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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十話 彼岸と此岸の渡し船(4)

 その焦げ跡の前で、二年前、エダが椀を出せなかった客がいた。


 名を、マルタと言った。

 台帳を開くと、エダは今でも先にその欄へ指を置く。

 台帳の右ページ、下から三行目。

 雨で滲んだ欄。

 そこに、マルタ、と短く残っている。


 マルタはよく食べる客だった。

 最初に来た時、豆煮を二杯食べた。

 食べながら、向こう岸の織場の悪口を言った。

 板が硬い、糸くずが服につく、点呼の声が大きすぎる。

 文句ばかりだったが、笑うたび、マルタは匙で椀の底を叩いた。


 文句の合間にも、椀はすぐ空いた。

 腹が立つと言いながら、二杯目の椀を火のそばへ引き寄せた。

 その時、マルタは靴先を、桟橋ではなく卓の脚へ向けていた。


 最後に来た夜、マルタは匙を進められなかった。

 椀は半分残った。

 靴の泥が重い。

 外套の裾が片方だけ濡れている。

 笑おうとして、マルタは途中で咳をこらえた。


 半分残った椀の前で、エダは立ち止まった。


 火のそばへ寄せれば、もう一口くらい食べると思った。

 エダはマルタの椀を両手で持ち、卓の火に近い側へ寄せかけた。

 だがマルタが言った。


「帰らなきゃ。向こうで席がなくなる」


 エダは椀を持ったまま、卓の端で立ち尽くした。

 マルタは、まだ膝を外へ向けている。

 椀の縁が卓へ触れる前に、エダは息を詰めた。

 エダは椀を、マルタの手が届かない卓の端へ置いた。


 マルタが桟橋へ出て、靴音が遠ざかった。

 エダは舟の綱をほどいた。


 夜明け、舟は向こう岸ではなく、霧の中の白い河原へ寄っていた。

 エダは、その瞬間を見ていない。

 見たのは、白い砂に寄った舟と、どこにもいないマルタだけだった。

 マルタの靴音も声も、戻らなかった。


 エダは桟橋で吐いた。

 川の水でむせたのではない。

 桟橋には、濡れていない砂の乾いた匂いがあった。

 その匂いを吸った瞬間、前の夜にマルタの椀から立っていた豆煮の匂いまで喉へ戻った。

 胃がひっくり返った。


 その日から、棚の椀が一つだけ、客の前へ戻らなくなった。

 マルタが使った椀だ。

 欠けていない。

 洗ってある。

 指をかければ、卓へ出せる。


 だが、エダは指をかけない。

 棚の奥で、布の上に出したままにしておく。


 エダが棚の奥を拭くたび、火の赤が縁に触れてすぐ消える。

 卓へ出すには、エダがもう一度その縁を掴まなければならない。

 けれど布の前で、毎回息が止まった。


 リュカは、その椀を出せとは言わなかった。

 マルタの椀は棚の奥で、まだ誰の前にも置かれていなかった。


   *


 夜が深くなった。

 この宿に、客ごとの部屋はない。

 舟を待つ客は、広間の火と壁際の長椅子で夜を明かす。

 荒れた夜はなおさら、エダの目が届く場所から外せない。


 川の音は一段低く聞こえた。

 だが、水が落ちたのではない。

 長卓の客たちは匙を置き、川音だけが太く残った。


 薬箱の男が、床板を鳴らさないように立った。

 外套を肩へ掛け、薬箱を持った。

 扉を開ける音を小さくしようとして、かえって木が鳴った。


 リュカは火のそばで起きていた。

 立ち上がる代わりに、卓の上の自分の椀の縁を押さえた。

 エダが先に床板を鳴らした。


 次の瞬間には、エダがもう桟橋側の扉へ向かっていた。

 リュカはそこで椀から指を離し、卓に手をついて立った。

 エダのあとを追った。


 エダは桟橋へ出た。

 舟は杭につながれている。

 なのに、舟がひとりでに桟橋へ寄っていた。


 綱が張り、杭が小さくきしむ。

 霧の向こうに、白い線が見えた。


 薬箱の男は箱を脇で揺らし、ふらふらと桟橋を進んだ。

 舟の向こうの霧は、薬屋のある向こう岸ではなく、白い河原へ開いていた。


 エダが走った。

 薬箱の男の腕を掴んだ。


「今は駄目」


 薬箱の男が振り払おうとした。


「薬が要るんだ!」


「知ってる」


「知ってるなら渡せ!」


「今は駄目」


「あんたは宿にいればいい。こっちは向こうで人が待ってるんだ」


 薬箱の男の腕に力が戻り、エダは袖口まで掴み直した。

 だが離さない。


「足」


 リュカが言った。

 薬箱の男が振り向いた。


「何だと」


「桟橋の端だ」


 薬箱の男が息を吸い込むと、靴の下で桟橋の板が鳴った。

 薬箱の男は桟橋の端に靴先をかけている。

 水が黒い。

 舟はすぐそこにある。

 霧の向こうの白い線が、さっきより薄くなっている。


 薬箱の男の喉が鳴った。

 エダは腕を引いた。


「戻るよ」


「薬が」


「朝まで待つ。川を見てからだ。今じゃない」


 薬箱の男は歯を食いしばった。

 それでも、踵を返した。

 桟橋の泥が、靴底から広間の床へ二つ落ちた。


 リュカは桟橋の杭の前で足を止めた。

 一本だけ、他の杭より古い。

 根元に水が巻き、黒い筋が深く入っている。


 エダは薬箱の男の袖口を掴み直した。


   *


 薬箱の男を広間へ戻したあと、長卓の上の音は小さくなった。

 湯気だけが細く揺れた。

 薬箱の男は箱を抱えたまま、扉ではなく椀の前に座っていた。

 織場の女は、脱いだ片方の靴下を膝の上で固く握っている。

 老人は火から離れたまま、椀を膝に載せ、両手で抱えていた。


 三人とも、すぐには椀へ口をつけなかった。


 エダは湯を入れた小鍋を傾け、薬箱の男、織場の女、老人の椀へ湯を足した。

 薬箱の男の前でだけ、湯が縁ぎりぎりまで来た。

 薬箱の男が椀を押さえると、熱が震えた指の間へ伝った。

 椀の熱が指へ伝っても、薬箱の男は箱の角を握り直した。


「止められると、向こうを捨てたみたいになる」


 織場の女が言った。

 もう片方の靴下は、まだ履いたままだった。


「もう片方も火に向けな」


 エダが返す。


「捨ててないって、簡単に言わないでよ」


「言ってない。戻る足を乾かしな」


 湯気が一度だけ揺れた。

 その向こうで、織場の女は靴下の縁に指をかけた。


 リュカは椀の縁へ指を戻した。


 織場の女は、残った濡れた靴下を脱いだ。

 脱いだ足は赤くなっている。

 火に近づけると、足の指がさらに丸まった。

 脱いだ靴下を膝ではなく、火のそばへ置いた。

 もう片方の足だけ、まだ扉へ向けていた。


 エダは織場の女の膝から離れた靴下へ手を伸ばしかけ、途中で息を吐いた。


 椀を前へ出しても、男はまだ箱の角を握っていた。

 湯気が指の間に入り、ようやく指が少し緩んだ。

 縁ぎりぎりの湯の熱が、エダの指にも残った。


 杭の軋みが消えたあとも、膝の上の拳は固いままだった。


 もう、桟橋にかけていた靴先は広間の床板へ戻っている。

 男は箱の革紐を握ったまま、落ちた泥の前で止まった。

 革紐から指を一本だけ外した。

 自分の足跡を見て、喉を鳴らす。


「俺は、自分で舟へ行ったのか」


 薬箱の男が低く聞いた。


「行った」


 エダが答える。


「薬のために、行ったのか」


「そこまでは知らない。足は白い河原のほうへ出てた」


「知らないのに止めたのか」


「止めるには、それで足りる」


 薬箱の男は靴先で床板を擦った。

 泥が、床板へもう一粒落ちた。


 エダは男の前の椀を、箱から少し離した。

 中身は、もう豆煮というより湯で薄まった汁だ。

 それでも、男は箱に手を置いたまま一拍止まった。


「俺も、朝まで舟に乗せない客か」


「椀を出したからね」


「そうか」


 薬箱の男は椀を持った。

 薬箱の男の手はまだ震えている。

 湯気が手の震えを薄く隠す。


「止められると、まだ行けるって思いたくなる」


「知ってる」


「でも、止められなかったら、俺はそのまま白い河原へ行ってた」


「そういう言い方、するな」


「戻らないってことだよ」


 薬箱の男はそう言って、湯を飲んだ。


 薬箱の男は、椀の縁を指で抱え込んだままだった。

 卓へ戻さず、両手で持っている。

 湯の熱が、まだ指の間に残っている。


 織場の女はそれを聞きながら、火のそばへ置いた靴下を少し広げた。

 濡れた足を火に向けた。

 足の指はまだ縮こまっている。

 それでも、織場の女は扉ではなく火のそばに足を寄せていた。


「明日の点呼には遅れる」


 織場の女が言った。


「靴下を履いてから怒りな」


 エダが返した。


「寝床を取られるかもしれない」


「その足で、桟橋まで行けると思う?」


「何で止めるの」


「今、足が紫だから」


 織場の女は靴下を足首まで引きかけて止まった。

 靴下の縫い目から指を離した。


 長卓の端で、織場の女が匙を一度だけ動かした。

 けれど空いた椅子の前には、まだ椀が一つも出ていない。


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