↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
PR
78/128

第十一話 亡霊の正論が棲む家(1)

 結論から言う。

 正しい言葉ばかりが通る家は、その理屈に合わない人から居場所を奪う。


 リディアの手は、施療院の預かり口の板の上で止まっていた。

 名前を書き終えるには、あと一画だけ足りない。

 その一画を足せば、エミルは今日から、ここで寝起きする子になる。


 板は何度も手を置かれたせいで、真ん中だけが鈍く光っていた。

 板の向こうでは、年かさの女が炭筆を持ったまま、リディアの手元を見ている。


 急かしてはいない。

 止めてもいない。


 リディアの隣で、エミルは小さな包みを胸に抱えていた。

 中には着替えが二枚と、木匙が一本。

 その木匙は、家から持ってきたものだ。


 使い慣れた匙を持たせれば、場所が変わっても少しは落ち着くだろう。

 そう思って、リディアが入れた。


 エミルは泣いていなかった。

 唇を結び、板の上の書きかけの名を見ていた。


「しばらく見てもらうだけです」


 リディアは、誰にともなく言った。


 受付の女は、うなずきもしなかった。

 リュカも口を挟まなかった。


 リュカは、施療院の軒下で雨宿りをしていただけの旅人だった。

 だが、旅人にしてはよく見ている。

 預かり口の板ではなく、エミルの包みを見ていた。


 子どもの荷にしては、きちんとしすぎている。

 大人が詰めた荷だ。

 子どもが自分で選んだ物が、ほとんどない。


「この子は、体も、歩くのも少しゆっくりなんです」


 リディアは続けた。


「家で抱えているより、慣れた人に見てもらった方がいいと……」


 言いながら、声の終わりが小さくなる。


 自分の言葉ではないからだ。


 その言葉は、何度も聞かされてきた。


 育ちがゆっくりな子を、家だけで抱え込むんじゃない。

 無理に人並みにさせると、あの子がつらくなる。


 姉のヘルダは、そう言って、リディアがエミルの椀へ粥をよそう手を何度も止めた。

 伸ばしかけた手を下げさせ、出かけようとした足を止めた。

 そう言うたび、リディアはよそいかけた匙を鍋へ戻した。


 ヘルダが見ていたのは、エミルではなかった。


 エミルが食べられなかった時に、リディアが傷つく顔。

 エミルが外で遅れた時に、リディアが責められる顔。

 エミルができないと言われた時に、リディアが小さくなる背中。


 姉は、それを先に塞いだ。

 塞いだつもりだった。


 エミルが失敗しないようにではない。

 リディアが失敗を見なくて済むように。


 そのために、エミルが自分でやってみる機会は、いつも「まだ早い」と先へ延ばされた。


 リディアは、そのたびにエミルから目をそらした。

 目をそらした間に、ヘルダが決めた。

 自分で決めずに済んだ。


 だから今日も、ここまで来た。


 預かり口の奥から、粥の匂いがした。

 薄いが、温かい匂いだった。


 受付の女が、エミルの方へ目をやる。


「先に、食べていきな」


 食堂の長机には、子どもが何人か座っていた。

 椀から湯気が上がっている。

 匙が椀の縁に当たる音が、小さく重なっていた。


 エミルの前にも、椀が置かれた。

 白い湯気が立った。


 エミルは、それを見たまま動かなかった。


「食べていいんだよ」


 リディアが言うと、エミルは首を横に振った。


「冷めてからでいい」


 小さい声だった。

 けれど、食堂の中ではよく聞こえた。


 リディアは瞬きをした。


「熱いのが嫌なの?」


 エミルは、もう一度、首を横に振る。


「僕は、冷めてからでいい子だから」


 受付の女の炭筆が止まった。

 リディアの手も止まった。

 板の上で、まだ書かれていない一画だけが残っている。


 受付の女の名は、ミラといった。

 胸元に小さな鉄の鍵を下げている。

 預かり部屋の扉を開ける鍵だろう。


 ミラは、その鍵をすぐには使わなかった。

 預かり部屋の扉を閉じたまま、エミルへ目を戻した。


「母親の名前を教えて」


 ミラが聞く。


「リディアです」


「子どもの名前も」


「エミルといいます」


 ミラは板へ書きかけた。

 だが、エミルを見て、筆先を止める。


「自分で言えるかい」


 エミルはリディアを見た。


 リディアは、すぐにはうなずけなかった。

 その一拍の間に、エミルはもう答えをしまいかける。


 リュカは、その一拍を見た。


 リディアがようやくうなずくと、エミルは小さく言った。


「僕は、エミルだよ」


 声は小さい。

 けれど、はっきりしていた。


 ミラは板へ名を書いた。


「言えるじゃないか」


 エミルは、板の上の自分の名から目をそらした。

 リディアは膝の上で指を握った。


 ミラは鍵を指で揺らした。

 鉄が小さく鳴る。


「ここは、家の代わりにはならないよ」


 リディアはその言葉に顔を上げた。


「分かっています」


「分かっている人の方が、そう言う」


 ミラはそれだけ言って、エミルの椀へ目を戻した。

 湯気は、さっきより薄くなっていた。


 リュカは、そこでようやく口を開いた。


「結論から言う。


 今日は、エミルと一緒に帰れ」


 リディアは顔を上げた。


「あなたに何が分かるの」


「分からないことの方が多い」


 リュカは、エミルの椀を見た。


「ただ、温かい粥を前にして、自分から冷めるのを待つ子を、今日この場で置いていくのは違う」


 リディアの唇が動いた。

 反論は出なかった。


 エミルは、まだ椀を見ていた。


 食べていいと言われても、手が出ない。


 ほんの少し前、エミルの手は匙へ伸びていた。

 リディアは、それを見た。

 見たはずだった。


 だが、次に瞬きをした時、匙は乾いたまま椀の横に戻っていた。

 湯気は少しも乱れていない。

 伸ばしたはずのエミルの指も、膝の上にそろっている。


 エミルだけが、自分の手を見ていた。


「今、持ったよ」


 エミルは空の手を見たまま言った。

 ミラが首をかしげる。


「まだ、触ってもいないよ」


 リディアは、ぞっとするより先に、ほっとしそうになった。

 見間違いなら、決めなくて済む。

 この子が本当に欲しがったのか、まだ考えずに済む。


 その安堵が、いちばん怖かった。


 ミラは、炭筆を置いた。


「手続きは、今日でなくてもできる」


「雨も強くなる。帰れるうちに帰りな」


 リディアは板の上の自分の名を見た。

 あと一画。

 たったそれだけで、エミルをどうするか決め続ける役目を、施療院へ渡せるはずだった。


 けれど、その一画を足す手が動かない。


 エミルは包みを抱え直しただけだった。


 外では雨が、施療院の石段を叩き始めていた。


 けれど、すぐには足が動かなかった。


 リディアは、預かり口の板から手を離したあとも、そこへ指の跡を残したまま立っていた。

 炭筆の黒が、爪の脇へ薄く入っている。

 拭えば取れる。

 だが拭けば、今しがた書こうとした名まで消してしまいそうだった。


 ミラは、板を片づけなかった。

 書きかけの名も、そのままにした。

 消してしまうには早く、残しておくには痛い字だった。


 エミルは、温かい粥の前に座ったままだった。

 食べない。

 けれど、椀から目を離さない。


 長机の向こうで、別の子どもが匙を落とした。

 からん、と乾いた音がする。

 その子はすぐ拾い、椀へ戻した。

 熱い粥を急いで食べ、舌を少し出して笑った。


 エミルはその子を見た。

 見ただけで、真似はしない。


 リディアは、その小さな横顔を見ていた。

 自分の子は、いつから熱いものを前にして笑わなくなったのだろう。

 いつから、人がしていることを見ても、自分の手を動かさなくなったのだろう。


 ミラは、エミルの椀へ目をやった。


「冷めるまで待ちな」


 エミルは、初めてミラを見た。

 湯気が細くなるまで待ち、それから匙を取った。

 粥を一口すくい、ゆっくり口へ運んだ。


 リディアは、その細さを見ていた。

 太い湯気を前にしていた時間より、細くなってからの方が、エミルの手は自然に動く。


 リュカは、口を閉じたままエミルの指先を見ていた。

 今ここで何か言えば、エミルはまた、そばの大人が望む方を選んでしまう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。