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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(10)

 ネラは昼のスープをよそり、残った老人と商人とリュカの前に置いた。

 それから、自分たちの器を三つ出した。

 ひとつをラグへ。

 ひとつをドマへ。

 ひとつを自分の前へ。


 そのあと、テーブルの奥から、昨夜エナが残した器を取った。

 ネラは底に固まっていた麦を落とし、器を洗った。

 縁には白い跡だけが残った。


「その器にもよそうのか」


 ドマが言った。

 ドマの杖先が、テーブルの下で止まった。


「よそわない」


 ネラは空のまま、器をテーブルの奥へ伏せた。


「エナがいつか戻ってきた時に、熱いのを入れる」


 ラグは器を両手で持った。


「エナが戻ってこなかったら、どうするの」


 ネラは伏せた器に触れかけ、手を止めた。


「洗って、また置く」


 ネラとラグとドマはテーブルの中央を囲んだ。

 火からも入口からも、少し離れていた。

 ラグはひと口すすり、すぐ二口目をすくった。


「割れてても、うまい」


 ラグが言うと、ネラは鍋の方を見た。


「なら、残すな」


「うまいものはうまい」


 ラグは器を抱え直した。

 指先の赤みが、湯気で少し戻った。


 ネラは、ひびだけ入った卵を小さな器へ移した。

 殻から中身は漏れていなかった。


「ひびの入った卵は、暖炉の端で焼く」


「売れないぞ」


 ドマが言った。


「売り物じゃない。宿で使う分だ」


 ラグが器から顔を上げた。


「うまく焼けなくても?」


「うまく焼けなくても焼く」


 入口の外には、まだ霧が残っていた。


 昼過ぎ、リュカは荷をまとめた。


 峠の門では、人の通行が戻っていた。

 霧も薄かった。

 坂の上で、峠の門の輪郭がぼんやり浮いていた。


 ネラは、その空の器をテーブルの奥に伏せたままにしていた。

 入口脇の低い棚には、器を置いていた丸い跡が乾いていた。

 その跡は、ほかの器を伏せる場所から少し離れていた。


「その器は、いつまで置く」


 リュカは荷を肩に掛けないまま、伏せた器を指した。


「邪魔になるまでは置く」


「邪魔になったら?」


「洗って、また出す」


「器を置いて、待つのか」


 ネラは、伏せた器の手前で手を止めた。


「食べる場所を残しておくためだよ」


 ネラは、伏せた器をテーブルの奥へ少し押した。

 器の縁で、火の色が細く揺れていた。


 足の悪い老人は、暖炉のそばで杖を膝に置いていた。


 入口では、ラグが泥だらけの商人の荷紐を直していた。

 紐が肩の脇へずれていた。

 ラグは一度ほどき、肩の上へ通し直した。


 手つきは遅かった。

 結び目は不格好だった。

 商人の荷は肩の上で一度揺れ、すぐ落ち着いた。


 ラグは結び目から手を離した。

 それから、朝にエナが立っていた入口の床を見た。

 入口の床には誰も立っていなかった。


 リュカは入口を出た。


 霧は薄くなっていたが、まだ残っていた。

 宿から門までの坂には、朝の足跡があちこち乱れて残っていた。

 まっすぐなものもあれば、途中で脇へ膨らんだものもあった。


 どれも、きれいな一本線ではなかった。

 それでも、坂の上へ向かっていた。


 背後で、ネラの靴が坂の石を一つ踏んだ。


「旅人さん、待ちな」


 リュカは振り返った。


「で、どうなんだい。霧端屋は、ましになったか」


 リュカは一度だけ、宿の入口を見た。


「まだ下手だ」


 ネラは、エプロンの端を払った。


「分かってるよ」


「でも、今朝はエナを送り出してから、親子とセムも峠へ出せた」


 ネラは宿の入口を一度振り返った。

 それからリュカへ向き直った。


「あの器は、しばらく置く。残った客にも、熱いものくらいは出す」


「なら、少しはましになる」


 ネラは、エプロンの端から少し手を離した。


 リュカは坂を上った。


 朝の足跡は、入口から引き返したものだけではなかった。

 重いものも、細いものも、途中で乱れながら坂の上へ続いていた。


 リュカは、その足跡の横で一度だけ足を止めた。

 足跡は、薄い霧の奥へ伸びていた。


 峠の門の前では、霧端屋を教えた若い門番が門の金具を拭いていた。

 朝からの湿り気で、金具が少し曇っていた。


「もう出るのか」


 門番は、布を畳んで手を離した。


「霧が薄ければ出る」


「薄い。今朝より石段が見えてる」


 門番は門の板へ手をかけた。

 濡れた木目を一度、指でたどった。


「今朝、あの娘が一人で通った。くすんだ土色の外套で、小さい荷を背負ってた」


 リュカは足を止めた。


「止めたのか」


 門番は首を横に振り、門の板を押さえた。

 板が手の下で少し軋んだ。


「止める間もなかった。足元の石を、一つずつ探るように見てた」


「町への道は聞かれたか」


「聞かれた。染め場のある町は、下って二つ目の橋を右だと教えた」


「霧は割れたか」


 門番は首を横に振った。


「今日は割れてなかった」


 門番は門をさらに押し開けた。

 濡れた板が軋んだ。


 門の向こうで、峠道にはまだ霧が残っていた。

 薄い霧の向こうで、下り坂が始まっていた。

 リュカは門の向こうを見た。


 濡れた板が、門番の手の下でもう一度軋んだ。

 だが、門は開いたままだった。


 門の先に、濡れた石がひとつだけ見えていた。

 門番は、門板ではなくその石を見た。

 その先には、まだ薄い霧が残っていた。


 エナの優しさは、何度も客の背中を押した。

 そのたび、エナの靴先だけが入口の板へ縫い止められた。

 染め場への道を聞いた朝、エナは誰かの靴先ではなく、自分が次に踏む石を探していた。


 それでも、足を出す場所はあった。


 背後の宿は、薄い霧の向こうで輪郭をゆるめていた。

 入口の床だけが、霧の湿りで淡く光っていた。


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