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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第二章 灰鐘編
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第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(3)

 エナは洗い桶の手前で止まり、テーブルの端へ器を置いた。

 隣の器に、小さく当たって止まった。


 エナは器から指を離したあとも、手を戻せなかった。


 テーブルの端で、エナの分の器だけは、冷めたスープの膜を残していた。


 エナは何口か食べた。

 冷めたスープを、熱いものを扱う時と同じ手つきで口へ運んだ。

 スプーンが器に触れるたび、外の風で扉の板も小さく鳴った。

 扉は閉まっていても、宿の中ではもう朝の支度の話が始まっていた。


 子ども連れの母親が、首に巻いていた布を火の近くへ掛けた。

 赤い布だった。

 火の色と混ざって、最初はただ明るく見えた。


 エナがスプーンを止めた。


「その赤い布、火の近くに掛けないでください」


 母親が振り返った。


「乾かしたいだけよ」


「赤い布の色が、下の白い布につきます」


 エナは立ち上がり、赤い布の下に置かれていた小さな包みを引いた。

 白い布の端が、うっすら赤くにじみ始めていた。

 母親は慌てて包みを抱えた。


「これ、子どもの肌着なの」


「赤くなったところは、湿らせた布で押さえます。こすらないでください」


 エナは水差しへ手を伸ばしかけた。

 ネラは先に赤い布を火から離した。

 それから、テーブルに残ったエナの分の器へも目をやった。

 エナは自分の器を一度見てから、きれいな布を少し湿らせた。


 エナは湿らせた布で赤いにじみを押さえ、それ以上広げなかった。

 手つきは迷わなかった。

 母親の指から、小さな肌着の端が緩んだ。


「よく気づいたね」


「赤が白い布へ移りかけていました」


 エナは、布の端で手を軽く止めた。

 スープをよそう時より、手つきが少し柔らかかった。

 指はまだ、布の赤いにじみのそばを押さえていた。


 リュカのスプーンが、器の縁で止まった。


「染め物を見る目か」


 エナは布の端を押さえたまま、リュカの方を向いた。


「分かるんですか」


「今は、鍋より布を見ていた」


 エナは布の端を一度撫で、テーブルの端へ戻った。

 半分残った器の横に、小さな荷があった。

 小さな荷の中から、エナは薄い青の布を出した。


 夜の灯では灰にも見えた。

 けれど、エナが広げると、火のそばだけ青が生き返った。


「町の染め場へ持っていく布です」


 エナは、包みの結び目を押さえた。


「習いに行くのか」


「はい。染め場に入れてもらえたら」


 エナは布の縁を指で押さえた。


「同じ暗い色に見えても、乾いた土のくすみと、栗皮で染めた布の暗さと、濡れた木の黒さは違います」


 エナは、床の泥を指した。


「宿だと、全部泥色になるけど」


「腹が減ってる時は、色より量だ」


「知ってます」


 エナは布の端を少し強く押さえた。

 けれど、すぐ力を抜いた。

 火の前の子どもに見えるよう、薄い青を少し広げた。


 母親は、赤みの残った肌着の端に指先を当てていた。


「町へ行ったら、こういうのも直せるようになる?」


「ちゃんと習えたら」


「そうね。今の手つきなら、覚えられそう」


 母親は、肌着の端を少し緩めた。

 礼を言おうとしたところで、眠りかけていた子どもが身じろぎした。


「明日も、白いの?」


 母親は、また肌着を握った。

 子どもは、また戸口へ顔を向けた。


「朝の白いやつ」


 母親は小さな肌着を抱え直した。


「明日の朝も、見てくれる?」


 エナは布の縁で指を止めた。

 母親はすぐに言い直した。


「ごめん。布じゃなくて。霧の方」


 母親は小さな肌着を胸へ寄せた。

 子どもはまだ、入口の方を向いていた。

 エナは薄い青の布を折ろうとして、端が少しずれた。


「明日は、私も出ます」


 母親は「ああ」と言って、肌着の端を握った。


「そうだったね。染め場へ行くんだったね」


 それから母親は、眠りかけていた子どもの髪を撫でた。


「でも、朝になったら、うちの子の足元だけでも見てくれるでしょう?」


 エナは、薄い青の布の端で指を止めた。

 折りかけた布は、膝の上で止まった。

 エナの目だけが、入口へ向いていた。


 老人の杖が壁に預けられ、商人の袋が床に沈んだ。

 濡れた外套の匂いが火で温まり、寝息が増え、外の風で扉が低く鳴る音だけが残っていった。


 エナは器を空にしなかった。

 残ったスープの膜が、器の中で揺れた。

 エナは洗おうとして、やめた。

 器をテーブルの端に置いたまま、小さな荷を開く。


 替えの肌着。

 布に包んだスプーン。

 色を試した端布。

 細い荷紐。

 染め師が書いた紹介状。


 紙は何度も折られて、角が丸くなっていた。

 汚れてはいなかった。

 折り目が重なっていた。


 リュカは入口脇の床に腰を下ろし、背を壁へ預けた。

 足元には、寝床代わりの干し草が薄く敷かれていた。

 それでも、板床へ直接寝るよりはましだ。


「前にも出ようとしたな」


 エナは手を止めた。


「……はい。前にも」


 エナは紹介状を荷の上に置いた。

 すぐしまわなかった。

 しまえば、話もそこで終わる。


「その朝も、この紙を持っていました」


 エナは、肩紐のあたりへ指を戻した。


「荷も肩に掛けて、外套も着て」


 肩紐を押さえたまま、エナは紐の上で指を止めた。


「ネラさんが、行っておいでって言ってくれたら、出るつもりでした」


 扉の外で風が鳴った。

 エナは、折りかけた布の上で手を止めた。


「でも、私が入口に立ったら、足を出しかけた人も、杖を探す人も、荷紐を直す人も止まりました」


「頼まれたのか」


 エナは、布の折り目を押さえた。


「頼まれる前に、分かりました」


 布の折り目は、指の下で深くなった。


「子どもが泣いていて、足の悪い人が杖を探していて、卵の籠を抱えた人が籠の紐を直せなくて」


 布の端が、指の下でさらにずれた。


「みんな、私の前で止まっていました」


 エナは荷紐のささくれを爪で押さえた。

 布の小さな毛羽が、爪の下で寝た。

 リュカのスプーンが、器の縁を軽く鳴らした。


「それで、どうした」


「だから私から言いました。今日は、みんなが出るまで入口にいます、って」


 火の中で、薪が小さく崩れた。


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