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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(8)

 石に当たった重い音に遅れて、ネラの声が返った。


「捕まえた。戻す」


 縄が一握りずつ内側へ戻った。

 石段の先から、ネラの手が伸びた。

 指の皮が擦れていた。


 ネラの腕の後ろで、泥だらけの商人が崩れるように現れた。

 商人は床板に手をついた。

 泥のついた指で、何度も板をこすった。

 ネラは商人の襟をつかんだまま、入口へ戻った。

 膝をつきかけ、踏みとどまる。


「宿の中にいろ」


 商人はうなずいた。

 返事の声は出なかった。


 ネラはやっと手を離した。

 手のひらから、薄く血がにじんでいた。


 入口の脇に、エナの姿はなかった。

 ラグが縄を引いていた。

 ネラは商人の襟をつかんでいた。


 ラグは、濡れた床板の手前で足を止めた。

 ドマは自分の杖を手元へ戻した。

 子ども連れは奥にいた。

 卵売りのセムも、動かなかった。


 ネラは手首の縄をほどいた。

 赤くなったところを、布で一度押さえた。


「もう、誰も勝手に入口を越えるな」


 暖炉のそばで、客たちの動きが止まった。

 声は、奥の客にまで届いた。

 セムが、胸の籠を抱え直した。

 背中の籠も肩の後ろでずれていた。


「待っても、卵は軽くならない」


 セムが言う間に、ネラは棚の下の小さな木箱を出した。

 蓋を開けると、銅貨が底に少しだけ入っていた。


「宿で使う分だけ買う」


 ネラはセムの胸の籠と背中の籠を見た。


「背中の籠を床へ下ろしな。買った分をここで抜いて、下りる荷を軽くする」


 セムは言い返しかけた。

 けれど、泥だらけで壁際に座る商人を見て、口を閉じた。

 ネラはラグへ目を向けた。


「籠を揺らすな。縄だけ持ちな」


 セムは胸の籠を抱えたまま、背中の籠の縄を肩から外し、ゆっくり膝を折った。

 ラグはうなずき、背中の籠の縄を支えた。

 卵が中で小さく鳴った。

 籠の底が床板へ近づき、一度だけ揺れた。


 ラグは慌てて持ち直そうとした。


 ネラは籠の揺れを見ていた。


「肩に近い縄を持ちな。籠の枠を持つと揺れる」


 ラグは縄の高いところを持った。

 籠の揺れは小さくなった。


 籠の底が床板に触れたところで、布包みの端に湿りが広がった。


 入口の近くで、誰も声を出さなかった。


 ネラはセムの足元を見た。

 セムの靴先は、まだ床板の内側にあった。

 入口は越えていない。


「一つ割れた。暖炉の方へ下がりな」


 セムは胸の籠を抱えたまま、暖炉の方へ一歩下がった。

 ラグは床に下ろした背中の籠から、湿った布包みを一つ取り出した。

 割れた卵の湿りが、布包みの端へゆっくり広がっていた。


 ラグは布包みを両手で持ったまま、次の動きに迷った。

 もう、エナの手は横から出てこない。

 自分の指だけが、湿った布の前で止まっていた。


 ネラは箱の銅貨を見た。


「割れた分も買う。昼のスープに入れる」


「宿のせいじゃない」


 セムが言うと、ネラは銅貨を数枚、箱の縁に並べた。


「まだ使える。スープに入れる。捨てるよりいい」


 金属の音が、入口の前で小さく続いた。

 子ども連れの父親が、入口を見た。


「うちは、いつ下りればいいんだ」


 母親の腕の中で、子どもがしゃくり上げた。


「二段目から先に霧が残ってる。今出したら、子どもの足元が見えなくなる」


 ネラが言った。

 父親は、背負った荷の肩紐を握りしめた。


 ネラは入口の外を見た。

 入口の脇は空いていた。

 一段目の石だけは見えていた。

 その先には、まだ霧が残っていた。


「最初の杭が見えるまで待つ。今は下りない」


 母親が顔を上げた。


「霧がもう少し退いたら、父親が宿の長い道杖を持つ。母親は子どもの手を離さない」


「杖だけで下りられるのか」


「あんたたちの足で下りる。杖を先に出して、怖くなったら声を出す」


 ネラは言い切った。


「怖いなら怖いと言いな。止まる時も声を出す。黙って入口へ出るな」


 父親は子どもの背へ手を戻した。

 母親も、入口ではなく子どもの肩を抱き直した。


 入口に、裂け目はなかった。

 それでも、宿の中にいる者は誰も入口へ踏み出さなかった。


 それからしばらく、入口の前には霧が残っていた。


 入口に、エナの背中はなかった。


 ネラは低い棚に器を戻さなかった。

 昨夜から奥へ押していた器は、まだテーブルに残っていた。

 入口に近い棚には、丸い乾き跡だけが残っていた。


 ネラの手には布が巻かれていた。

 商人を戻した時、縄で擦った手だ。


 ネラが桶へ目を向けると、ラグが先に取っ手をつかんだ。

 運ぶ途中で少しこぼしたが、すぐ布を取り、自分で拭いた。


 足の悪い老人が、杖を膝の上で握り直した。

 子ども連れの父親は、入口の横ではなく、自分の荷紐を見ていた。


 霧が床板の端から少し退いたころ、ネラはエナが立っていた入口の脇を一度だけ見た。

 それから、開いたままの扉の縁へ立った。


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