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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(5)

 ネラは、木目に爪をかけたまま、指を止めた。


「今度こそ、と何度も思った。けれど、思っただけだった」


 ネラは板へ手を落とした。


「紹介状が届いたあと、エナが入口から出ようとした朝があった。私は止めなかった」


 ネラは、板を押したままだった。


「ほっとしたんだ。これで私のせいじゃない、って。でも、夜にはもう言えなかった」


 その夜、エナの分の器だけが減らなかった。

 ネラが声をかけるたび、エナは「あとで」と首を振った。

 テーブルの奥に置いた器の前で、ネラは指先を少し沈めた。


「スープは冷めた。荷だけは、部屋の隅でいつも紐を締めたままだった」


 リュカは、自分の器の脇で手を止めていた。


「翌朝、また霧が出た」


 ネラは、扉の板を一度押した。


「私は、エナに、今日だけ入口に立ってほしいと言った」


 扉の板が、湿った音を立てた。


「今日だけだ、と言った。毎朝出る霧だと知っていた」


 ネラは火のそばへ戻りかけた。

 薪へ手を伸ばしかけ、暖炉の縁で止めた。


「それから、『今日だけ』が積もった」


 暖炉の底で、薪が小さく鳴った。


「旅人は、私が出し方を間違えたら崖へ落ちる」


 火が小さく沈んだ。


「エナは、入口の内側に残されるだけだ」


 ネラは、器の縁を一度だけ押した。


「だけ、なんて言えるから怖い。あの子の器は奥へ押せてしまう。冷めても、誰も叫ばない」


 リュカのスプーンは、器の中で止まった。

 ネラは、器の縁から手を離した。

 手を膝に置いても、指を開いたままにしていた。


「明日、客を止めるのは私だ」


「エナを、客の横には並ばせないんだな」


「そうだ。あの子は自分の荷だけ持って出る。客の荷には触らせない」


 ネラは、膝の上で手を握った。


「霧が割れなくても、石段は霧の下にある」


 リュカの視線が、暗い入口へ動いた。


「見えなければ、戻せるのか」


「戻すよ。杖が石を外したら、まず止める。ラグが迷ったら、ドマが声を出す」


 ネラは膝の上の拳をほどかなかった。

 指先が掌を押し、爪の先が白くなっていた。

 リュカは、ネラの白くなった爪を見た。


「エナの代わりを作るな」


「作らない。あの子の立っていた場所を、空けるんだ」


「旅人さんの言い方は、いちいち腹が立つね」


「よく言われる」


 ネラは握っていた手の力を一度だけ抜き、すぐ戻した。


「明日、あの子が客の荷へ手を伸ばしかけたら、私が止める。エナの肩紐を握ってでも」


 リュカは何も言わなかった。


「客の世話はさせない。あの子には、自分の肩紐だけ握らせておく」


 ネラは膝の上で手を握り直し、指の節を白くした。


 テーブルの奥で、エナの分の器が冷えていた。

 入口の外で、風がまた板を鳴らした。


 その音は一晩中、入口の外で続いていた。


 夜明け前、峠の宿の扉の隙間に霧がのぞいた。


 外が明るくなったわけではない。

 夜の間に低く溜まった霧が、扉の板まで冷たく濡らしていた。

 暖炉の煙と違って喉には残らず、鼻に残るのは、濡れた板の匂いだけだった。


 最初に起きたのは、ネラだった。


 寝ていたのかどうかも怪しかった。

 暖炉の灰をかき、残った火を寄せ、鍋をかけた。

 水を汲み、器を並べ、入口の水を拭く。


 その朝、ネラは一人で朝の支度を始めた。


 水桶を持ち上げる時、手に力が入るのが一拍遅れた。

 器を数える時、一つを入口近くへ置きかけ、手が宙で止まった。

 入口の水を拭く布を探し、棚の下へ手を入れた。


「拭き布は扉の横です」


 エナは、扉の横を示した。


 ネラは振り返った。


 エナは起きていた。

 外套を着ていた。

 小さな荷も、もう閉じてあった。


「いつもは、扉の横に掛けてあります」


「知ってるよ。今、忘れただけだ」


 ネラは先に、扉の横の布へ手を伸ばした。

 エナも扉の横へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。

 ネラが先に布を取った。


「入口の水は私が拭く」


「はい。自分の荷を確かめます」


「肩紐まで見な」


 エナは自分の荷へ手を置いた。

 昨夜、何度も包み直した小さな荷だった。

 肩紐は、外套の上に揃っていた。


 若い下働きのラグも起きてきた。

 髪が片方だけ跳ねていた。

 片目をこすりながら薪を取り、端の黒い一本をつかんだ。


「その薪は湿ってる」


 エナが薪の切り口を示し、ラグは手を止めた。

 ネラが横から乾いた薪を一本渡した。


「乾いた薪を使いな」


 ラグは受け取り、火へ入れた。

 火は少し弱ったが、消えなかった。

 ドマは椅子に座り、さっきから同じ速さで膝をさすっていた。


 ドマが言った。


「老人の杖、手元に寄せな」


 足の悪い老人の杖は、椅子の脚に立てかけてあった。

 ラグが手を伸ばしかけ、ドマを見た。


「手渡しますか」


「立たせるな。手の届くところまででいい」


 ドマは自分の杖先で、足の悪い老人の靴先を示した。

 ラグが老人の横へしゃがんだ。

 杖を椅子の脚から外し、旅人の手元へ寄せた。

 エナは胸の前で手を止めていた。

 老人の杖へ伸ばしかけた指が、そのままこわばっていた。


 まだ暗いうちから、荷紐と杖の音がしていた。


 門を抜けるつもりの客は四組いた。

 最初は、子ども連れの一家。

 父親が荷を背負い、母親が子どもの肩を抱いていた。

 次が、足の悪い老人。

 その後ろに、背負い袋の商人。

 いちばん後ろで、卵売りのセムが籠の縄を直していた。


 ネラは、エナの肩に掛かった小さな荷を見た。

 肩紐は外套の上で固く伸びていた。

 けれどエナは入口の脇に立ち、四組の客を数えていた。

 子ども連れ、老人、商人、セム。

 数えるたび、肩紐を握る指に少しずつ力が入った。


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