第十一話 亡霊の正論が棲む家(4)
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しばらくして、リディアの家の中だけが急に冷えた。
雨はやんでいない。
外は、朝から変わらない雨雲で暗い。
リュカは顔を上げた。
竈の灰に赤みは残っている。
鍋もまだ温かい。
だが、匂いが変だった。
鍋には温め直した粥の匂いがあるのに、エミルの椀へ近づくと薄くなる。
エミルは寝台の端に座り、リディアが温め直した粥の椀を前にしていた。
湯気が立っていた。
細いが、確かに立っていた。
その時、外から煙の匂いが入った。
濡れた木が燃える匂いではない。
古い竈が、ひと息だけ思い出したように火を吸う匂いだった。
リディアの肩がこわばる。
通りの先。
誰もいない姉の家から、煙が上がっていた。
雨の中なのに、煙は乱れない。
屋根の上で、一本だけ細く立っている。
リディアはそれを見た。
エミルの椀には、まだ湯気があった。
細い。
でも確かにあった。
リディアの唇が動いた。
「……冷ましておきな」
言ってから、リディアは自分の口に手を当てた。
今の声は、自分の声だった。
だが、言い方は姉のものだった。
エミルは匙を置いた。
湯気が、椀の縁で消えた。
けれど、リュカは見ていた。
エミルは、その直前に一度、匙を持っていた。
粥の表面へ、細い筋が入った。
ほんの少しだけ、椀の縁に麦の粒も寄っていた。
それが、次に見た時にはなくなっている。
匙は乾いている。
粥は平らだ。
エミルの指先にだけ、麦の粒が一つ残っていた。
エミルは、それを隠すように指を握った。
食べようとした事実まで、「まだ食べていない」ことに戻される。
その場に残ったのは、本人の指先だけだった。
リュカは、姉の家ではなく、リディアを見た。
「今のは、誰の言葉だ」
リディアは唇を開きかけ、そのまま閉じた。
外の煙は、まっすぐ立っている。
姉の家の扉は閉まっている。
窓も閉まっている。
誰もいない。
リディアは、姉の家から目を戻せなかった。
「私は、どうして……」
リディアは言いかけて、やめた。
エミルは椀を見ている。
湯気の消えた椀を、いつもの場所へ少しだけ遠ざけた。
リュカはその手を見た。
「火を見に行くのか」
リディアは火皿を探り当て、その縁をつかんだ。
身体の方が先に動いている。
「見てくるだけ」
「誰もいない家へ行くのか」
「姉さんの家だよ」
「誰もいないんだろ」
「だから、見に行く」
リディアは、何度も同じ言い方で姉の家へ向かった。
見に行くだけ、と言えば、エミルの椀から離れやすかった。
リュカはエミルの椀を指した。
「あんたが姉の家を見ている間に、エミルの粥が冷えてる」
リディアは火皿を握ったまま動けなかった。
外では、誰もいない家の煙だけが、雨の中でまっすぐ上がっていた。
結局、その時、リディアは火皿を姉の家へ運ばなかった。
ただ、姉の家の方を見に行くことだけはやめられなかった。
リュカもついて行った。
エミルは入口に立ったが、リディアが振り返ると一歩引いた。
「一緒に来る?」
問い終えたリディアの目が、エミルと雨の通りの間で揺れた。
来させるのが正しいのか、家に置くのが正しいのか、すぐには分からない。
「僕は、ここでいい」
リディアは胸元の布を握った。
だが、エミルへ声をかける前に、リュカが言った。
「家の前までなら、一緒に歩ける」
エミルはリディアを見た。
リディアは、今度はうなずいた。
三人は姉の家の前まで歩き、閉まった扉と屋根の煙を見た。
リディアは鍵を出さず、そのまま引き返した。
姉の家から戻る途中、近所の老婆が扉を少しだけ開けた。
「また煙かい」
名をベルタといった。
腰は曲がっているが、目はよく動く。
リディアは、雨に濡れた道へ目を伏せた。
ベルタはエミルを見た。
エミルはすぐ目を伏せる。
「その子、昔はよく喋ったね」
リディアは足を止めた。
「そうでしたか」
「あんたが忘れてどうする」
ベルタは扉の隙間から、雨の通りを見た。
「桶の音だけで、水の残りが分かる子だったよ」
ベルタは少しだけ目を細めた。
「あたしの家の薪が湿ってるのも、誰より先に言った」
エミルは小さく肩をすくめた。
ベルタはその肩を見て、少し顔をしかめた。
「言わせな。子どもの口は、うるさいくらいでちょうどいい」
ヘルダなら、何と言っただろう。
余計なことを言う子は嫌われる。
飲み込む稽古をさせな。
リディアの口に、その言葉が上がってきた。
だが、ベルタの前では出なかった。
代わりに、リディアはエミルへ言った。
「さっき、煙のことを言ったね」
エミルはうなずいた。
「細いって言った」
「見えてたんだね」
エミルは、ほんの少しだけ顔を上げた。
家へ戻っても、リュカは姉の家の中を見せろとは言わなかった。
だが、リディアは自分から鍵を手にした。
「見るだけだよ」
三人で、雨の中を姉の家まで歩いた。
道はぬかるんでいる。
エミルは遅い。
でも、施療院から帰る時の橋と同じで、遅いだけだった。
リディアは鍵を差し込み、姉の家の扉を開けた。
中は、思っていたより荒れていなかった。
荒れていないことの方が、かえって嫌だった。
誰も寝ていない寝台。
使われないまま伏せられた椀。
壁に掛かった布。
棚の端に置かれた養生書。
リディアが、ときどき手を入れていたのだ。
埃が積もり切らないように。
外から見て、捨てた家に見えないように。
エミルは入口で止まった。
「入っていい?」
リディアはうなずいた。
エミルは靴の泥を石で落としてから入る。
姉なら「遅い」と言ったかもしれない。
リディアは、泥を落とすエミルの手を待った。
棚の養生書を、リュカが開いた。
薬草の絵と、食べ物の量の目安が書いてある。
たしかに、胃の弱い子に無理をさせるなという一文がある。
だが、そのすぐ下には、顔色を見て増やすこと、欲しがる時は少しずつ足すこと、とも書いてあった。
ヘルダは、都合のいい行だけを読んでいた。
リュカは本を閉じた。
「本は悪くない」
リディアは棚を見た。
「姉さんが悪いってこと?」
「本のせいにも、姉のせいだけにもできない」
エミルが、棚の下から小さな板切れを拾った。
昔、読み書きの真似をして灰で線を書いた時の板だ。
リディアはそれを覚えていた。
「捨ててなかったんだ」
エミルが言う。
リディアは、エミルの手にある板切れを見た。
姉の家を手放せず、掃除も薪積みも続けていた。
掃除の布を置くたび、棚の板切れと、外へ出たいと言ったエミルの顔が目に入った。
外でまた雨が強くなる。
姉の家の中は暗い。
だが、エミルは板切れを胸に抱えなかった。
ただ、リディアへ差し出した。
「持って帰っていい?」
リディアは、今度はすぐに言った。
「持って帰っていいよ」
姉の家から、エミルのものを一つ持ち帰る。
煙を止める前に、まずそれをした。
外へ出ると、リディアは姉の家の扉を閉めた。
扉の隙間から煙が出ているようには見えない。
屋根の上だけに、細い煙が立っている。
扉の下の隙間から、黒い煤が一本伸びていた。
濡れた木目を、外へ這うような短い筋だ。
リディアはそれを見て、手を伸ばしかけた。
だが触らない。
「いつからだ」
リュカが聞く。
「ヘルダが戻らなくなってから」
「いつもじゃないと言ったな」
「エミルの行き先や椀を、私が先に決めようとした時だけ」
リディアの声はかすれていた。
「エミルを預けようと決めた時。あの子の稽古を休ませようと決めた時。粥を減らそうと決めた時」
リディアは息を継いだ。
「そういう時に、ここから煙が出る」
「それを見て、あんたは何を思い出す」
「ヘルダの言葉を思い出す」
リディアは言った。
そして、すぐ首を振る。
「違う。思い出すだけじゃない。言ってしまう」
エミルは扉の下を見ていた。
煤の筋へ指を伸ばしかけて、やめた。
またリディアを見る。
リディアは、今度は止めなかった。
「触っていい」
エミルはしゃがみ、指で煤の近くをなぞった。
触れたのは扉の濡れた木目だけだ。
煤そのものには触れなかった。
「黒いの、外へ出たがってるみたい」
エミルは小さく言った。
リディアの唇が、一度だけ開いた。
今なら叱らない。
余計なことを言うなとも言わない。
リュカは煤を見た。
「見えてるものを、見えてると言っただけだ」
エミルは顔を上げた。
リディアも、少し遅れてうなずいた。
「そうだね、見えてる」
それだけだった。
だが、エミルの口元がほんの少し動いた。
そのわずかな動きが、昔のエミルの顔を連れてきた。




