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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十一話 亡霊の正論が棲む家(4)

   *


 しばらくして、リディアの家の中だけが急に冷えた。


 雨はやんでいない。

 外は、朝から変わらない雨雲で暗い。


 リュカは顔を上げた。

 竈の灰に赤みは残っている。

 鍋もまだ温かい。


 だが、匂いが変だった。


 鍋には温め直した粥の匂いがあるのに、エミルの椀へ近づくと薄くなる。


 エミルは寝台の端に座り、リディアが温め直した粥の椀を前にしていた。


 湯気が立っていた。

 細いが、確かに立っていた。


 その時、外から煙の匂いが入った。


 濡れた木が燃える匂いではない。

 古い竈が、ひと息だけ思い出したように火を吸う匂いだった。


 リディアの肩がこわばる。


 通りの先。

 誰もいない姉の家から、煙が上がっていた。


 雨の中なのに、煙は乱れない。

 屋根の上で、一本だけ細く立っている。


 リディアはそれを見た。


 エミルの椀には、まだ湯気があった。

 細い。

 でも確かにあった。


 リディアの唇が動いた。


「……冷ましておきな」


 言ってから、リディアは自分の口に手を当てた。


 今の声は、自分の声だった。

 だが、言い方は姉のものだった。


 エミルは匙を置いた。


 湯気が、椀の縁で消えた。


 けれど、リュカは見ていた。


 エミルは、その直前に一度、匙を持っていた。

 粥の表面へ、細い筋が入った。

 ほんの少しだけ、椀の縁に麦の粒も寄っていた。


 それが、次に見た時にはなくなっている。


 匙は乾いている。

 粥は平らだ。

 エミルの指先にだけ、麦の粒が一つ残っていた。


 エミルは、それを隠すように指を握った。


 食べようとした事実まで、「まだ食べていない」ことに戻される。

 その場に残ったのは、本人の指先だけだった。


 リュカは、姉の家ではなく、リディアを見た。


「今のは、誰の言葉だ」


 リディアは唇を開きかけ、そのまま閉じた。


 外の煙は、まっすぐ立っている。

 姉の家の扉は閉まっている。

 窓も閉まっている。


 誰もいない。


 リディアは、姉の家から目を戻せなかった。


「私は、どうして……」


 リディアは言いかけて、やめた。


 エミルは椀を見ている。

 湯気の消えた椀を、いつもの場所へ少しだけ遠ざけた。


 リュカはその手を見た。


「火を見に行くのか」


 リディアは火皿を探り当て、その縁をつかんだ。

 身体の方が先に動いている。


「見てくるだけ」


「誰もいない家へ行くのか」


「姉さんの家だよ」


「誰もいないんだろ」


「だから、見に行く」


 リディアは、何度も同じ言い方で姉の家へ向かった。

 見に行くだけ、と言えば、エミルの椀から離れやすかった。

 リュカはエミルの椀を指した。


「あんたが姉の家を見ている間に、エミルの粥が冷えてる」


 リディアは火皿を握ったまま動けなかった。

 外では、誰もいない家の煙だけが、雨の中でまっすぐ上がっていた。

 結局、その時、リディアは火皿を姉の家へ運ばなかった。


 ただ、姉の家の方を見に行くことだけはやめられなかった。

 リュカもついて行った。

 エミルは入口に立ったが、リディアが振り返ると一歩引いた。


「一緒に来る?」


 問い終えたリディアの目が、エミルと雨の通りの間で揺れた。

 来させるのが正しいのか、家に置くのが正しいのか、すぐには分からない。


「僕は、ここでいい」


 リディアは胸元の布を握った。

 だが、エミルへ声をかける前に、リュカが言った。


「家の前までなら、一緒に歩ける」


 エミルはリディアを見た。

 リディアは、今度はうなずいた。


 三人は姉の家の前まで歩き、閉まった扉と屋根の煙を見た。

 リディアは鍵を出さず、そのまま引き返した。


 姉の家から戻る途中、近所の老婆が扉を少しだけ開けた。


「また煙かい」


 名をベルタといった。

 腰は曲がっているが、目はよく動く。


 リディアは、雨に濡れた道へ目を伏せた。


 ベルタはエミルを見た。

 エミルはすぐ目を伏せる。


「その子、昔はよく喋ったね」


 リディアは足を止めた。


「そうでしたか」


「あんたが忘れてどうする」


 ベルタは扉の隙間から、雨の通りを見た。


「桶の音だけで、水の残りが分かる子だったよ」


 ベルタは少しだけ目を細めた。


「あたしの家の薪が湿ってるのも、誰より先に言った」


 エミルは小さく肩をすくめた。

 ベルタはその肩を見て、少し顔をしかめた。


「言わせな。子どもの口は、うるさいくらいでちょうどいい」


 ヘルダなら、何と言っただろう。

 余計なことを言う子は嫌われる。

 飲み込む稽古をさせな。


 リディアの口に、その言葉が上がってきた。

 だが、ベルタの前では出なかった。


 代わりに、リディアはエミルへ言った。


「さっき、煙のことを言ったね」


 エミルはうなずいた。


「細いって言った」


「見えてたんだね」


 エミルは、ほんの少しだけ顔を上げた。


 家へ戻っても、リュカは姉の家の中を見せろとは言わなかった。


 だが、リディアは自分から鍵を手にした。


「見るだけだよ」


 三人で、雨の中を姉の家まで歩いた。

 道はぬかるんでいる。

 エミルは遅い。

 でも、施療院から帰る時の橋と同じで、遅いだけだった。


 リディアは鍵を差し込み、姉の家の扉を開けた。


 中は、思っていたより荒れていなかった。

 荒れていないことの方が、かえって嫌だった。

 誰も寝ていない寝台。

 使われないまま伏せられた椀。

 壁に掛かった布。

 棚の端に置かれた養生書。


 リディアが、ときどき手を入れていたのだ。

 埃が積もり切らないように。

 外から見て、捨てた家に見えないように。


 エミルは入口で止まった。


「入っていい?」


 リディアはうなずいた。


 エミルは靴の泥を石で落としてから入る。

 姉なら「遅い」と言ったかもしれない。

 リディアは、泥を落とすエミルの手を待った。


 棚の養生書を、リュカが開いた。

 薬草の絵と、食べ物の量の目安が書いてある。

 たしかに、胃の弱い子に無理をさせるなという一文がある。

 だが、そのすぐ下には、顔色を見て増やすこと、欲しがる時は少しずつ足すこと、とも書いてあった。


 ヘルダは、都合のいい行だけを読んでいた。


 リュカは本を閉じた。


「本は悪くない」


 リディアは棚を見た。


「姉さんが悪いってこと?」


「本のせいにも、姉のせいだけにもできない」


 エミルが、棚の下から小さな板切れを拾った。

 昔、読み書きの真似をして灰で線を書いた時の板だ。

 リディアはそれを覚えていた。


「捨ててなかったんだ」


 エミルが言う。


 リディアは、エミルの手にある板切れを見た。


 姉の家を手放せず、掃除も薪積みも続けていた。

 掃除の布を置くたび、棚の板切れと、外へ出たいと言ったエミルの顔が目に入った。


 外でまた雨が強くなる。

 姉の家の中は暗い。

 だが、エミルは板切れを胸に抱えなかった。

 ただ、リディアへ差し出した。


「持って帰っていい?」


 リディアは、今度はすぐに言った。


「持って帰っていいよ」


 姉の家から、エミルのものを一つ持ち帰る。

 煙を止める前に、まずそれをした。


 外へ出ると、リディアは姉の家の扉を閉めた。

 扉の隙間から煙が出ているようには見えない。

 屋根の上だけに、細い煙が立っている。


 扉の下の隙間から、黒い煤が一本伸びていた。

 濡れた木目を、外へ這うような短い筋だ。


 リディアはそれを見て、手を伸ばしかけた。

 だが触らない。


「いつからだ」


 リュカが聞く。


「ヘルダが戻らなくなってから」


「いつもじゃないと言ったな」


「エミルの行き先や椀を、私が先に決めようとした時だけ」


 リディアの声はかすれていた。


「エミルを預けようと決めた時。あの子の稽古を休ませようと決めた時。粥を減らそうと決めた時」


 リディアは息を継いだ。


「そういう時に、ここから煙が出る」


「それを見て、あんたは何を思い出す」


「ヘルダの言葉を思い出す」


 リディアは言った。

 そして、すぐ首を振る。


「違う。思い出すだけじゃない。言ってしまう」


 エミルは扉の下を見ていた。

 煤の筋へ指を伸ばしかけて、やめた。

 またリディアを見る。


 リディアは、今度は止めなかった。


「触っていい」


 エミルはしゃがみ、指で煤の近くをなぞった。

 触れたのは扉の濡れた木目だけだ。

 煤そのものには触れなかった。


「黒いの、外へ出たがってるみたい」


 エミルは小さく言った。


 リディアの唇が、一度だけ開いた。

 今なら叱らない。

 余計なことを言うなとも言わない。


 リュカは煤を見た。


「見えてるものを、見えてると言っただけだ」


 エミルは顔を上げた。

 リディアも、少し遅れてうなずいた。


「そうだね、見えてる」


 それだけだった。

 だが、エミルの口元がほんの少し動いた。


 そのわずかな動きが、昔のエミルの顔を連れてきた。


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