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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(4)

 エナは薄い青の布をもう一度広げた。

 端の織り目に、小さな乱れがあった。

 穴ではなかった。

 けれど、エナは乱れを正確に見つけた。


 エナは荷紐をつまんだ。


「その夜、この荷紐が布に引っかかっていました」


 ささくれた端が、青い織り目をかすかに起こしていた。


「普段なら、そんな包み方はしません」


 指先が、乱れた織り目を押さえる。


「急いでいたからです。本当に行くつもりだったから」


 リュカのスプーンは、器の縁で小さく鳴って止まった。


「子ども連れも、杖を持った人も、卵売りも、先へ行きました」


「でも、私は入口から動けませんでした」


 エナは紹介状を取り、荷の一番上に戻した。

 今度は隠さなかった。

 朝になったら、すぐ見せられるように。


「明日は、出ます」


 紹介状の角が、指の下で少ししなった。

 けれど、入口ではなく、荷の方へ体を向けていた。


 火のそばでネラが小さく身じろぎした。

 寝息はなかった。

 エナが荷を閉じる音がするたび、毛布の下で指が動いた。

 ネラは毛布の端を握り直し、起き上がらなかった。


 暖炉の赤が一つ沈み、ネラは起き上がった。

 足音を殺してテーブルへ行き、エナが残した器を取った。

 半分ほど残ったスープは、もう冷えきっていた。

 ネラは洗い桶の前まで行き、器を傾けかけた。

 けれど、捨てなかった。


「洗わないのか」


 リュカの声で、ネラは手を止めた。

「うるさい客だね」


 ネラは器を傾けたまま、しばらく動かなかった。

 冷えたスープが、器の縁へ寄った。

 洗い桶には流さず、器をテーブルへ戻した。

 さっきより奥の、入口から少し遠い場所だった。


「あの子は、入口のそばに置くと、食べない」


「呼ばれるからか」


「呼ばれなくても見る」


 ネラは、戻した器の縁を軽く押さえた。


「入口のそばの客が困ってないか、先に見ちまう」


 火のそばで眠っていた商人が寝返りを打った。

 毛布の中で、商人の手が宙を探った。


「エナ、水をくれ……」


 毛布の下で、エナが小さく身じろぎした。

 起きかけた。

 ネラが先に声を出した。

「水差しは棚の端だ。自分で注ぎな」


 商人は毛布の端を抱えて起き上がった。


「ああ、すまない」


 商人は水を注いで飲み、また横になった。

 器が小さく鳴り、また静かになった。

 エナは、毛布の下で手を止めた。

 その音が消えても、ネラは器の縁から指を離さなかった。


「今みたいなことが、日に何度もある」


「そのたび、止めればいい」


「簡単に言うね」


「今は止めた」


 ネラは器の縁をつかみ直し、小さく指を寄せた。

 リュカは入口へ歩いた。

 扉の足元の床板には、何度も開け閉めした跡があった。

 入口の床板は擦れて、真ん中だけ色が薄い。

 その手前には、大きさの違う靴跡がいくつも重なっていた。

 外へ出ず、入口の内側で戻る浅い跡が、同じあたりに何度も残っていた。


 外へ出る深い踏み出しではなかった。

 外へ踏み込みきれず、そのまま中へ引き返した跡だった。


「床板を見ても、何も出ないよ」


 背後で、ネラが入口の床板に指を置いた。


「この浅い跡は、外へ踏み切った跡じゃない」


 ネラは、薄い木目を押したままだった。

 暖炉の火が、二人の影をその板へ伸ばした。


「最初は、誰かに頼まれたわけじゃなかった」


 ネラは、同じ木目を強く押した。

 爪の先が、薄く白くなった。


「霧で石段の先が見えない朝だった。私が扉を開けると、客が入口で足を止めた」


 ネラは、戸口の板の端をなぞった。


「荷を背負ったまま、出るに出られずにいた」


 ネラは、板の端を押した。


「エナが、その客の横に並んだ。両足は、入口の板の上にあった」


 ネラの指が、濡れた木目をなぞった。


「あの子が客の靴先を見た時、霧が左右へ割れた。濡れた石段が三段だけ見えた」


 ネラは、板から目を離さなかった。


「あの子は笑ったよ。足元が見えたって」


「おまえも笑ったのか」


「笑ったよ。私も、客も」


 ネラは、木目を一つこすった。


「客が出ると、あの子も笑ったまま、つま先を外へ出しかけた」


 ネラは、木目から指を外した。


「割れ目が、すうっと細くなった。客の足元まで見えていた石段が、一段ぶん見えなくなった」


 その話の途中で、ネラは板から手を少し浮かせた。


「あの子の肩を押さえたよ。待ちな、って。霧払いだって、最初に言ったのは私だ」


 霧払いという呼び名が、宿に残った。

 ネラは、別の木目へ指を移した。


「旅人が、入口で足を滑らせた朝もあった」


 エナがその旅人の横に並び、靴先へ目を落とすと、霧がまた左右へ割れた。


「その旅人は助かったのか」


「助かったよ。だから厄介なんだ」


 ネラの指先が、木目の上で白くなった。


「嘘なら、やめさせられる。役に立つから、やめさせにくい」


 扉の向こうで、風が板を低く鳴らした。

 濡れた木の音だった。


「染め場の話は、私が持ってきた」


 ネラは、木目から急に指を離した。

 すぐには、木目へ戻せなかった。


「うちへ泊まった染め師がいてね」


 ネラは、少しだけ背筋を伸ばした。


「エナが旅人の外套を見て、山の土の汚れと栗皮の染めを言い当てた」


 ネラは、また木目へ指を戻した。


「あの子に見せたかったものは、入口の外にもある」


 ネラは爪の先で、その木目をかすった。


「紹介状を書いてもらうのに三か月かかった」


 紹介状が届くまで、ネラは町へ下りる旅人に何度も伝言を頼んだ。

 今も部屋の隅で、エナの荷は口を結ばれ、その上に折った紹介状が置かれていた。


「紹介状が来たら、エナを山の外へ出す。そう決めていた」


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