第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(2)
商人の荷紐の金具が、膝の上で鳴った。
「明日は、このまま担いで下りられるか」
「重さが片側に寄っています」
「半分に分けてもか」
「分けるなら、金物を底に集めないでください。坂で振られます」
商人は荷紐の端を弾いた。
もう、背負い袋の紐を探していた。
「なら、背負い袋に分けるか」
「片方だけ重くしない方がいいです」
「袋の中を見たのか」
「置いた時の金物の音で分かります」
商人は背負い袋を見下ろした。
袋の紐を握り直し、金物の鳴る底を胸へ寄せた。
入口のそばにいた子どもが、母親の袖を引いた。
「明日、白いの怖い」
母親は子どもの頭を撫でかけ、手を背中へ回した。
「霧払いのエナがいるから」
母親は子どもの肩を少し押し、エナの方へ向かせていた。
エナは自分の器の縁に指をかけたまま、子どもの濡れた靴を見た。
入口で言えることは、いつも同じだった。
「足を置くところだけ見てください。見えなかったら止まって」
子どもは足元へうつむいた。
「怖くなったら、止まればいいです」
「エナも一緒に来る?」
子どもは、器を抱えたままエナを見上げた。
母親の手が一瞬だけ止まった。
鍋のそばで、器を数えていたネラも手を止めた。
エナは自分の器の縁から指を離した。
「一緒には行けないよ。私も、町へ行く用があるから」
入口近くの棚では、エナの分の器にスプーンが触れたままだった。
エナは毎朝、入口で客の横に並び、客の足元を見ていた。
リュカは、器の底に残った麦をスプーンで寄せた。
器の底の麦粒が、端に寄った。
誰もエナへ手を伸ばさなかった。
それでも外で音がするたび、エナの手は先に動いた。
ネラは鍋の前で忙しく動いていた。
器を洗い、薪を足し、濡れた外套の位置を直す。
エナの分の器では、冷めたスープに薄い膜が張った。
ネラは、その器を片づける手を少しだけ遅らせた。
ネラが別の器を洗い桶へ置き、縁に当たって小さく鳴った。
ネラは鍋の蓋を強く置いた。
「エナ、こっちを向きな」
鍋の蓋の音が、まだ宿の空気を押さえていた。
エナは器から手を離し、ネラの方を向いた。
「先に食べな」
ネラは入口近くの棚を示した。
冷めたスープの器があった。
エナは、自分の器の縁に触れたところで指を止めた。
商人の背負い袋が、背中でずれた。
結び目が、肩口で緩んでいた。
「先に、商人さんの紐を直します」
「紐は逃げない」
「でも、朝にほどけたら危ないです」
商人が背負い袋を胸へ寄せ直した。
「いや、いい。自分でやる」
商人は結び目へ指をかけた。
指は太く、縄の目をうまく拾えなかった。
一度引くと、結び目は余計に固くなった。
エナはすぐ立ちかけ、ネラがエナの手首を軽くつかんだ。
指は食い込まず、手首の脈に触れたところで止まった。
「今、誰のスープが冷めてる」
エナの手首は、ネラの指の下で止まった。
商人の耳まで赤くなった。
「悪かった。先に食え」
商人は、ようやく言葉にした。
結び紐の端は、まだ指に絡んでいた。
だが、手元の結び目はまた締まった。
ラグが、入口の柱のそばから半歩前へ出た。
まだ若い下働きで、気持ちだけが先に出る。
濡れた床を拭くのも、薪を運ぶのも任されるが、重い荷を持つ時だけ体が少し後ろへ逃げる。
「俺がやる。貸して」
ラグは商人の袋を受け取り、上の結び目だけをほどこうとした。
「上の結び目だけほどいても、重さは動きません」
エナが袋の右底を示すと、ラグは手を止めた。
「右の底を持つのか」
「はい。さっき、右の底で鳴りました」
「見てたのか」
「聞こえました」
ラグは袋を少し傾けた。
中で金物が、右の底へ寄って鳴った。
ラグはそこで手を止めた。
それから袋の底を持ち替えた。
縄は少し緩んだ。
しかし、ほどけた拍子に中の金物が片側へ寄り、袋の底が床へ落ちた。
商人が慌てて押さえた。
「壊れてないか」
「金物はそう簡単に壊れない」
火のそばで、ドマの杖先が床を小さく叩いた。
この宿の古株だ。
片膝を伸ばしたまま座り、物音のたびに杖の先が動く。
「壊れるのは、荷じゃなくて腰だ」
ラグは言い返そうとした。
けれど、袋の底を持ち上げた時、確かに腰が持っていかれた。
「この袋、重いな」
「底に集まると、坂で持っていかれます」
エナは、器の縁で指を止めた。
強く言いすぎたことは分かっていた。
けれど、黙れば明日の朝にあの袋の持ち主が転ぶ。
ネラはエナの手首を離した。
「言うなら、食べながら言いな」
エナは入口近くの器を取った。
膜の張ったスープをスプーンで崩した。
湯気はもうなかった。
それでも、エナはひと口すすった。
「そのスープ、冷たいか」
リュカは、エナの濡れた指を見た。
「少しだけです」
「少しだけか」
「かなり冷たいです」
エナが言い直すと、火のそばの客が器を置き直した。
音はすぐ静まった。
器の縁をなぞる音の中で、ラグは縄を下へくぐらせた。
エナのスプーンが止まった。
「今くぐらせた縄、上から通してください」
「飲みながらでも見るのかよ」
ラグは、縄の目の前で一度迷った。
「ちゃんと見えます」
「じゃあ、俺が間違えたら」
「分かります」
ドマの杖先が、床を軽く叩いた。
「見られてるうちに覚えろ」
ラグは袋の底を持ち直した。
それから、縄を結び直した。
結び目は歪んでいた。
それでも、袋の底はもう床へ落ちなかった。
エナは器を空にしなかった。
半分ほど残したまま、器を洗い桶の方へ持っていこうとした。
ネラは、器の縁を押さえた。
「まだ洗うな」
エナは手を止めた。
「テーブルに置いときな。あとで食べるんだろ」
エナは器を持ったまま、洗い桶の方へ半歩向いた。




