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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第十話 彼岸と此岸の渡し船(2)

 エダの朝は、川へ出る前から始まる。

 客の名を書く台には、古い台帳が開いている。


 まだ空が灰色のうちに、向こう岸の織場で細い煙が上がる。

 点呼の鐘は、こちら岸の長卓にも届く。

 薬屋は夜明けの鐘で閉まり、市場の荷は濡れれば値が落ちる。

 川沿いの家では、火を落としたか、鍋を外したか、扉の留め具をかけたかを、年寄りが何度も確かめに戻る。


 客の名の横に、エダは戻る理由を短く書き足していた。

 織場の女には、点呼。

 薬屋へ行く客には、夜明け。

 市場へ荷を運ぶ客には、濡れ荷。

 家の火を確かめに戻る老人には、火、鍋、留め具。


 エダが台帳を閉じかけるたび、親指は紙の端に並んだ小さな字の横で止まった。

 長卓の下で、客はもう膝を扉へ向けていた。

 荷紐は肩から外れず、薬箱の留め具は何度も鳴った。


 宿の壁には、古い櫂が一本掛けてある。

 もう使っていない櫂だ。

 水に削られ、持ち手のところだけ黒くなっている。


 昔この宿を任されていた男は、増水の朝でもこの櫂を外したという。

 壁の釘には、外した跡の黒い擦れが残っている。


 その擦れの下で、エダは棚へ伸ばした手を途中で止めた。


 櫂は壁に残る。

 椀は棚に残る。

 台帳は台の上で開いたまま残る。


 エダが桟橋の綱へ手を伸ばすと、背後の広間で客が怒鳴った。

 まだか、頼む、ふざけるな。

 エダは綱を握る前に、腰の拭き布を握ってしまう。


 二年前から、長卓の端で椀が強く置かれるたび、エダは棚の前で息を詰める。

 エダは、椀の縁まであと指一本のところで止まる。


 リュカは豆煮を食べながら、宿の中の音を聞いていた。

 匙の音。

 椀を置く音。

 濡れた布を絞る音。

 扉の前で足を止める音。

 薬箱の男は手を留め具へ戻し、織場の女は靴下を握り直した。


 客は宿に入っても、肩だけを火に向けた。

 椀を受け取っても、客は膝を扉へ向ける。

 荷を下ろしても、紐は肩に残った。


 長卓の下で、客たちは火に体を向け直しても、靴先だけは桟橋を向いていた。


 扉へ向いた膝の列の前で、エダは一拍遅れる。

 客の前へ椀を置くたび、エダは桟橋側の扉へ背を向けた。

 けれど棚の奥の椀へ手を伸ばすと、縁に届く前に息が詰まる。


 リュカは、空いている椅子の前で匙を止めた。

 卓の前には、椀の丸い跡さえなかった。


   *


 扉の内側には、二種類の泥が残る。

 向こうへ急ぐ靴の泥。

 向こうから戻った靴の泥。


 濡れた外套から水が落ちる。

 荷紐は外れない。

 長卓の端で、椀だけが先に湯気を立てる。


 怒鳴りかけた客の喉も、水を飲むうちに一度動いた。


 扉の前では、泥で重い靴が止まる。

 肩からずれた荷紐が外れない。

 抱いた子どもの額に、火の色ではない赤が出る。


 エダは長卓の端へ立つ。

 舌打ちする客の前にも、まず椀を置く。

 荷紐を外せない客には、壁際の長椅子を顎で示す。

 泣き出す前の子を抱いた母親には、湯を入れた椀を渡し、母親が縁を持ち直すまで離れない。


 扉の前で舌打ちした客も、長卓に座ると腹を鳴らす。

 腹が鳴れば、椀を受け取る。

 客は熱で手を丸める間だけ、扉から靴先を外す。

 エダはその横へ、濡れた荷を寄せる。


 二年前の朝から、エダは客の靴と手を先に見るようになった。

 泥で靴が重くなった客を、扉から遠い席へ座らせた。

 手が震えている客には、言い合いになる前に湯を出した。

 帰らなきゃ、と聞こえるたび、客の前へ椀を置き、台帳の名の横へ、朝飯まで、と書いた。


 二年前のその朝も、エダは台帳へ、朝飯まで、と書いていた。

 熱のある女が「帰らなきゃ」と言った。

 桟橋の板は、まだ見えていた。

 エダは出しかけた椀を胸の前で止め、桟橋へ向かった。


 その朝、舟はいつもの向こう岸へ着かなかった。

 霧の中に、濡れていない白い砂だけの河原があった。

 台帳のその欄に残った名は、そこから戻らなかった。

 白い河原は、向こう岸の河原ではない。

 灯りも人の声もなく、舟が着いた客は戻ってこない。


 火に一番近い椅子だけが、リュカの前で空いたまま熱を受けていた。

 椅子の前の卓には、椀一つ分の幅が空いていた。

 エダは棚の前で止まり、腰の拭き布を握り込んだ。


   *


 夕方が深くなると、川音の合間に、椀と布と濡れた靴の音が増えた。


 エダは桟橋へ出て、杭に残った水の線へ指を当てる。

 流れてきた草の引っかかり方。

 舟の綱の張り。


 広間へ戻ると、息の浅い客の椀へ湯を足し、泥が厚くついた靴の横へ布を置く。

 荷紐が外れない客の前では、椀を卓の奥へ寄せる。


 卓を回っても、火の赤はエダの背中に残る。

 強すぎる火のそばでは、濡れた客のまぶたが先に落ちる。

 弱ければ、息の白さが朝まで残る。


 エダは薬箱の男の前へ、まず湯気の立つ椀を置いた。

 織場の女の椀には、縁近くまで豆煮を入れた。

 老人には、椀を膝の正面ではなく、火に近い側へ置いた。

 桟橋側の扉の隙間に外の白さが差すたび、老人の腰は浮く。

 椀へ手を伸ばすには、膝を扉から少し外さなければならない。


「よく見てる」


 リュカが言った。


「見てるだけなら楽だよ」


「そうでもない」


「舟を止めたら、こっちへ怒鳴ってくるでしょ」


 エダは短く言った。

 リュカの匙が、椀の縁で止まった。


 食器棚の奥に、椀が一つだけ布の上に出ていた。

 他の椀は重ねてある。

 布の上の椀は、縁に火の赤を細く残している。


 欠けてはいない。

 汚れてもいない。

 ただ、誰の前にも出されていない。


「あの椀は何だ」


 リュカが聞く。


 エダは棚板を押したままだった。


「古い椀」


「使わないのか」


「使わない」


「使えないのか」


「使わない」


 エダは棚板を押したまま動かなかった。

 薬箱の男は留め具を親指で押さえた。

 織場の女は靴下を握り直した。

 老人は椀を少し傾けた。

 湯気が細く揺れた。


 リュカは匙を椀へ戻した。

 エダは布の上の椀へ手を戻さなかった。


   *


 二年前の話を持ち出したのは、エダではなく老人だった。


 椀を抱えて湯を飲んでいた老人が、棚の奥の椀へ顎を向けて言った。


「あの椀の客も、帰らなきゃと言った」


 エダの肩がこわばった。


「やめて」


「やめたら戻るのか」


「戻らないから、やめて」


 老人の椀の湯気が揺れ、エダは棚の前で止まった。


 若い女の客だった。

 織場の働き手で、熱があった。

 手も震えていた。

 靴の泥も重く、川辺を歩く足ではなかった。


 エダは火に一番近い椅子の背へ指をかけた。

 もう片方の手には、半分残ったその女の椀があった。

 舟の綱には、まだ手を伸ばさなかった。


 エダが椀を火のそばへ寄せようとした時、女が言った。


「帰らなきゃ。向こうで席がなくなる」


 その時、エダの親指は椀の縁にかかっていた。

 卓の火に近い側へ寄せるつもりだった。

 だが、その声でエダは卓の前に立ち尽くした。


「一晩寝たら、かえって動けなくなる。今なら渡れる」


 言い切る前に、女の息が切れた。

 エダは椀の縁を、親指で白くなるほど押さえていた。


 エダは親指を椀の縁から外した。

 椀を、女の手が届かない卓の端へ置き、桟橋へ向かった。


 川は杭の半分まで上がっていた。

 だが桟橋の板はまだ見えていた。

 白い霧が出ていた。

 それも、朝前の川なら珍しくない。


 舟は霧の中へ入った。

 いつもの向こう岸へ着くはずだった。


 だが、その朝だけ、舟は白い河原へ寄った。


 灯りがない。

 人の声がない。

 濡れていない砂だけが続いている。


 女は戻らなかった。


 それ以来、棚の前でエダは先に止まる。

 息の白さが火のそばに浮く。

 靴が吸った水が床へ落ちる。

 客は、震える手で荷紐をさらに締める。

 帰らなきゃと聞くたび、エダは台帳を押さえたまま息を詰める。


 老人は湯の増えた椀を抱え、扉へ向けていた足先を、少しだけ火のそばへずらした。

 薬箱の男も、豆煮を飲み込むまでは留め具を鳴らさなかった。


 客の前に椀が出ているあいだ、舟の綱は桟橋の杭に結ばれたままだった。

 それでも二年前から、エダは棚板を押さえたまましばらく動けなくなる。


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