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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(9)

 開いた扉の向こうで、霧が低く動いた。

 エナが一人で入口を越えた時より、霧は少し薄くなっていた。

 二段目の角と、その先の杭の頭までは見えていた。

 それでも、石段の奥にはまだ霧が残っていた。


 一番先に入口へ来たのは、子ども連れの一家だった。


 父親は荷を背負い直していた。

 さっきまでより、肩紐を短く締めていた。

 母親は子どもの手を握っていた。

 子どもの目は、赤いままだった。


「今なら、下りられると思う」


 父親はそう言った。

 声は震えていたが、入口からは目をそらさなかった。

 ネラは壁に掛けてある長い道杖を一本取った。

 子どもではなく、父親へ渡す。


「足より先に杖を出しな」


 父親は受け取った。

 すぐには動かなかった。


「奥がまだ見えない」


「見えないところは、杖で石を探す。分からなくなったら声を出す」


 母親の手が、子どもの手を強く握りすぎた。

 子どもが小さく「痛い」と言った。

 母親は慌てて力を緩め、子どもの手の甲を親指で撫でた。


「ごめん。痛かったね」


 ネラは母親の手を見た。


「握るなら、痛くない強さで握る。声が聞こえたら返事。怖くなったら、怖いって言いな」


 母親はうなずき、子どもの顔をのぞいた。


「泣いたらどうするの」


 子どもが聞いた。


「泣いてもいい。泣いたら、足を置いた石で止まろう」


 母親がそう言ってから、ネラが続けた。


「手を離さない。子どもの足だけ先へ行かせない」


 子どもは鼻をすすった。

 それでも、母親の手を離さなかった。


 霧は割れなかった。


 父親の杖先だけが先に低い霧へ入った。

 硬い音が返る。


「石に当たった」


 父親が言った。


「杖が当たった石に足を置きな」


 ネラが返した。


 父親の靴底が、石段で硬く鳴った。

 母親と子どもも、一歩遅れて霧の残る石段へ入った。


 三人の靴先はすぐ低い霧にかかった。

 けれど、手は離れなかった。


 ネラが入口から呼んだ。


「聞こえるか」


「まだ聞こえる」と父親の声が返った。


 ネラは続けた。


「子どもの足は、石に乗ってるか」


「ちゃんと石に乗ってる」と母親の声が返った。


「怖い。でも止まってる」


 子どもの声が、霧の奥で少し震えた。


「三人とも、今いる石で止まれ」


 ネラが言った。

 杖の音も靴音も止まった。

 父親は足を動かさず、道杖だけを右へ伸ばした。

 木の先が石をこすり、しばらくして父親の声が戻る。


「次の石、右にある」


「右なら行ける」


 母親の声だった。

 子どもは鼻をすすり、手を離さなかった。


 石段の奥で、杖がまた鳴った。

 三人の声は、少しずつ遠くなった。


 ラグは入口の柱をつかんだままだった。

 ドマは道杖をもう一本、壁から外していた。


 入口に、裂け目はなかった。


 それでも、三人は石段の奥へ進んでいった。


 声が聞こえなくなるまで、ネラは扉の縁を離さなかった。


 足の悪い老人は、杖を膝に置いたまま首を横に振った。

 泥だらけの商人も、壁際から動かなかった。

 二人とも、石段がもっと見えるまで待つことにした。


 次に、セムが胸に卵の籠を抱えて入口へ来た。

 背中の籠は、宿に売った分を下ろして軽くなっていた。

 割れた包みだけが、テーブルの端に残っていた。


 ラグはドマから道杖を受け取り、セムへ渡した。


「背中の籠を上下に揺らすな」


 ドマが言うと、セムはうなずいた。

 胸の籠は片腕で抱えた。

 もう一方の手で、道杖を握った。

 背中の籠の縄は、胸の前で短く結ばれていた。


 霧は割れなかった。

 セムは、さっき親子が下りた石段へ道杖を出した。

 硬い音を聞いてから、籠を揺らさないよう小さく足を進めた。

 しばらくして、霧の奥で籠の縄が小さく鳴った。

 やがて、その音も坂の下へ薄くなった。


 割れた卵の包みは、テーブルの端に残っていた。

 ラグは包みに伸ばしかけた指を、自分の胸元へ戻した。

 今日は、誰も慌てて片づけなかった。


 昼前には、霧はさらに薄くなった。

 完全には晴れなかった。

 石段の角や杭の側面が、薄い霧の向こうから少しずつ戻った。


 出ていく者がいったん途切れると、入口から暖炉まで床板が続いて見えた。

 朝から踏まれた泥が、板目に黒く残っていた。


 ネラが引き戻した商人は、壁際で膝を抱えたまま座っていた。

 まだ指の泥を落としきれていなかった。


 ラグは桶を取り、入口の泥を拭き始めた。

 布を絞る水が、すぐ灰色になった。


「ここ、毎朝こんなに汚れてた?」


 ネラは鍋の前で足を止めた。


「汚れてたよ。誰が拭いてたと思ってる」


 ラグは布を灰色の水へ沈め直した。

 言い返さず、もう一度絞った。


 テーブルの端には、割れた卵の包みが残っていた。

 ネラは卵の包みをほどいた。


 卵は一つ、殻の中で崩れていた。

 もう一つは、ひびだけだった。


「割れた一つは、昼のスープに入れる」


 ラグが桶を置いて振り返った。


「本当に入れるのか」


 ドマは道杖が二本抜けた壁を見ながら言った。


「割れたのを捨てないだけだ」


 ネラは鍋をかき混ぜ、薄い麦のスープに卵を落とした。

 黄色はすぐ広がらず、白っぽい麦の間でゆっくりほどけた。

 湯気に、卵の甘い匂いが混じった。


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