第十話 彼岸と此岸の渡し船(1)
結論から言う。
今、舟を出したら、向こう岸ではなく白い河原に着く。
リュカが渡し場へ着いた時、川は夜の色を残したまま膨れていた。
雨は止んでいる。
だが水はまだ山から下りてきている。
桟橋の杭は半分まで濡れ、黒い流れがその根元を叩いていた。
川向こうには、朝の煙が一本だけ細く立っている。
向こう岸の煙より川の中央寄りに、霧を薄く裂く白い筋が一本混じっていた。
煙ではない。
水に濡れた河原の色でもない。
宿は川に背を向けるように建っていた。
表の扉は街道へ開く。
裏の扉は桟橋へ開く。
煙は低く、梁の下を這ってから川へ流れている。
扉の前では、女が一人、客の前に立っていた。
「渡せないって、どういうことだ」
客は濡れた帽子を握りしめている。
肩に下げた薬箱は、歩くたび脇で跳ねるほど軽かった。
「水が増えてるの。見たら分かるでしょ」
女は言い返した。
二十を過ぎて間もない女だった。
濡れた髪の下に、眠っていない青さが残っている。
袖を肘までまくり、腰に拭き布を挟み、髪を後ろで雑に束ねている。
顎は上がっている。
ただ、腰の拭き布を押さえる指に力が入りすぎていた。
「向こうへ戻らなきゃ困るんだ」
「戻る前に沈んだら、もっと困る」
「薬屋は夜明けの鐘で閉まる」
「薬屋は明日も開く。川に落ちた客は戻らない」
「こっちは人が待ってる!」
「だから止めてる。今の川に舟を出したら、待ってる人のところへ着く前に沈む」
沈む、という言葉で、火のそばの老人が椀を抱え直した。
薬箱の男は留め具から指を離さない。
壁際の若い女が、濡れた靴を長椅子の下へ引いた。
リュカは濡れた外套の水を一度払った。
「飯が先だ」
女が振り向いた。
「今のを聞いて、その第一声?」
「腹が減ってる」
「感じ悪い」
「よく言われる」
女は一拍だけ顎を引いた。
それから、扉の留め具を外した。
「火のそばは詰まってる。今すぐ座れるのは端だけ」
「端でいい」
「豆煮しかない」
「それでいい」
「私はエダ。この宿の裏が桟橋。荒れた日は、舟は出さない」
「おまえが止めるのか」
「そう。止めないと、無理して舟で渡ろうとするバカがいるからね」
エダはそう言って、棚から椀を一つ取った。
黒パンを半分に割り、豆煮をよそう。
リュカの前まで来たところで、エダは桟橋側へ振り向かずに足を止めた。
リュカの靴には泥が深くつき、足の置き方は浅い。
リュカの指先は、椀を持つ前から白かった。
エダは火のそばの客へ顎を振った。
「少し詰めて」
火のそばの客たちは、卓の下で膝と濡れた靴を少しずつ動かした。
エダは空いた幅へ椀を置いた。
「端でいいって言った」
「端じゃ乾かない」
リュカは腰を上げ、その椀の前へ移った。
椀は熱かった。
リュカは両手で持ち、冷えた指を縁の下へ丸めた。
「見てるな」
「仕事だから」
エダは卓の下へ一度目を落とした。
リュカの靴から落ちた泥は、床板の上で、火に近い端だけ乾きはじめている。
リュカの白い指先は、椀の下に丸まったままだ。
エダが口にしたのは、椀の位置だけだった。
そのまま、エダは背で桟橋側の扉をふさいだ。
リュカの椀の湯気が、まだ二人の間に立っている。
*
宿の広間は広くない。
石で囲んだ火が一つ。
長卓が二つ。
壁際に長椅子。
客の名を書く台の奥に、食器棚と古い台帳。
客は七人いた。
薬箱の男は、膝の上の箱に指をかけるたび、靴先を桟橋側へずらす。
織場へ戻るという若い女は、濡れた靴下を脱がず、足先を扉へ向けている。
老人は火のそばにいるのに、家の火の話ばかりしている。
「消したかどうか、思い出せないんだ」
老人が、湯の残った椀を両手で包みながら言う。
「朝まで戻らないと、煙が上がってたらどうする」
「煙が上がってから戻っても遅いでしょ」
エダは匙を配りながら返す。
「だから今戻る」
「今戻ったら、煙を見る前に川へ落ちる」
老人は膝の上で、火を消す動きを何度もなぞっている。
織場の女は、椀に手をつけない。
「食べなさい」
エダが言う。
「点呼に遅れたら寝床を取られる」
織場の寝床は、壁際に並んだ板一枚で一人分だった。
朝の点呼で返事がなければ、その板は空きになり、残った荷は外へ出される。
「食べないと、その前に倒れる」
「倒れたら、もっと遅れる」
「だから食べなさいって言ってる」
織場の女は匙を持った。
だが、口へ運ぶ前に止まった。
「帰らなきゃ」
織場の女は、帰らなきゃとこぼすたび、匙を卓へ置きかけて止めた。
エダも椀を運ぶ途中で一度止まり、卓へ置く前に息を吸う。
エダは腰の拭き布を握りしめる。
リュカも、匙を椀の縁に触れさせたまま止めた。
川音が近い。それでもリュカの前では、椀の湯気が先に薄くなっていた。
帰らなきゃ。
薬箱の留め具が鳴る。
織場の女は、靴下を白くなるほど握る。
老人は椀を、扉へ小さく傾けた。
火に向き直しかけた客も、扉の音でまた膝を桟橋側へ向けた。
エダは棚へ伸ばしかけた手を、椀に届く前に戻した。
薬箱を抱えた男は、箱を膝へ引き寄せて重さを量る。
織場の女の足先は、濡れた靴下のまま扉を向いている。
老人の椀も、話のたびに扉へ傾く。
濡れた外套からはまだ水が落ちている。
棚の椀の縁に触れないまま、エダは腰の拭き布を握った。
エダは火のそばの椅子を一脚だけ、空けたままにしていた。
古い木椅子だ。
背もたれに焦げ跡がある。
火に一番近く、風から一番遠い。
「そこ、空いてるなら座らせろ」
薬箱の男が言った。
「空けてる」
「誰も座ってないだろ」
「座りたいだけなら、そこは駄目」
「俺は客じゃないのか」
「客だよ。だから豆煮を出した。でもあの椅子は、立ってたら倒れそうな客のために空けてある」
エダは拭き布を握り直し、椅子の前から動かなかった。
リュカは、火のそばの椅子と、エダが握る拭き布の間で匙を止めた。
扉の向こうで、川音が鳴っていた。
椅子は空いている。
椅子の前には、椀を置く幅だけ卓が空いている。
エダはその幅を拭くたびに途中で止まった。
*
川向こうの煙で、宿の客は向こう岸の時刻を知る。
飯時の煙は太い。
織場が火を落とす前には、煙が細くなる。
夜明け前に煙が上がると、客は匙を止める。
エダは桟橋から戻り、腰の拭き布で濡れた指を拭いた。
それから、台帳の端を押さえた。
杭についた水の線は、まだ朝より高い。
向こう岸で鐘が鳴ると、薬箱の男は留め具を押しそこねた。
火の明かりが揺れるたび、長卓の下で椅子の脚が床を擦った。
エダは棚の前へ戻ったが、椀には触れなかった。
薬箱の男は、箱の留め具を開けたり閉じたりした。
中身は空に近い。
残っているのは包み紙と、底に張りついた粉だけだった。
「向こうの薬屋は夜明けの鐘で閉まる。うちの親父は昼まで待てない」
「今は渡せない」
「親父が待てないって言ってる」
「川も待たない」
エダがそう返すあいだも、薬箱の男は留め具を押しきれなかった。
男の指先は冷えて白い。
男は留め具に親指をかけ直した。革の端で指が滑り、薬箱を抱えたまま膝から崩れそうだった。
織場の女は、自分の膝の上で靴下を握ったまま座っていた。
靴下は濡れている。
脱げば乾く。
だが靴下を火に向けて置くには、足先を扉から外さなければならない。
だから脱げない。
「点呼に遅れたら、寝床を取られるのか」
リュカが聞くと、織場の女は短く息を吐いた。
「寝床って言っても、壁際の板一枚だよ。無くなったら、糸くずだらけの床しか残らない」
「床なら残る」
「その床も、先に戻った人で埋まるんだよ」
織場の女はそう言って、濡れた靴下をまた膝の上で握った。
老人の椀の前で、湯気が細く立っていた。
老人は家の火のことを何度も言った。
そのたび、老人は家の火を消し直すように指を丸め、膝を扉へ向けた。
エダは老人の椀を、卓の奥、火に近いほうへ少し寄せた。
老人が椀を追って火のそばへ膝をずらしたところで、湯を少し足す。
老人はまだ、外へ出るつもりでいた。
エダは老人の外套を、老人の席から届かない釘へ掛けた。
扉の横ではない。
立ち上がらなければ取れない場所だった。
老人は膝から手を浮かせた。
指先を外套の裾へ伸ばす。
けれど届かない。
エダは外套の肩を、釘の奥へ押し込んだ。
老人は首をひねり、浮かせた手を膝へ戻した。
老人の足先は、扉から半歩戻った。




