第十一話 亡霊の正論が棲む家(3)
*
粥は、すぐにできた。
できたというより、水で延ばした。
豆は少ない。
麦の粒も少ない。
魚粉の匂いが、ほんの少しだけある。
リディアは三つの椀を並べた。
リュカの前。
自分の前。
エミルの前。
エミルの椀だけ、少し離して置かれた。
リュカは、少し離れたエミルの椀へ目を止めた。
リディアの家に入ってからも、エミルは包みをほどかなかった。
扉の脇に置いたまま、時々そこを見る。
リュカは濡れた外套をかけながら聞いた。
「それ、しまわないのか」
エミルは包みを見る。
「また使うかもしれない」
リディアの手が止まった。
もう使わないと、そう言うべきだった。
だが、言えなかった。
自分もまた、使うかもしれないと思っていたからだ。
使わずに済ませたい。
でも、次に迷った時は、またこの包みを持たせるかもしれない。
リュカは包みを手に取らなかった。
ただ、扉のそばの濡れた石を指した。
「そこだと湿る」
エミルはすぐ包みを持ち上げた。
「どこならいい?」
「自分で決めろ」
エミルは棚と寝台の足元を見比べた。
リディアは言いかけた。
棚の下へ、と。
だが、そこで止めた。
エミルは寝台の足元へ包みを置いた。
そこなら濡れない。
邪魔にもならない。
それでいて、すぐ持てる。
粥からは、かすかに湯気が立っている。
すぐ消えそうな湯気だった。
エミルは匙を持たない。
「食べていいよ」
リディアが言う。
エミルは椀を見た。
「まだ熱いよ」
「少しだけだよ」
「もう少し待つ」
その声は、施療院で「冷めてからでいい」と言った時と同じだった。
リディアの顔がこわばる。
「さっきも、それ言ったね」
「うん。いつも待つから」
「誰に言われたの」
エミルは匙へ目を落とした。
指先で、まだ使っていない匙の先を一度だけなぞった。
リディアは何かを言いかけた。
だが言葉が出る前に、別の言葉が口へ上がってきた。
熱いと喉に悪いから。
急がせると、あの子がつらくなるから。
待てる子にしてやるのも、親の務めだから。
姉の言葉だった。
リディアは、それを飲み込めなかった。
「熱いと、喉に悪いから」
口に出してしまった。
リュカが椀から目を上げた。
「誰の言葉だ」
リディアは椀の縁を見た。
エミルも、まだ手をつけていない粥へ目を戻した。
雨の音だけが、扉の向こうで太くなっていく。
リュカは粥を一口食べた。
薄い。
だが、温かい。
「熱いものは、冷ませる」
リディアが顔を上げる。
「何のことを言ってるの」
「冷めたものを温め直す方が、手間がかかる」
「そんなこと、分かってる」
「なら、吹くか待つかは、あの子に決めさせろ」
リディアは、椀の縁へ目を落とした。
エミルは椀を見たまま、小さく息を吹いた。
湯気はもう、ほとんど残っていなかった。
リディアは、まだ椀の縁から目を上げられなかった。
*
リュカとリディアが粥を食べ終えても、雨雲のせいで外は暗いままだった。
雨はやまなかった。
リュカは竈のそばに敷かれた古い敷布へ腰を下ろした。
エミルは奥の寝台に横になっている。
目を閉じているが、たぶん起きている。
リディアは、二人分の椀を洗っていた。
水を使いすぎないよう、布でぬぐい、少しだけ水を垂らす。
だが、ときどき扉の方を見る。
家の外。
雨の向こう。
通りの先。
リディアの目だけが、そこへ向いていた。
リュカは聞いた。
「その先に何がある」
リディアの手が止まる。
リディアは鍋の縁を布で拭いた。
「姉の家だよ。今は誰も住んでいない」
「それなのに、さっきからそっちばかり見ている」
リディアは布を強く絞った。
水がぽたりと落ちた。
「私が迷うと、煙が上がる」
リュカはそれ以上、すぐには聞かなかった。
「誰もいない家から?」
「そう。そこから」
「誰が焚くんだ」
「知らないよ」
リディアは短く言った。
「いつもなのか」
「いつもじゃない」
少し間があった。
「エミルのことを、私が先に決めようとした時だけ」
奥の寝台で、エミルが寝返りを打った。
リディアはそちらを見た。
だが、すぐに姉の家の方へ目が戻る。
その目の戻り方を、リュカは見た。
姉の家は、通りを二つ曲がった先にある。
リディアの家より少し大きい。
前はそこへ、物を借りに行くことも多かった。
鍋。
布。
薬草。
言葉。
ヘルダは何でも持っていた。
持っているように見せるのも上手かった。
入口の前の石は、今でもよく磨かれている。
誰が磨いているのかと聞かれれば、リディアは答えに詰まる。
自分だ。
だが、毎朝磨いているわけではない。
気づいた時だけ。
気づいてしまった時だけ。
去年の終わり、ヘルダは山向こうの施療院へ移された。
胸を悪くして、声が細くなっていた。
それでも、最後まで人へ指図した。
春を待たず、ヘルダはそこで死んだ。
この家の鍋を空にしないで。
通りから荒れて見えると、町の見栄えが悪くなる。
あんたの家ばかり見ていると、エミルのためにもならないよ。
その言葉のどこまでが本当にエミルのためで、どこからがリディアを動かすためだったのか。
リディアには、今でも分からない。
ヘルダは、死んでから急に強くなったわけではない。
生きていた時から、家の中の置き場を決めるのがうまかった。
鍋はここ。
薪はここ。
水桶はここ。
子どもは、ここまで。
それぞれの場所に、もっともらしい理由をつけた。
鍋を奥へ置くのは、子どもが触らないため。
薪をヘルダの家へ先に積むのは、通りから見えるから。
水桶をリディアの家の外へ置くのは、エミルが足を引っかけないため。
どれも、言われた瞬間にはなるほどと思えた。
だが気づけば、リディアは自分の家の朝支度より先に、ヘルダの家の鍋や薪を整えるようになっていた。
「あんたは考えすぎるから、私が先に決めてやってるんだよ」
そう言われると、リディアは鍋へ戻した匙から手を離した。
自分が迷いやすいのは本当だった。
エミルのことになると、なおさら迷った。
迷う母親のそばに、迷わない姉がいる。
最初は助かった。
そのうち、決める場所を奪われた。
今、誰もいないヘルダの家から煙が上がるたび、リディアの足は自分の竈ではなく姉の家へ向いた。
姉はもういない。
それでも、朝にどちらの家の鍋と薪を先に整えるかは、まだ姉に決められている。
ヘルダは戻らなかった。
家は閉じられたままだ。
竈も冷えた。
それなのに、リディアがエミルのことを先に決めようとする時だけ、煙が上がる。
誰かが焚いているのではない。
扉は閉まっている。
薪も動いていない。
煙だけが、家の中にまだ人がいるような顔をして屋根へ立つ。
煙が立つ時は、通りの声も少し低くなった。
井戸端の手が止まり、隣の家の扉が半分だけ開き、誰かが「今日は無理させない方がいい」と言った。
誰もヘルダの名は出さない。
それでも、その言い方はだいたいヘルダに似ていた。
それを見た時、リディアの中でまず動くのは、足ではない。
口だ。
姉の言葉が、自分の舌へ戻ってくる。
だからリディアは、煙を見るのが怖かった。
怖いのに、見に行かずにはいられなかった。
エミルが粥へ手を伸ばしたり、外へ出たいと言ったりする。
その瞬間に、リディアが不安になる。
すると、あの家の煙が立つ。
エミルの手が動くたび、リディアの肩と姉の家の煙が、ほとんど同時に動いた。
煙が先なのか、不安が先なのか。
リディアには分からない。
ただ、気づけば自分の口がヘルダの言葉を選んでいた。
雨が強くなった。
煙が上がるには、あまりに濡れた空だった。
それでも、またエミルのことを先に決めようとすれば、上がるのだろう。
リディアは、洗い終えた椀を伏せた。
音を立てないように置いたつもりだったが、縁が石へ当たり、小さく鳴った。
エミルがまた動いた。
「起こしたの?」
リディアが聞くと、エミルは目を閉じたまま答えた。
「起きてない」
リディアは布を握ったまま、しばらく動かなかった。




