↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
PR
65/128

第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(7)

 エナの前に、入口までの細い空きだけが残った。

 濡れた床板の先で、一段目の石だけが見えていた。

 その先の石段と杭は、まだ見えなかった。


 客は暖炉の方で待っていた。

 老人は杖を胸へ抱え、商人は背負い袋の紐を握り、セムは卵の籠を抱えて息を浅くしていた。

 子ども連れの母親は、子どもの肩まで外套を引き上げていた。


 誰もエナを呼ばなかった。

 待てば、霧はもう少し薄くなるかもしれない。

 けれど待てば、誰かがまたエナの名を呼ぶ。


 エナは荷を高く背負い直した。

 肩紐が外套の上でまっすぐ伸びた。


 ネラは入口の脇に立ち、エナの肩紐を一度だけ見た。

 エナは自分で握り直した。


 これまで客の足元を探してきた目を、今は自分の足元へ戻していた。


 リュカは壁に背を預け、腕を組んでいた。

 組んだ腕の陰で、袖口に隠れた指先が一瞬だけ細く光った。

 すぐ指を握り、消した。

 光は床へ落ちなかった。

 霧も開かなかった。


「エナ、行きな」


 ネラの声は、エナの背へ届いた。

 エナは入口へ一歩進んだ。

 靴底が床板を鳴らした。


 暖炉の方で、商人が何か言いかけた。

 エナは振り返らなかった。


「振り向かなくていい」


 ネラが言った。


 エナは肩紐を握り直し、そのまま入口を越えた。


 霧は割れなかった。

 二段目から先には、まだ霧が残っていた。


 それでも、エナは入口の外へ足を置いた。


 一歩目で、低い霧がエナの靴先にかかった。

 二歩目で、外套の裾が低い霧に触れた。


「足元の石はある。置く場所だけ探しな」


 ネラの声が追った。

 エナは返事をしなかった。

 返事のかわりに、肩紐を握り直した。


 肩に掛かった小さな荷が、外套の脇で一度だけ揺れた。

 三歩目で、エナの足首から下は低い霧に隠れた。

 四歩目の音は、石を探るように小さかった。


 霧は割れなかった。

 けれど、エナは戻らなかった。


 リュカは、組んでいた腕をほどかなかった。


 エナが二歩、三歩と進んでも、誰かのための裂け目は開かなかった。

 エナ自身の足音だけが、石段の先へ細く進んでいた。


 宿の中で、客たちはまだ暖炉のそばにいた。

 入口までの床板は空いたままだった。


 エナの足音が消えたあとも、宿の入口は開いたままだった。

 低い霧が、二段目から先に残っていた。

 入口に裂け目はなかった。

 一段目の石だけが、濡れたまま見えていた。


 誰も動かなかった。

 エナが立っていた場所には、誰の足もなかった。


 ネラは、すぐ次の客を呼ばなかった。

 入口の床板を見て、それから商人の背負い袋へ目を移す。


 商人の背負い袋の金具が鳴った。

 肩紐の結び目が、少しずれていた。


「まだ出るな。肩紐がずれてる」


 商人は背負い袋を抱え直し、入口を見た。


「今、直すのか。昼までに買い手へ渡したい」


 ネラは二段目から先に残る霧を見た。

 それから、肩紐の結び目を指した。


「出る順番が来るまでに、結び目だけでも締め直しな」


 商人の指は肩紐にかかった。

 だが、引き締める前に止まった。

 ネラは商人の指が止まったのを見てから、子ども連れへ顔を向けた。


「あんたたちは奥へ。湯を飲ませな」


 母親はうなずき、子どもを抱え直した。

 父親も荷を下ろし、入口からさらに離れた。


 ネラはその二人が入口から離れるのを見た。

 そのわずかな隙に、商人が暖炉のそばから入口へ出た。

 呼ばれる前に行くつもりだった。


「待ちな。まだ呼んでない」


 ネラの声より早く、商人の靴先が低い霧へ入った。

 次の瞬間、入口の外で叫びが上がった。


「足が滑る。左に滑る!」


 声は近い。

 けれど、入口の正面ではなかった。

 左の崖側から聞こえた。

 ネラは入口の柱をつかんだ。


「声だけ出しな。動くな」


 二段目のあたりで、濡れた靴底が石をこすった。


「左に滑った! 戻れない!」


 ラグが踏み出し、濡れた床板で足を取られかけた。

 ドマは自分の杖を握り直した。


 ネラが「縄を持ってきな」と叫ぶと、ラグは入口横の太い縄へ走った。

 荷を縛る縄だ。

 ラグは片端を背中へ回し、胸の前で縄を両手につかんだ。

 腕だけではなく、体で受ける形だった。


「柱の内側で踏ん張れ」


 ドマは自分の杖先で、ラグの踵の横の板を叩いて位置を示した。


「踵は今叩いた板から動かすな。腰を落とせ。腕だけで引くな」


 ラグは膝を落とした。

 縄が背中に食い込み、踵が床板をきしませた。

 ネラはもう片端を手首へ巻いた。

 腰へ結ぶ時間はなかった。


「聞こえるなら返事しな」


 ネラはそう叫び、そのまま霧へ入った。

 低い霧が、ネラの足元を隠した。


 リュカは壁から背を離し、入口の内側で止まった。

 指が動きかけた。

 だが、光は出さなかった。

 霧は開かなかった。


 ネラの声が、石段の奥から短く返った。


「石から足を離すな」


 縄が床をこすった。

 ラグの体が入口へ引かれた。

 ドマは、ずれかけたラグの足元へ自分の杖を伸ばした。


「背中に回した縄で受けろ。腕だけで引くな。足を滑らすな」


 ラグは歯を食いしばった。

 入口の外で、荷の金具が石に当たったらしい。

 重い音が返った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。