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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十話 彼岸と此岸の渡し船(5)

 外で、宿を手伝う娘は薪の束に手を突っ込んだ。

 乾いた一本なら、火の赤が戻る。

 湿った一本なら、広間の煙がまた喉へ来る。

 迷っている間に、腕の中へ水が落ちた。


 娘は乾いた薪を二本だけ抱えた。

 濡れた袖口から水が落ちる。

 広間の火は、さっきより低かった。


 薪を抱えて広間へ戻ると、エダはまた棚の椀の前に立っていた。

 エダは棚板の縁を押さえていた。

 娘は火に薪を足した。

 薪の端が赤く起きた。

 火は強くなったが、エダは棚の前から動かない。


 客は火のそばにいる。

 けれど、空いた椅子の前だけが冷えている。


   *


 母子が来る前、薪の減りだけがやけに遅かった。


 薬箱の男は息が寝息に変わりかけるたび、箱の革紐を握り直した。

 織場の女は脱いだ靴下を火のそばへ置いたまま、毛布の中で足の指を曲げている。

 老人は長椅子で横になったまま、家の火を消すしぐさをまだ続けている。


 エダは毛布を三枚抱えて戻った。

 薬箱の男の肩へ掛けると、毛布の下で箱の革紐だけがまだ動いた。

 織場の女の膝へ置くと、女の足先は火のそばの靴下へ伸びかけた。

 老人の膝へ掛けると、毛布の端がまだ丸まっている指を半分だけ隠した。


 リュカは広間の隅で背を預けていた。

 リュカの前の床板に、空の椀があった。

 薬箱の男は膝を扉へ向けた。

 織場の女は足先を、火のそばの靴下へ伸ばしかけた。

 リュカは空の椀の縁へ指を戻した。


 エダもまた、棚の椀の前へ戻った。

 棚から目を離さないまま、エダが言った。


「見張りならいらない」


 リュカは空の椀を膝の近くへ引いた。


「飯をもらった」


 エダは棚へ向いたまま返した。


「だから?」


 リュカは火のそばにいる客たちを見た。


「火のそばも借りた」


「だから何」


「返すまで寝にくい」


 エダは鼻を鳴らした。


「返すって、椀でも洗う気?」


 リュカは椀の縁を軽く押した。


「洗うと割る」


「ひどいね」


 リュカは椀から手を離した。


「だから別で返す」


「何で返すかは、私が決める」


「それでいい」


 エダは広間の隅へ行きかけた。

 リュカの前の空の椀は、床板の上に残っている。

 洗えば棚へ戻せる椀だ。

 けれど棚へ向き直ると、布の上の椀が目に入った。


 エダはマルタの椀へ手を伸ばした。

 縁に届く前に、棚板を握ったまま動けなくなった。

 火のそばの席は、まだ空いている。


 扉を叩く音は小さかった。

 扉の留め具が、一度だけ浅く鳴った。


 エダはすぐに立った。

 薬箱の男が箱を抱き直した。

 織場の女は、火のそばの靴下から手を浮かせた。

 老人も、膝の上の手を止めた。


 エダが扉を開けると、濡れた外套の母親が立っていた。

 腕に子どもを抱いている。

 子どもは泣いていない。

 頬は濡れていない。

 息だけが喉の奥で細く鳴っていた。


「一晩だけ」


 母親は言った。

 それから、自分はリオナ、抱いている子はノエラだと短く名乗った。


「朝には川向こうへ戻るんです」


 リオナの片方の靴だけ、泥が厚くついていた。

 体を支えるたび、泥のついたほうの足だけが少し遅れた。


 リオナは小さな荷を肩から外せない。

 替え布も余分な靴も入りそうにない。

 紐の下で、硬い角が一つだけ布を押している。

 リオナはその角の上へ指を戻していた。


 ノエラの頬も赤い。

 首の汗が冷えている。

 桟橋へ出せば、その汗は川風でさらに冷える。


 エダは火のそばを顎で示しかけた。


 だが、エダが声にする前に、リオナが言った。


「朝の点呼に戻らないと、荷を外へ出されます」


 リオナは荷紐を握った。


「借りてる寝床なんです。一晩空けたら、なくなる」


 一晩だけ。

 エダは火のそばの席へ足を向けた。

 そこには、まだ椀一つ分しか空いていない。

 リオナの荷紐も、まだ固く結ばれたままだ。


 エダは火のそばへ一歩出て、そこで止まった。


 リュカは椀を持って立った。

 端の椅子を引き、卓の角へ寄せた。

 椀もその横へずらした。

 火のそばに、人ひとり座れる隙間ができた。


 エダはその隙間の前で、腰の拭き布をねじった。


「少しだけ休みな」


 エダは母子を火のそばへ座らせた。


「川は朝に見る」


 リオナの肩が落ちた。

 リオナはノエラを抱いたまま、毛布の上で膝を崩した。


 手伝いの娘は乾いた布を水に浸し、ノエラの額へ当てた。

 布はすぐぬるくなる。

 火のそばで絞ると、ノエラの喉が細く鳴った。


 エダは湯を入れた椀を、リオナの膝の横へ置いた。

 リオナはノエラを片腕で抱えたまま、空いた手を椀の縁へ添えた。

 リオナの手が熱で震えるあいだに、エダは荷の底を持った。

 結び目はほどかず、リオナの肩に食い込んでいた小さな荷を、膝の横の床へ下ろした。

 紐が床で小さく鳴る。


 リオナの指が椀の縁から浮いた。

 エダはすぐ、椀の反対側の縁へ手を添えた。


 手伝いの娘は扉の横の小さな灯りを取り、川へ向けず、桟橋の板だけ照らした。

 それから扉の内側に片足を残したまま、いちばん近い綱の結び目だけを締め直した。


 リオナが椀の縁に手を添えているあいだに、ノエラの額の布はすぐぬるくなった。

 それでも、焦げ跡のある椅子だけは冷えたままだった。


 エダは客の名を書く台へ戻り、台帳にリオナとノエラの名を書いた。

 それから棚の前に立ち、重ねてある椀へ手を伸ばした。

 縁に触れ、すぐ離れた。


 川は朝に見る。

 エダは棚の前から一歩下がった。


   *


 母親のリオナはノエラを抱え直し、火のそばの毛布へ体を横たえた。

 それから、白髪を布でまとめた女が客の名を書く台の奥から出てきた。

 宿でいちばん年長の女だ。

 肩に薄い外套を掛けている。


「まだ、あの椀を出してないね」


 年長の女は棚の前で足を止めて言った。


「リオナ、また荷を握ってる」


「湯の椀は手元に置いた」


「手元じゃ駄目だよ。手に持たせな」


「毛布は肩まで掛けた」


「腹が空いたまま目が覚めたら、また荷を探すよ」


「台帳には、リオナもノエラも書いた」


「じゃあ客だ。客なら飯を出す」


 エダは振り向いた。


「じゃあ何を出せっていうの」


「豆煮。棚の奥の椀を使いな」


 年長の女は椀を顎で示した。

 エダは棚板を押した。


「出したら、朝までうちの客だ」


「だから出すんだよ」


「朝になって、あの荷が外に積まれてたら」


「怒るのは、食べてからでいい」


「リオナは今も荷を握ってる」


「その手に、椀を持たせな」


 年長の女は母子のそばを離れない。

 ノエラの毛布の端を直し、リオナの荷紐へは触れなかった。


 エダは棚の椀へ手を伸ばし、縁に触れた。

 だが、取れなかった。


 年長の女は椀へ手を伸ばさず、火のそばで止まった。


「昔のおまえなら、その椀を出してた」


「あの夜、私はマルタの椀を遠ざけた」


「覚えてるよ」


「マルタは立った」


「リオナも目を覚ましたら荷を探すよ。腹が空いたままならね」


「また同じになる」


「同じにしないために、今度はその手に渡すんだよ」


 エダは椀の縁から手を外した。

 エダは棚板の端を押さえたまま、息を詰めた。


 年長の女は薪を一本選び、火に差し入れた。

 火の赤が戻った。


 棚の奥だけが、少し明るくなった。


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