第十話 彼岸と此岸の渡し船(9)
宿の中へ戻るまで、桟橋の板が何度も小さく鳴った。
母親のリオナはすぐには歩けなかった。
エダがリオナの片腕を支え、手伝いの娘が熱のある子どもを毛布ごと受け取った。
リオナの荷も、エダが預かった。
荷紐がリオナの指から抜ける最後の瞬間まで、リオナは手を開かなかった。
「返す」
エダは短く言った。
「朝飯を食べたら返す。外には出さない」
リオナは眠ったまま、力の抜けた手を毛布の上に落とした。
広間へ戻ると、火が小さくなっていた。
年長の女が薪を足した。
薬箱の男が自分の外套を脱ぎ、リオナの足元へかけた。
織場の女は、火のそばで乾いた靴下を片方、リオナの濡れた靴の横へ置いた。
「足が冷えたままだと、すぐ目を覚ます。起きたら、また戻るって言うよ」
織場の女は、靴下から手を引いた。
老人は膝を引いた。
壁際に、母子を寝かせる幅ができた。
薬箱の男は箱を卓の下へ押し戻した。
靴下はリオナの濡れた靴の横に残った。
老人は、釘に掛かった外套へ手を伸ばさなかった。
扉の前から、薬箱の男も織場の女も老人も一歩ずつ身を引いた。
エダは壁際の隙間に膝をつき、毛布を広げた。
リオナの足を毛布の上へ乗せ直し、肩を支えて壁際へ寝かせる。
荷をリオナの手から離し、火の明かりがかかる壁際へ寄せる。
手伝いの娘が、毛布ごと抱いていた子どもをリオナの胸元へ戻す。
リュカは、桟橋から持ち帰った空の椀を差し出した。
エダは受け取り、火のそばの卓へ置いた。
エダは椀から手を離して、ようやく震えた。
桟橋でリオナの前へ置いた時は空だった。
火のそばの卓では、空の椀の内側に火の色だけが揺れている。
リオナは毛布の上で、指を少し曲げかけた。
エダは鍋の蓋を開け、空の椀を手元へ引いた。
豆煮は鍋底で濃くなっている。
湯を足し、塩をひとつまみ入れ、椀へよそった。
湯気が立った。
リオナは眠っている。
毛布の上で、もう荷紐を握っていない。
エダは豆煮の椀を、荷よりもリオナの手に近い卓の端へ滑らせた。
朝飯までは、舟に乗せない。
桟橋では空だった椀から、豆煮の匂いが上がった。
*
朝になった。
リオナとノエラは火のそばで眠っている。
リオナの荷は壁際で、火の明かりを受けている。
昨夜、豆煮をよそった椀は火のそばの卓にある。
薬箱の男は、湯を一口飲むたび、椀を卓へ強く置いた。
織場の女は、もう片方の靴下を膝の上で丸めている。
老人は、家の火の話を一度もしなかった。
桟橋へ向かう靴音は、まだしない。
この朝、最初に鳴ったのは扉の留め具ではなかった。
火のそばで、薬箱の男が匙で椀の縁を叩いた。
リオナの手は、荷紐ではなく毛布の端に乗っている。
薬箱の革紐は、卓の下でほどけたままだった。
薬箱の男は椀を両手で包み直してから、靴先を扉へ向けた。
織場の女も老人も、少し遅れて体を起こした。
エダは、その三人より先にリオナの椀の前で止まった。
二年前、マルタの前へ戻せなかったあの椀だ。
今は豆煮が入り、もう布の上にはない。
火のそばの卓で、豆煮の湯気が隣の椀と同じ高さに上がっている。
豆煮の匂いで、エダの息はまだ浅くなった。
それでも、棚へ戻そうとはしなかった。
その時、エダの腹も小さく鳴った。
立っているだけで、エダは膝から力が抜けていた。
腰の拭き布に手を伸ばす余裕もなかった。
エダの前だけ、まだ椀がなかった。
年長の女が、エダの前にも椀を置いた。
エダは椀を押し返しかけた。
だが、匙の向きが客の前と同じだった。
エダは手を止め、椀の横へ指を置いた。
エダの前にも湯気が立っている。
年長の女はもう、匙の柄から手を離していた。
リオナが毛布の上で指を動かした。
リオナは起きて最初に、足先を桟橋側へ出しかけた。
エダは扉へ回り込まず、リオナの椀の横へ匙だけを置いた。
「食べてからでいい」
リオナはノエラの背を片手で支えたまま、匙を取った。
リオナは毛布の端で、足先を止めていた。
薬箱の男が箱を持ち上げた。
エダは自分の匙を椀の中へ伏せた。
薬箱の男はすぐに言った。
「川を見るだけだ。舟には乗らない」
「昨夜も、薬箱を持ったら足が桟橋へ向いた」
「分かったよ」
薬箱の男は箱を卓の下へ置いた。
薬はまだ向こう岸にある。
薬箱の男は革紐から指を一本ずつ外した。
織場の女はもう片方の靴下を履こうとして、途中でやめた。
匙を握るリオナと、その胸元のノエラを見て、履き口を折った。
裸の足先が、床板の冷たさで内側へ縮まった。
靴下は膝の上に戻った。
窓の光が、老人の椀の中の湯へ落ちた。
老人は、椀の縁を押さえていた指を少し緩めた。
「火は消してある」
「今ごろ?」
エダが聞いた。
「今ごろ思い出した」
「遅い」
「遅くても、思い出した」
老人は椀を持ち直した。
湯は、椀の縁で揺れなかった。
エダは椀の外側に指を当てた。
熱くて、すぐ離した。
水差しから自分の椀へ少し注いだ。
年長の女が差し出した黒パンを、リュカは受け取った。
黒パンの端を小さく割り、口へ入れた。
リュカは扉へ体を向ける前に、黒パンをもう一口食べた。
エダはまだ、自分の椀を両手で包んでいた。
川の水は、まだ高い。
舟もまだ濡れている。
桟橋の先に、また白い筋が戻る朝もある。
それでも、リオナは匙で豆煮をすくっている。
火が鳴っている。
ノエラの喉が、リオナの胸元で小さく上下している。
リュカは残りの黒パンを手に持った。
扉へ向かいかけて、リュカは火のそばへ半歩戻った。
エダの両手は、まだ自分の椀を包んでいる。
リオナは匙を握っている。
ノエラはリオナの胸元で、かすかに息を鳴らしている。
薬箱は卓の下にある。
リオナの荷も、火の明かりが届く壁際にある。
昨夜なら、薬箱の男は箱を抱え、リオナは荷紐を握ったまま、桟橋側の扉を向いていた。
扉の前で、リュカは桟橋を見た。
舟はいつもの杭に繋がれている。
白い河原は見えない。
昨夜の縫い目は、どこにも残っていない。
川の上に、白い裂け目はもうなかった。
エダは桟橋に背を向け、火のそばの長卓へ戻っていた。
リュカが扉の前を離れるより先に、長卓で匙の音がした。
エダは、自分の椀から豆煮をひと口すくっていた。
黒い流れは、まだ杭の下で鳴っている。
椀から上がる湯気が、川霧よりも先に朝を知らせていた。




