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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(6)

 エナは客の器にも荷紐にも触れず、両手を肩紐に置いていた。


 昨夜エナが残した器は、テーブルの奥にあった。

 残った麦は、器の底で固くなっていた。

 ネラの手も、ラグの手も、その器へは伸びなかった。


 ネラが扉を開けた。


 霧は、入口の外で低く重なっていた。

 床板の濡れた色が、入口の内側まで広がった。

 一段目の石だけは濡れて見えた。

 二段目から先は、まだ見えなかった。


「エナの前を空けな。客はまだ、勝手に入口へ寄るんじゃない」


 ネラは開いた扉の縁を、曲げた指の節で一度叩いた。

 入口のざわめきが切れた。


 子ども連れの母親の靴先が床板の端へ出かけ、戻った。

 老人の杖が入口の床板を突く前に止まった。

 商人の肩紐が、ぎし、と鳴った。


 老人の目が、入口ではなくエナへ向いた。

 商人も母親も、同じ方へ体を傾けた。


「エナ、少しだけ足元を見てくれない」


 子ども連れの母親が、エナの袖に指をかけかけた。


 その言い方に、エナの指が止まった。


 昨夜も、その前の朝も、入口で同じ声が重なっていた。

 見てくれ。

 立ってくれ。

 待ってくれ。

 どれも、少しだけで済むはずだった。


 エナは、荷の紐から指を離さなかった。

 肩に掛けた布袋が、背中で少し沈んだ。


 母親は、子どもの肩に指を食い込ませていた。

 ネラはエプロンの端をつかみ、すぐ離した。

 つかんだ跡だけが、布に短く残った。


 ネラはエナに声をかけた。

 客へ向ける声より低かった。


「入口の内側に立っていな。荷紐は離さない」


 エナはネラを見た。


「立っているだけで、いいんですか」


「先に客を下がらせる。客の手にも荷にも触らない。分かったね」


 エナは荷の紐を握り直し、入口の内側に残った。


 低い霧を前に、エナは荷の紐を強く握った。

 外套の裾は、入口の手前で止まっていた。


 子ども連れの母親だけが、子どもの手を引いたまま、もう一度入口へ寄りかけていた。

 靴先が床板の端にかかったところで止まった。

 エナの靴先は、内側に揃っていた。

 エナは荷紐を握ったまま、入口の外を見ていた。

 母親の靴先へは目を落とさなかった。


 ネラは、いつものように「足元だけ見な」と言いかけた。

 その声は喉で止まった。


 母親の靴先の向こうに、一段目の石だけが濡れて見えていた。

 二段目から先には、まだ霧が残っていた。

 杭は見えない。


 子どもは母親の袖を握り、二段目から先を見た。


「見えないよ」


 子どもの声だった。


 母親の目が、エナへ動いた。

 エナの指が荷紐から離れかけた。

 ネラの手が先に母親の肩へ触れた。


「今、入口を越えるのはエナだ。あんたたちは下がる」


 母親は一歩下がった。

 子どもも、床板の端から離れた。

 父親は背負った荷の肩紐を、胸の前で握り直した。


 足の悪い老人が、スプーンを器の縁に当てたまま言った。


「じゃあ、俺たちはあの子なしで下りるのか」


 席の端で、椅子の脚が小さくきしんだ。

 近くの客は胸の前で手を止め、礼まではしなかった。


 エナは振り返らなかった。

 荷紐が指の下で小さくきしんだ。


 リュカは客の外側から、入口の床板を見ていた。

 エナの靴先は、入口の内側に揃っていた。

 乾いた泥が、靴先に薄く重なっていた。


 入口近くには、子ども連れの一家が残っていた。

 老人は杖を持ち、商人は背負い袋を抱え、セムは卵の籠を抱えていた。

 客の一人が動けば、エナはそちらを見てしまう。


 ネラは入口から一歩下がり、暖炉のそばの長椅子を指した。


「客は、いったん暖炉の方へ下がる」


 商人の眉が上がった。


「俺が先に出る」


「順番の話はあとだ」


 ネラは入口から暖炉までの床板を示し、手のひらを横へ払った。


「エナが入口を越えるまでは、杖も荷も入口へ近づけるんじゃない」


 足の悪い老人が、杖を胸へ抱え直した。

 商人は背負い袋の紐を握ったまま、奥へ半歩下がった。

 セムは、籠を揺らさないよう体ごと向きを変えた。


 子ども連れの母親だけが、すぐには動かなかった。

 子どもの手を握ったまま、入口の外とエナを見比べていた。


「子どもが怖がってる」


「だから、今は下がる」


 ネラは母親の肩へ手を置いた。

 押したわけではない。

 けれど、母親は子どもを抱え直し、父親の方へ戻った。


 客たちの靴先が、入口から下がった。

 老人の杖も、セムの籠も、扉から離れた。

 床板に、細い空きが残った。

 エナの靴先から扉まで、何も置かれていない床板だった。


 ネラはその空きを見てから、エナを見た。


 ネラはエナの名を呼んだ。

 エナは荷紐を握ったまま顔を上げた。


「客の方を見るな」


 エナの目が、入口の外へ戻った。


「肩紐だけ握っていな。外へ出すのは、自分の足だけだ」


 客のいる方で、卵の籠がかすかに鳴った。

 エナの指が一度だけ動いた。

 けれど、荷紐からは離れなかった。


「分かりました」


 エナの声は小さかった。

 顔は入口へ向いていた。

 ネラは濡れた床板の上に片手を出し、客たちへ向けた。


「誰も呼ぶな。頼むな。あの子が入口を越えるまで、あの子に声をかけるんじゃない」


 宿の中から、音が引いた。

 暖炉の薪が一度だけ鳴った。


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