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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十一話 亡霊の正論が棲む家(2)

   *


 施療院の門を出ると、雨はもう小雨ではなかった。


 石段の端から泥が流れ、道のくぼみへ黒く溜まっている。

 空は低い。

 朝でも昼でもないような暗さだった。


 エミルは包みを胸に抱えたまま、石段を一段ずつ降りた。


 リディアはその背を見ていた。

 小さい背中だった。

 包みの方が大きく見える。


「包み、貸しな」


 リディアは手を出した。


「自分で持つ」


 エミルは短く答えた。


「雨で濡れるよ」


「濡れてもいい」


「着替えが入ってる」


「じゃあ、濡らさないように持つ」


 リディアは手を引っ込めた。

 その手を、どこへ置けばいいのか分からなくなった。


 リュカは少し後ろを歩いていた。

 濡れた外套の端から、水がぽたぽた落ちている。

 何かを言いそうで、言わない。


 リディアはそれが腹立たしかった。


「あんたに止めてくれとは頼んでない」


 リュカは、雨の先を見たまま答えた。


「俺が言う前から、あんたは迷ってた」


「どうしてそう思うの」


 リディアは振り返った。

 リュカはエミルの方を顎で示した。


「温かい粥に手を出さないあの子を見て、あんたは最後の一画を書かなかった」


「……あの子は、昔からそうなの」


「昔から、温かいものを食べない子だったのか」


 リディアは、雨の先へ顔を戻した。

 雨が肩に当たる音だけが増えた。


 道の脇には、濡れた薪が積まれている。

 その向こうに、家がいくつか並んでいた。

 どの家も扉を閉めている。

 煙の出ていない家もある。

 煙の出ている家もある。


 エミルが一度だけ顔を上げた。


「母さん、あそこの煙、細い」


 リディアは反射で言った。


「見なくていい」


 エミルはすぐ口を閉じた。


 その早さに、リュカが目を向ける。


「……今は、道を見て歩きな」


 言い直したが、遅かった。

 エミルはもう道だけを見ている。


 石の間に水が走り、細い枝が流れていく。

 エミルはそれを踏まないように歩いた。

 足を滑らせない。

 転ばない。

 邪魔にならない。


 橋の手前で、雨がさらに強くなった。


 川というほど大きなものではない。

 山から落ちた水が、町の脇を通って下へ抜ける細い流れだ。

 だが、雨の日には急に膨らむ。


 橋板の一枚は、片端の釘が抜け、踏めば跳ね上がりそうになっていた。


 リディアは足を止めた。


「板が外れそうだから、別の橋まで回る」


 エミルが言った。


「遠回りすると、暗くなる」


「じゃあ、待つ」


「待っても雨は弱まない」


「じゃあ、母さんが先に行って」


 リディアは、思わずエミルを見た。


「一緒に渡る」


 リディアは言った。


「一緒に渡るの?」


「そう、一緒に渡る」


「僕、歩くの遅いよ」


「遅くていい」


 姉なら、遅い子には危ないと言って、エミルを橋の手前に待たせただろう。

 リュカが外れかけた橋板を踏んだ。

 浮いた端を靴で押さえ、エミルへ手を伸ばす。


「包みはどうする」


「自分で持つ」


「そうか、分かった」


 リュカは包みを奪わなかった。

 ただ、エミルが足を置く場所だけを指で示した。


「そこ。次は右。板の端を踏むな」


 エミルは言われた通りに歩いた。

 遅い。

 だが、ちゃんと渡る。


 橋を渡り切った時、エミルはほんの少しだけ息を吐いた。

 リディアは、その息を聞いた。


 そんな音を、リディアは最近聞いていなかった。


 橋を渡った後、エミルは自分の足元をもう一度見下ろした。


「少しだけ持たせて」


 エミルは包みを抱え直し、端だけをリディアへ差し出した。


「少しだけならいいよ」


 エミルは小さく答えた。


 二人で一つの包みを持って歩いた。

 重さはほとんど変わらない。

 けれど、エミルの肩の線が少しだけ緩んだ。


 リュカは後ろで、外れかけた橋板をもう一度見ていた。

 押さえていた足を離すと、釘の抜けた端がまた浮き上がった。

 誰かが釘を打ち直せば済むのに、皆が危ないと知りながら避けて通っている。


   *


 橋を渡って家路を進むうちに、雨は横から吹き込むようになった。


 扉の前の石は濡れ、軒先の縄は黒く垂れている。

 家々の煙は低く潰れ、屋根の上でほどけていた。


 リディアの家は、通りの奥にあった。


 小さい家だった。

 扉の脇には、古い鍋の蓋が壁へ立てかけてある。

 雨を避けるように、軒の奥へ寄せられていた。


 エミルが先に扉へ手をかける。

 だが開ける前に、リディアを見る。


「開けていいよ」


 リディアが言うと、エミルは扉を開けた。


 中は暗い。

 だが、竈の灰にはまだ赤みが残っていた。


 リディアはすぐ竈へ寄った。

 火の残りを確かめる手つきは早い。


 リディアはリュカへ布を投げた。


「濡れたまま立ってないで、使って」


「泊めるのか」


「この雨で追い出すほど、薄情じゃない」


「飯はあるか」


「薄い粥ならある」


「それでいい」


「よくないよ。水で延ばしただけだ」


「食わせてもらえば、礼は返す」


「返されるようなものは出ないよ」


 そう言って、リディアは鍋へ水を足した。


 足した水が、粥をさらに薄く広げた。


 エミルは濡れた包みを扉の脇に置き、棚から布を取って拭こうとした。

 リディアが振り向く。


「あとでいい」


 エミルの手が止まる。

 その瞬間、リディアも止まった。

 ほんの少しだけ遅れて、言い直す。


「……いや、拭いて。中まで濡れると困るから」


 エミルは、目を瞬かせた。


「拭いていいの?」


「拭いていいよ」


 エミルは包みを開けず、外側だけ丁寧に拭いた。

 手つきは遅い。

 でも雑ではない。


 リュカはそれを見ていた。


 リディアは、エミルが包みを拭き終えるまで言葉を挟まなかった。


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