第十話 彼岸と此岸の渡し船(7)
エダがマルタの椀を取れないまま、川向こうから一度だけ小さな鐘が鳴った。
織場で火の番を替える鐘だと、織場の女が言った。
「一つ目だ」
織場の女は、掴んでいた靴下の端を強く握った。
「点呼まで、あと二つ」
リオナは眠ったまま、毛布の上を指で掻いた。
リオナは曲がった指で、毛布の上にない紐の跡をなぞっている。
胸元のノエラが小さくむせても、リオナは眠ったまま手を止めなかった。
リオナが伸ばした手首は、火の光の中で細かった。
鐘は川向こうの織場から届く。
水音より細いのに、その一打で、リオナは膝を扉へ向けた。
エダは毛布を掻くリオナの手へ、自分の手を重ねかけた。
触れる前に引っ込めた。
エダは、リオナが声を出す前に、膝の上の拭き布をねじっていた。
その時、手伝いの娘が棚の奥へ手を伸ばし、布の上の椀を取った。
娘はエダの声を待たず、火のそば、エダの膝の前へそっと置いた。
空の椀は、エダと娘の間にあった。
「何」
「手を伸ばせば取れるところに置いただけ」
「余計なことしないでよ」
「エダ、遠いと取らないでしょ」
娘は小さく言った。
だが、扉際までは下がらなかった。
エダは息を吸い、拭き布を握り直した。
椀の縁が、小さく光った。
娘はその場に残った。
年長の女が火を足した。
薬箱の男が箱を卓の下へ押し込んだ。
椀は、エダの前で火を受けていた。
エダは膝の上で拭き布を握り、椀へ指を伸ばす前に息を止めた。
*
鐘のあとも、火は薪の端で赤く残っていた。
長椅子の脚が動くたび、床板が小さく鳴る。
川向こうの煙も、まだ細く残っていた。
リオナが毛布から膝を浮かせるたび、エダは薄い豆煮の椀をリオナの膝の横へ寄せ直した。
乾いた布をノエラの額へ当てると、リオナの膝が一度だけ沈んだ。
ノエラの頭の下へ、毛布を丸めて入れた。
リオナの濡れた靴の下へ板を入れると、靴底の水が板へにじんだ。
豆煮の熱さに、リオナは小さく息を吸った。
それから板の端に靴の爪先を引っかけ、足先を扉ではなく火に少し向けた。
握っていた荷紐が、指の中で少し緩んだ。
リオナは小さく礼を言った。
言い終えると、荷紐を握り直し、桟橋側へ向きかけた。
「礼は朝でいい」
エダが言った。
「朝には戻ります」
「……川を見てから」
エダはそこで桟橋側の扉を見た。
リオナは荷紐をまたきつく握った。
リオナの肩が毛布へ沈んだ。
だが、リオナはまだ荷紐をほどかない。
眠ってからも、リオナは荷だけを毛布の内側へ引き寄せた。
エダはリオナに触れられず、膝の上で拭き布を握った。
薬箱の男が椀を卓へ置いた。
「リオナが朝までここにいたら、織場は荷を外へ出すのか」
織場の女が答えた。
「出す。寝床の板に荷だけ残ってたら、朝のうちに外へ積まれる」
「ノエラごと?」
「ノエラは隣の板に寝かされる。でも、あの小さい荷は外だよ」
「ひどいな」
「ひどいよ。でも、空いた板は夕方までに誰かの荷で埋まる」
薬箱の男は足先で、卓の下へ押し込んだ箱の角を押さえた。
織場の女は、火のそばの靴下を掴んだまま止まった。
老人は毛布の端を握ったまま、扉へ膝を向けていた。
「それでも、今は川へ行かせない。寝床を取られたなら、朝になってから怒りに行ける」
エダは火のそばの椀の前で言った。
エダは靴先を床へ押しつけていた。
年長の女が火のそばを離れ、エダの横に立った。
「その椀、リオナの前へ出すんだろ」
エダは答えなかった。
「今だよ。朝飯まで見るなら、あんたが持っていきな」
「……分かってる」
エダは目の前の椀へ手を出しかけた。
指先は、縁の手前で止まった。
年長の女は椀の前から半歩どいた。
エダが取らなければ、誰も取らない。
それでもエダは手を出さなかった。




