第十一話 亡霊の正論が棲む家(2)
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施療院の門を出ると、雨はもう小雨ではなかった。
石段の端から泥が流れ、道のくぼみへ黒く溜まっている。
空は低い。
朝でも昼でもないような暗さだった。
エミルは包みを胸に抱えたまま、石段を一段ずつ降りた。
リディアはその背を見ていた。
小さい背中だった。
包みの方が大きく見える。
「包み、貸しな」
リディアは手を出した。
「自分で持つ」
エミルは短く答えた。
「雨で濡れるよ」
「濡れてもいい」
「着替えが入ってる」
「じゃあ、濡らさないように持つ」
リディアは手を引っ込めた。
その手を、どこへ置けばいいのか分からなくなった。
リュカは少し後ろを歩いていた。
濡れた外套の端から、水がぽたぽた落ちている。
何かを言いそうで、言わない。
リディアはそれが腹立たしかった。
「あんたに止めてくれとは頼んでない」
リュカは、雨の先を見たまま答えた。
「俺が言う前から、あんたは迷ってた」
「どうしてそう思うの」
リディアは振り返った。
リュカはエミルの方を顎で示した。
「温かい粥に手を出さないあの子を見て、あんたは最後の一画を書かなかった」
「……あの子は、昔からそうなの」
「昔から、温かいものを食べない子だったのか」
リディアは、雨の先へ顔を戻した。
雨が肩に当たる音だけが増えた。
道の脇には、濡れた薪が積まれている。
その向こうに、家がいくつか並んでいた。
どの家も扉を閉めている。
煙の出ていない家もある。
煙の出ている家もある。
エミルが一度だけ顔を上げた。
「母さん、あそこの煙、細い」
リディアは反射で言った。
「見なくていい」
エミルはすぐ口を閉じた。
その早さに、リュカが目を向ける。
「……今は、道を見て歩きな」
言い直したが、遅かった。
エミルはもう道だけを見ている。
石の間に水が走り、細い枝が流れていく。
エミルはそれを踏まないように歩いた。
足を滑らせない。
転ばない。
邪魔にならない。
橋の手前で、雨がさらに強くなった。
川というほど大きなものではない。
山から落ちた水が、町の脇を通って下へ抜ける細い流れだ。
だが、雨の日には急に膨らむ。
橋板の一枚は、片端の釘が抜け、踏めば跳ね上がりそうになっていた。
リディアは足を止めた。
「板が外れそうだから、別の橋まで回る」
エミルが言った。
「遠回りすると、暗くなる」
「じゃあ、待つ」
「待っても雨は弱まない」
「じゃあ、母さんが先に行って」
リディアは、思わずエミルを見た。
「一緒に渡る」
リディアは言った。
「一緒に渡るの?」
「そう、一緒に渡る」
「僕、歩くの遅いよ」
「遅くていい」
姉なら、遅い子には危ないと言って、エミルを橋の手前に待たせただろう。
リュカが外れかけた橋板を踏んだ。
浮いた端を靴で押さえ、エミルへ手を伸ばす。
「包みはどうする」
「自分で持つ」
「そうか、分かった」
リュカは包みを奪わなかった。
ただ、エミルが足を置く場所だけを指で示した。
「そこ。次は右。板の端を踏むな」
エミルは言われた通りに歩いた。
遅い。
だが、ちゃんと渡る。
橋を渡り切った時、エミルはほんの少しだけ息を吐いた。
リディアは、その息を聞いた。
そんな音を、リディアは最近聞いていなかった。
橋を渡った後、エミルは自分の足元をもう一度見下ろした。
「少しだけ持たせて」
エミルは包みを抱え直し、端だけをリディアへ差し出した。
「少しだけならいいよ」
エミルは小さく答えた。
二人で一つの包みを持って歩いた。
重さはほとんど変わらない。
けれど、エミルの肩の線が少しだけ緩んだ。
リュカは後ろで、外れかけた橋板をもう一度見ていた。
押さえていた足を離すと、釘の抜けた端がまた浮き上がった。
誰かが釘を打ち直せば済むのに、皆が危ないと知りながら避けて通っている。
*
橋を渡って家路を進むうちに、雨は横から吹き込むようになった。
扉の前の石は濡れ、軒先の縄は黒く垂れている。
家々の煙は低く潰れ、屋根の上でほどけていた。
リディアの家は、通りの奥にあった。
小さい家だった。
扉の脇には、古い鍋の蓋が壁へ立てかけてある。
雨を避けるように、軒の奥へ寄せられていた。
エミルが先に扉へ手をかける。
だが開ける前に、リディアを見る。
「開けていいよ」
リディアが言うと、エミルは扉を開けた。
中は暗い。
だが、竈の灰にはまだ赤みが残っていた。
リディアはすぐ竈へ寄った。
火の残りを確かめる手つきは早い。
リディアはリュカへ布を投げた。
「濡れたまま立ってないで、使って」
「泊めるのか」
「この雨で追い出すほど、薄情じゃない」
「飯はあるか」
「薄い粥ならある」
「それでいい」
「よくないよ。水で延ばしただけだ」
「食わせてもらえば、礼は返す」
「返されるようなものは出ないよ」
そう言って、リディアは鍋へ水を足した。
足した水が、粥をさらに薄く広げた。
エミルは濡れた包みを扉の脇に置き、棚から布を取って拭こうとした。
リディアが振り向く。
「あとでいい」
エミルの手が止まる。
その瞬間、リディアも止まった。
ほんの少しだけ遅れて、言い直す。
「……いや、拭いて。中まで濡れると困るから」
エミルは、目を瞬かせた。
「拭いていいの?」
「拭いていいよ」
エミルは包みを開けず、外側だけ丁寧に拭いた。
手つきは遅い。
でも雑ではない。
リュカはそれを見ていた。
リディアは、エミルが包みを拭き終えるまで言葉を挟まなかった。




