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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十話 彼岸と此岸の渡し船(6)

 火のそばで毛布をかぶってからも、リオナは腕の中のノエラの名を小さく呼んだ。

 ノエラ、と言う前に、リオナの息が一度止まった。


 台帳には、母子の名が二つ並んでいた。

 リオナ。

 ノエラ。


 エダはその二つの名の横に指を置いた。

 だが、棚へはまだ向かわない。


「織場はどこ」


 エダが聞く。


「東の岸の、赤い煙突のところです」


「あそこは点呼が早い」


「はい」


「子連れでも待たないの?」


「待ちません」


 リオナはノエラの背へ手を回した。

 抱く腕を少しだけ締めた。


 エダは濡らした布を絞りかけたまま止まった。


 織場の女が、火のそばから身を起こした。


「あそこは待たないよ。私のいるところより厳しい」


「知り合い?」


「前にこの宿で一緒になった。ノエラがまだ背負われてた時」


 リオナの肩が、ノエラを起こさないように小さくすぼんだ。


「すみません」


「何で謝るの」


「そんな前のこと、覚えてたんですね」


「覚えるよ。雨の日に子を抱えて、立ったまま眠ってた人なんて」


 織場の女の言葉に、リオナは荷紐へ手を戻した。

 リオナは片足だけ、まだ扉へ向けている。

 リオナは少し膝をずらした。

 膝をずらしただけで、体が床へ沈みかける。

 鐘が鳴ったら立つために、荷紐を握り直した。


 エダはノエラの額へ手を伸ばした。

 熱い。

 水を含ませた布を替えると、ノエラのまぶたが震えた。

 喉の奥で、息だけが細く上下した。


 エダは布を絞った。

 滴が水受けへ落ちる音が、川の音と似ていた。


「熱、いつから」


「夕方からです」


「夕方からそのまま歩いてきたの」


「戻らないと」


 エダは濡らした布を握ったまま、リオナの前で動けなくなった。


 リュカは匙を椀へ戻した。

 棚の前で、エダだけが立ったままだった。


   *


 母親のリオナが火のそばで横になったあと、手伝いの娘はノエラの濡れた布を替えた。

 布の端は少しよれていた。

 娘は水を含ませ、すぐ絞った。


 台帳の上で、リオナとノエラの名が火の赤を受けていた。

 火のそばで、ノエラは熱で頬を赤くし、息をするたび喉の奥が細く鳴った。


「薬はあるのか?」


 薬箱の男が先に聞いた。

 エダは振り向いた。


「あんた、持ってるの?」


「残り粉ならある。ノエラに飲ませるようなものじゃない」


「だったら今は言わないでよ」


「言っただけだ」


「言うと、リオナが聞く」


 薬、と聞こえたところで、リオナは毛布の下で荷紐を握り直した。

 エダが薬箱の男の前へ椀を押しやると、男は匙を置いた。

 織場の女は、乾いてきた自分の靴下を指でつまみ、リオナの荷を見た。


「リオナが戻れなかったら、あの荷は外に積まれるよ」


 織場の寄宿では、点呼に返事がなければ、壁際の寝床が空き扱いになる。

 そこに置いた荷も、持ち主がいないものとして外へ出される。


「だから、荷だけでも離せないんだよ」


 織場の女は、リオナの小さな荷へ顎を向けた。


「あれなら、片手で外へ出せる」


「小さいからね」


「だったら、荷だけ、壁際へ寄せなよ」


 エダはリオナの荷紐の前でしゃがんだ。

 布包みは小さい。

 中身は多くない。

 それなのに、リオナの手は荷から離れない。

 眠ったまま、その小さな荷を胸へ引こうとしていた。


 エダは荷紐をほどかず、布包みの底に手を当てた。

 リオナの指がついてくる分だけ、布包みの底を火の明かりが届く壁際へずらした。


 広間の隅で、リュカの空の椀が火を受けていた。

 豆煮の跡は縁に残っている。

 エダはその椀の横を通り、棚の前へ戻った。


 リオナの寝息が少し深くなった。

 エダの肩も下りた。


 エダは鍋の端から豆煮を少しすくい、湯で薄めて、リオナの膝の横の椀へ入れた。

 名を呼ぶと、リオナはノエラを抱えたまま二口だけ飲んだ。

 匙を置く前にまた眠りへ落ち、荷紐は指の下に残った。


 その寝息が二つ続いたところで、エダは棚の椀へ手を伸ばしかけた。

 縁に触れる前に止まった。

 扉の板の向こうで、川が鳴っている。


 川を見るのは朝でいい。

 豆煮は出した。

 けれど、マルタの椀だけはまだ布の上にある。

 朝飯までここに置くと決めるなら、あの椀から逃げてはいけない。

 そう分かっていても、エダはマルタの椀を取れなかった。


   *


 リオナは眠った。

 眠りながら、何度か声にならない息をこぼした。


 戻らないと。

 朝になれば。

 点呼に。

 荷を。


 寝言が切れるたび、リオナは毛布の上で、ないはずの結び目へ指を滑らせた。

 足先が毛布の外へ出る。

 肩が桟橋側へ傾き、毛布の端が床を擦った。

 そのたび、エダの指は棚板に食い込んだ。


 エダは火のそばで起きていた。

 眠らない。

 だが、エダは膝の上で拭き布を握ったまま動かない。


 リュカは火の向こうで、桟橋側の扉へ体を向けた。

 扉は閉まっている。

 それでも、川の音が近い。


   *


 夜が一番深い時、外の川は闇に沈む。

 闇の川から、湿った冷えだけが宿の中へ入ってくる。


 水の匂い。

 舟の綱のきしみ。

 桟橋の板が縮む音。

 霧で湿った外套の冷え。


 眠っていても、薬箱の男は箱へ手を伸ばす。

 織場の女は、靴下を脱いだ足の指を何度も曲げる。

 老人は眠ったまま、家の火を消し直す手つきをした。

 膝の上で指を丸め、その動きを何度も繰り返している。


 エダは拭き布を取り、箱へかけた。

 布が箱の角を隠すまで、男は指を離さなかった。

 布の端から、男の指先だけがまだ出ていた。


 エダは乾いた布を、織場の女の裸足の前へ置いた。

 織場の女は足の指で、靴下ではなく布へ先に触れた。


 老人の椀には湯を足した。

 白い湯気が、老人の丸めた指の前へ立った。


 リュカは空の椀を床板の上で少し引き寄せていた。

 匙は椀の中に伏せたままだ。

 リュカは、縁に残った豆煮の跡へ指を添えている。

 エダは棚ではなく、リュカの空の椀を顎で示した。


「マルタの椀、出せって言ってよ」


 エダが小さく言う。


「俺が言ったら、俺に言われたから出したことにできる」


「それが嫌?」


「駄目だ。あの椀を客の前に戻すかどうかは、おまえが決めることだ」


 エダは棚板の縁を押した。


 リュカは椀の縁から指を離した。

 薬箱の男は箱を覆う布の端を握った。

 織場の女は、火のそばの靴下の端を掴んだまま息を詰めた。

 リュカは膝の上へ手を落とした。


 エダは棚の椀の前で、白くなるほど棚板を押した。

 それでも、椀は布の上に残った。


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