
椀を並べる。
桶の水をほんの少しだけ運ぶ。
手つきは遅い。
でも丁寧だった。
ある朝、エミルが火かき棒を持った。
「僕、これ動かせる」
リディアは笑いかけた。
その時は、任せてみようと思った。
だが、ヘルダが来た。
「やめさせな」
エミルの手が止まる。
「あの子の手つきは遅い。火のそばに置くと危ないよ」
「でも、やりたがって」
「できないことをさせるのは、親の欲だよ」
リディアは火かき棒を取った。
「危ないから、いいよ」
火傷をしたわけではない。
灰を散らしたわけでもない。
ただ、やる前に止められた。
母が迷えば手を引く癖は、外へ出る時にも残った。
町の端で、子どもたちが読み書きの板を囲んでいた。
エミルは遠くから見ていた。
指先が、空中で小さく動いている。
見た線を真似しているのだ。
「行ってみる?」
リディアが聞くと、エミルは振り返った。
「行っていいの?」
その顔は明るかった。
リディアはうなずきかけた。
だが、ヘルダが低く言った。
「周りと比べられたら、あの子がつらいよ」
「見てるだけでも」
「外へ出るのが怖くなる前に、家で守ってやりな。外へ出すだけが育てることじゃない」
その言葉を聞くたび、家の扉を内側から閉められたように感じた。
外は危ない。
人は見る。
早めに傷を避けてやるのが、親の務め。
どれも正しかった。
正しいから、反論すると、子どもを危険にさらす母に見えた。
リディアは言った。
「今日は、見るだけにしよう」
エミルは、読み書きの板を見た。
それから、うなずいた。
「うん。僕は、まだいい」
その日から、エミルは行きたい場所にも、持ちたい道具にも、食べたい粥にも「まだいい」と言うようになった。
エミルにそう言わせたのは、ヘルダだけではない。
ヘルダの言葉を毎日の家の中で使った、リディア自身だった。
だから今、冷めるまで椀へ手を出さないエミルを、見過ごすことはできなかった。




