第十話 彼岸と此岸の渡し船(8)
そのまま、川の音が低くこもった。
水が落ちたのではない。
霧が立ったのだ。
霧が立つと、水音の角が取れる。
とろりとした音になる。
霧の中から、名を呼ぶ声はしない。
それでも、薬箱の男は卓の下で箱を覆う布の端を握り、織場の女は毛布の中で足を引いた。
老人が身じろぎした。
家の火を確かめに行かなければ、という寝言を一度だけ言った。
手伝いの娘がそっと老人の外套を遠ざけた。
そのすぐあと、織場の女の手が毛布の外へ出た。
エダは靴下を取って、眠ったままでは届かない位置へずらした。
近すぎれば、織場の女は眠っていても取ってしまう。
今度は、リオナの上体が壁際へ傾いた。
エダはリオナの手首へ触れかけ、触れる前に自分の手を膝へ戻した。
荷は壁際にある。
けれどリオナは、荷紐のない毛布を固く握った。
「荷を近くに置いたら、探さなくてすむかな」
娘が小さく言う。
「手が届いたら、抱えて立つ」
エダが返す。
遠ざければ、今のように探して立つ。
近づければ、抱えて立つ。
荷を動かすだけでは、リオナの爪先は桟橋から外れない。
エダはリオナの手を見た。
毛布を握る指は、もう荷紐を探している。
朝飯まで舟へ行かせないと決めるなら、椀はエダが持っていくしかない。
娘が火のそばで身じろぎした。
「手伝おうか」
「いい。私が行く」
そう言うと、エダの喉が少し詰まった。
エダは自分の手の甲を握った。
リュカは火に向き合っている。
火はぱちりと跳ねた。
リュカは濡れた靴先を、川ではなく火に向けている。
エダは立った。
火のそばの椀へ手を伸ばした。
その時、リオナが寝言を言った。
「朝には戻ります」
エダは椀の縁に触れる寸前で、火のそばで固まった。
次の瞬間、舟が桟橋に当たった。
*
二年前の朝にも、鐘が鳴った。
織場の鐘ではない。
川向こうの市場が荷を開く小さな鐘だった。
マルタはその音を聞いて、口元だけで笑った。
目はエダではなく、桟橋側の扉へ向いていた。
「ほら、間に合う」
濡れた靴が重く、マルタは立っているだけで片方の足首を震わせていた。
それでも、咳を飲み込んで「間に合う」と言った。
半分残った豆煮を火へ寄せようとして、エダはマルタの椀を持っていた。
けれど、マルタの目が扉へ向いた瞬間、卓へ下ろせなくなった。
豆煮の汁が片側へ寄り、エダは親指を縁へ押しつけた。
マルタが動くたび、靴が床に小さな水跡を増やした。
外の鐘が鳴るあいだ、エダは椀を卓へ戻せなかった。
マルタが「間に合う」と言うたび、汁はさらに片側へ寄った。
親指の下に熱が集まった。
エダは椀を水平に戻せなかった。
今夜も、向こう岸から音が来る。
さっき鳴った織場の一つ目の鐘で、リオナは荷へ手を伸ばした。
舟が桟橋に擦れて軋む。
薬箱の男も卓の下で、箱へ手を動かしかける。
エダは火のそばの椀の前で動けなかった。
手伝いの娘が棚から移した椀だ。
エダはその椀を見下ろした。
椀の縁に火の赤が映っている。
まだ空だ。
リオナが荷へ手を伸ばすたび、エダの肩が固くなった。
エダは椀へ手を伸ばした。
指先が縁に触れても、今度は引かなかった。
エダは椀を持ち上げた。
空なのに、底だけが手首の内側へ重く沈んだ。
その時、舟が桟橋にもう一度当たった。
エダは椀を落とさなかった。
空の椀の縁が、指の腹へ痛いほど食い込んだ。
エダは椀の縁を握ったまま振り向いた。
リオナが立っていた。
まぶたは半分開いている。
だが、リオナはエダを見ていなかった。
リオナは荷のところまで手を伸ばし、荷紐を握っていた。
荷を引き寄せ、その重みで体が片方へ傾いた。
ノエラが胸元でずり落ちかけ、リオナは腕だけで抱き直した。
それでもリオナは火のそばを離れ、扉へ向かっていた。
広間の火が、ぱちりと一つだけ鳴った。
薬箱は卓の下に残っている。
織場の女の靴下は火のそばで乾き、老人の外套は釘に残っている。
火のそばには、まだ横になれるだけの隙間があった。
それでもリオナは、荷紐だけを握りしめていた。
エダは椀を持ったまま、リオナの後を追った。
桟橋に出た瞬間、川風がエダの袖口へ入った。
水を吸った布の冷たさではない。
乾いた砂を握らされたような冷えだ。
川の霧が、桟橋の板に触れない。
白い河原へ続く霧から、乾いた砂の匂いだけがした。
川の匂いがない。
泥の匂いもない。
ただ、板の隙間に乾いた砂が白く残っていた。
リオナは目を開けているのに、宿もエダも見ていなかった。
眠る前に「朝には戻ります」と言った時の焦りを、足だけが覚えていた。
白い霧は、リオナの爪先の前だけ濃くなっていた。
リオナは一歩ずつ進む。
ノエラの頭が、リオナの腕からずり落ちかける。
エダはリオナの背中から目を離さなかった。
エダの手の中で、椀の縁が汗で滑った。
エダは、リオナの背中まで板三枚のところで立ち止まった。
「待って」
エダの声は川音に削られ、リオナは止まらない。
「帰ら、なきゃ」
リオナの声は途中で切れ、喉だけが小さく鳴った。
だが、リオナはまだ前へ出る。
二年前にも、客のマルタは桟橋へ出る前に「帰らなきゃ」と言った。
その言葉は、息の端でかすれていた。
マルタは膝を外へ向け、濡れた靴先を桟橋へずらした。
エダは椀から手を離し、桟橋へ向かっていた。
エダはもう呼ばず、リオナの横へ踏み込んだ。
リオナの靴は水を吸っている。
リオナは荷紐を放していない。
リオナはノエラの重みで、片方の肩を下げている。
ノエラの頬だけが赤い。
ノエラの息は、リオナが荷紐を握り込むたび、途切れそうに細くなる。
荷はリオナの脇に食い込んでいる。
リオナが舟へ足を乗せたら、白い河原まで行く。
エダは椀を胸に抱え、空いた手でリオナの荷紐を掴んだ。
荷紐がきしみ、リオナの足が一拍だけ止まった。
「駄目。舟は出さない」
リオナはエダを見ないまま首を振った。
「帰らなきゃ」
リオナが次の一歩を出す前に、エダはリオナの横で濡れた板へ膝をついた。
エダは荷紐を握ったまま、胸に抱えていた椀をもう一方の手で下ろした。
リオナの爪先と舟のあいだに、空の椀を置いた。
それから自分の肩をリオナの腕の下へ入れた。
膝の下の桟橋の板は濡れている。
空の椀は軽い。
底が滑りかけ、エダは掌で縁を押さえた。
舟までは、まだ一歩ある。
リオナが足を止めた。
リオナはまだ、爪先を舟へ向けている。
椀はまだ空だ。
豆煮の匂いは、広間の火のそばから来ている。
リオナは椀に爪先が触れる寸前で、一度だけ体を揺らした。
リオナはノエラの背を支える腕を、少しだけ胸へ戻した。
エダは、ずれかける椀をもう一度押さえた。
「あんたもノエラも、朝飯までは舟に乗せない」
言い終えても、エダは椀から手を離せなかった。
空の椀の縁には、エダの掌の熱が残っていた。
扉の奥で、広間の火が鳴った。
エダは舟の綱に背を向けた。
濡れた板の上で、舟の綱が黒く揺れている。
川音が背中に当たる。
それでもエダは、椀を押さえたまま振り向かなかった。
エダはリオナの横で、濡れた板に膝をついたままだった。
扉の向こうで、豆煮の匂いが残っている。
「うちの客だ」
エダがそう言うと、リオナは荷紐を少し緩めた。
椀は空のまま、リオナの爪先の前に残った。
エダは掌を椀から離し、リオナの肘へ移した。
リオナは、完全には荷紐を離さない。
曲げた指の節に、まだ荷紐を引っかけている。
エダはリオナの指をほどこうとせず、荷の底だけを少し引いた。
リオナの握りも、つられて緩んだ。
荷がエダの靴先に当たり、中で小さな音がした。
結び目の脇から、木片の端が少し出た。
布を押していた硬い角は、寝床の板に挟む小さな木片だった。
細い引っかき傷が二本ある。
織場でリオナが寝る板を示す印だ。
リオナは、その傷のある木片を離せずにいた。
エダが靴先を少しずらすと、木片は布の中へ戻った。
朝、点呼に返事がなければ、その木片は荷の中に残ったまま外へ出される。
空いた板は、別の荷で埋まる。
エダは靴先で荷を押さえたまま、リオナの肘を支えた。
舟の綱は、後ろで鳴っている。
エダはリオナの体を広間の扉へ向けた。
リオナの肩に、火の明かりが戻った。
荷はエダの靴先の横に残った。
舟はまだ寄る。
白い河原はまだ見えている。
エダは振り向かなかった。
リオナの重みを肩で受け、荷を靴先で押し、広間へ戻った。
空の椀だけが、リオナの爪先が止まった場所に残った。
扉の内側で、リオナは膝から崩れ落ち、ノエラが小さく泣いた。
ノエラの泣き声が広間まで届いた。
泣き声は細い。
それでも、ノエラの息は続いている。
*
広間の誰もが、リオナとノエラを見た。
リュカはその間に、濡れた板へ戻った。
桟橋には、もう誰もいない。
エダはリオナの肩を支え、手伝いの娘は毛布を取りに走っている。
リュカは杭へ向かった。
舟の綱は、脇でまだ鳴っている。
白い河原はまだ見えている。
リュカは左手を白い霧へ伸ばした。
川の上で、指先に乾いた砂の冷えが引っかかった。
白い河原へ続く空間が、川面の上で薄く開いている。
向こう岸へ続く水の途中に、濡れていない白い裂け目があった。
舟のへさきが軋り、その裂け目へ寄ろうとした。
右手の袖口から細い銀の糸が出た。
リュカは左手で裂け目の片側を押さえ、右手の銀糸を白い霧へ通した。
一針目で、舟の綱が鳴る。
二針目で、白い裂け目が細く縮む。
三針目で、空の椀の縁から白い照り返しが消えた。
リュカは三針目を、川面に開いた裂け目の終わりへ通した。
白い河原へつながっていた空間が、内側から縫い合わさった。
乾いた砂が一粒だけ、霧の底からこぼれた。
砂粒は桟橋の板に白く残った。
舟の綱が一度だけ強く張り、すぐに緩んだ。
リュカが左手を開くと、川面の裂け目はなかった。
舟の向きが川筋へ戻る。
川音は消えない。
舟が揺れる。
空の舟が、黒い流れに戻る。
白い河原の色が、水の上から抜ける。
向こう岸の煙が戻る。
銀糸の光は霧の奥で消えた。
こちら側に糸は残らなかった。
リュカは、濡れた板に残った空の椀を拾った。
椀の外側には、乾いた砂が一粒だけついていた。




