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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十話 彼岸と此岸の渡し船(3)

 夕方の長卓のまわりには、薬箱と靴下と老人の濡れた袖があった。


 匙を急ぐ客もいれば、椀の縁で匙を止める客もいる。


 薬箱の男は、豆煮をすくうたび匙を椀の底まで差し込んだ。

 底を鳴らす前から、膝を扉へ向けていた。


 織場の女は、豆煮を匙の先だけ口へ運ぶ。

 食べれば眠くなる。

 まぶたが落ちれば、点呼の鐘を聞き逃す。

 織場の女は、匙の先を椀の縁で何度も止めた。


 老人は椀を持ったまま、何度も湯気へ顔を寄せる。

 湯気の中に、家の煙の匂いはない。

 そのたび、老人は椀の縁を膝へ下げる。


 エダは三つの椀の前を行き来し、冷めかけた湯を少しずつ足した。


「薬箱」


「人を箱で呼ぶな」


「箱ばかり見てるからだよ。匙を急ぐな。こぼしてる」


「手が滑っただけだ」


「滑るほど急いでるんだよ」


 薬箱の男は卓の上で匙を止めた。

 豆煮が卓に点々とこぼれていた。

 舌打ちしたが、匙の間を一拍空けた。


 エダは織場の女へ向いた。


「靴下、脱ぎな」


「すぐ戻る」


「戻るなら、なおさら乾かしたほうがいい」


「乾かしたら、ここにいるみたいになる」


「今ここにいるでしょ」


 織場の女は靴下の履き口を指でつまみ、しばらくしてから片方だけ脱いだ。

 その横で、エダは老人へ湯を足す。


「家の火なら、向こう岸に夜番がいる」


「火の番か」


「煙が出たら、まず鐘を鳴らす」


「見てくれるか」


「今、鐘は鳴ってない」


「聞こえないだけかもしれない」


「鐘を聞きに川へ出たら、湯が冷める」


 老人は椀を持つ手を膝へ下ろした。


 織場の女は靴下を片方だけ脱ぎ、裸足を火に少し近づけた。

 薬箱の男は匙を椀の縁で止め、次のひとすくいまで間を空けた。

 老人は椀を膝へ下ろし、湯気の前で丸めていた指を止めた。


 リュカは匙を置いた。

 長卓の上で、急ぐ音がひとつずつ細くなった。

 それでも、棚の奥の椀だけが出ない。


 その時、桟橋側の扉から、宿を手伝う娘が濡れた薪を抱えて入ってきた。

 腕は細く、薪の滴が袖口から落ちていた。


「エダ、舟の綱、また鳴ってる」


 エダは拭き布を握ったまま止まった。


「桟橋に人は?」


「出てない。綱だけ」


 薬箱の男は留め具を押さえたまま息を止めた。

 火のそばの客も、匙を椀の縁に当てたまま川音を聞いた。


 エダは拭き布を放り、桟橋側の扉へ向かった。

 リュカも椀を卓へ置いて立った。


 火のそばの椅子は、まだ空いている。


   *


 裏の桟橋へ出ると、舟は動いていなかった。

 まだ桟橋の横にある。


 けれど綱は鳴っている。

 濡れた麻縄が、杭の輪に擦れて、ぎしり、ぎしりと小さく鳴る。


 川は暗い。

 向こう岸は見える。

 けれど、その手前の川面に、霧をかぶった白い河原が見えた。

 向こう岸ではない。

 流れの途中に、そこだけ別の岸がまぎれ込んでいる。


 手伝いの娘は薪を抱えたまま、裏の扉の外で止まっていた。


「ここから先、行くなって言われてる」


「言ったね」


 エダが返す。


「でも綱が鳴ったら呼べって」


「呼んだら、そこで止まってな」


「足、どこに置けばいいの」


「その板の上。薪は落とすな」


 手伝いの娘は薪を抱え直し、桟橋へ向けかけた爪先を引いた。

 夜の桟橋では、濡れた板の音がよく通る。

 手伝いの娘は薪を抱えたまま、肩を一度だけ跳ねさせた。


 エダは舟を留める綱へ手を伸ばした。

 けれど、一本だけ古い杭の前で足を止めた。

 その根元に、黒い筋が走っている。

 二年前、舟が白い河原へ寄った朝から残っている筋だ。

 雨に濡れていても、白い河原が見える夜だけ、そこだけ先に乾く。


 リュカは古い杭の前で足を止め、黒い筋に爪先が触れる寸前で止めた。

 乾きかけた黒い筋へ目を落とす。


「杭の根元を見るな」


 エダが言った。


「見るだけだ」


「見たあと、あれが何か言い当てるだろ」


「今は言わない」


「客に聞こえる。今じゃなくても言うな」


 エダは舟を留める綱へ手を移し、濡れた結び目を締め直した。


 リュカは杭から身を引き、広間の窓の外へ寄った。

 川の向こうで、灯りが一つ動いた。

 織場の窓明かりだ。

 その灯りは川面を細く渡り、宿の窓に揺れた。


 窓の内側で、薬箱の男の影が椀の前で止まっている。

 匙の先だけが、椀の縁にかかっていた。

 膝の横では、薬箱の金具が火を小さく返している。

 火の赤が揺れても、その影だけは動かなかった。


 川の水音だけが、窓の向こうの広間へ届いた。


「綱なら締まってる」


 リュカが言った。

 エダは綱を締めたまま返した。


「見れば分かる」


「窓の影が、また箱のほうへ傾いてる」


 エダは、濡れた綱の上で手を止めた。


「言うな。聞こえたら立つ」


 エダは綱をもう一度強く引いた。

 ぎしり、と杭が鳴る。その音の中に、乾いた木の音が一つ混じった。

 エダが手を離した。


「戻る」


 今度は、舟の綱の音に紛れなかった。


   *


 夜が進むほど、薬箱の男の手は箱から離れなくなった。


 膝に抱えては、床へ下ろす。

 下ろしたそばから、また抱え上げる。

 男が箱を動かすたび、留め具が同じ小さな音を立てる。


「親父は、俺が戻れないと思ってる」


 男がぽつりと言った。

 リュカは椀の縁に指をかけたまま、椀へ一度息を吹いた。

 男は薬箱の底を親指で押した。

 張りついた粉が、紙の下で小さく鳴る。

 家には、昔の薬包がまだ残っている。

 父親は目が悪く、包み紙の字をよく取り違える。


「待たずに、いつもの粉を飲む。違う包みを開けたら寝込む」


「だから薬屋へ行きたい」


 リュカが言った。


「そうだ」


「今行ったら、戻れないどころか、薬屋にも着かない」


「親父は待たない」


「薬屋まで行けないあんたが、どうやって止める」


「それでも」


「行くしかないだろ」


 薬箱の男はそこで初めて、箱を床へ置いた。

 それでも、手は革紐から離れない。


「買いに行くなら、薬屋に着かなきゃいけない」


 エダが言うと、織場の女は匙を椀へ戻せなかった。


「薬屋に着かなきゃ、買えないね」


 織場の女が、匙を浮かせたまま言った。


 老人は椀を火に近づけ、湯気の中で息を吐いた。

 薬箱の男は箱の革紐を握ったまま、爪を白くした。


 帰らなきゃ。

 戻らなきゃ。

 行かなきゃ。


 その言葉が落ちるたび、薬箱の留め具が鳴り、織場の女は片方の靴下を握ったまま膝を扉側へずらす。


 薬箱は、まだ床で扉を向いていた。

 箱の角が擦れている。

 何度も運んだ箱だ。

 革紐だけが、何度も締め直されて新しかった。


「あんた」


「夜明けの鐘までに水が引いたら、私が起こす」


「水が引かなかったら」


「起こさない」


「俺が寝てる間に、親父が違う包みを開けて飲む」


「起こしたら、あんたは薬箱を持って外へ出る」


「水が引いてなければ、舟を出しても薬屋のある岸には着かない」


 薬箱の男は肩を揺らさなかった。

 けれど、箱の留め具から指を外した。


 それでもエダは、次の椀の前で湯を入れた小鍋を持ち直した。

 火のそばなのに、薬箱の男の指先はなかなか温まらなかった。


 焦げ跡の椅子は、まだ一つ空いている。

 薬箱の男はその脚を避けるように膝を引いていた。

 織場の女は、椅子の前へ膝を向けずに靴下を握る。

 老人も、そこまでは椀を寄せない。


 火だけが、空いた座面をあぶっていた。


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