第九話 霧を払う娘のみ越えられぬ峠(1)
結論から言う。
霧は、エナが客の横に並び、その客の足元を見た時だけ、その客の靴先から割れる。
エナ自身の足元では、霧は割れない。
宿の者たちは、その一人分の切れ目を頼って、何度もエナを客の横に並ばせてきた。
その夕方、リュカが山道を上りきると、峠の門はもう閉まっていた。
木の門の上には、濡れた霧が張りついていた。
門の向こうからは、車輪のきしみも、馬の鼻息も、旅人の咳も聞こえなかった。
ただ、霧が門の板の隙間に白く詰まり、石段の上へ低く沈んでいた。
若い門番が、灯を門板の前へ掲げた。
「今日はここまで。夜の峠へは出せません」
「泊まる場所はあるか」
「門の手前に宿があります。霧端屋です。門が閉まったあとに来た旅人は、そこで朝まで待ちます」
「食えるものはあるか」
「薄い麦のスープならある」
「湯気が立っていればいい」
若い門番は、灯の柄を握り直した。
リュカは曲げた指で門の板を一度だけ叩いた。
湿った音が返り、リュカは手を下ろした。
リュカは坂を少し戻り、霧端屋へ向かった。
宿は、門に寄り添うように建っていた。
屋根は低く、張り出しは深い。
霧の朝に扉を開けても、入口の床が濡れにくい張り出しだった。
扉に手をかける前から、鍋の匂いがした。
麦を薄く煮た匂い。
根菜の葉を刻んだ匂い。
濡れた外套の獣毛の匂い。
それから、暖炉にくべた薪の湿った匂い。
リュカが扉を押すと、入口近くでは濡れた靴先がいくつも扉へ向いていた。
革靴も、紐で編んだ靴も、子どもの小さな靴も、履いたまま扉へ向いていた。
片方だけ泥を厚くつけた老人の靴も、その列に混じっていた。
入口脇の低い棚には、洗い終えた木の器が三つ伏せてあった。
水がまだ、縁から細く垂れていた。
中では、門が開くのを待つ客が数組、肩を寄せていた。
火に近い席では器が湯気を上げ、入口に近い客の靴先は扉へ向いていた。
リュカは入口を越えずに立っていた。
「今夜、泊まれるか」
鍋のそばにいた女が手を止めた。
背は高くなかった。
肘までまくった袖の下には、湯気の湿りと古い火傷の跡があった。
片手で鍋を押さえ、もう片手で器を数えていた。
この宿を仕切る女だった。
「ずいぶん話が短い客だね」
「空きがあるかだけ知りたい」
「あるよ。一人なら詰められる」
「なら助かる」
女は器を数える指を止めなかった。
「ネラだ。荷は壁際」
女は壁際へ短く手を振った。
「濡れた外套は火から離して掛けな。燃えると面倒だ」
「リュカだ。世話になる」
「リュカか。エナ、器を一つ」
低い棚の前へ、まだ誰の手も伸びなかった。
代わりに、入口の方で布がこすれる音がした。
リュカは入口の方へ振り向いた。
一人の少女が、入口の脇に立っていた。
年は十五か十六ほど。
背はまだ伸びる途中で、手足の先が少し細い。
くすんだ土色の外套を着て、肩から小さな荷を下げていた。
袖は仕事着のままだが、足元だけはもう旅人だった。
少女は扉の方へ向いたまま立っていた。
扉は閉まっていた。
扉の隙間の向こうに、霧があった。
それでも、エナは扉の前に立ち続けていた。
「エナ、聞こえてるかい」
ネラがもう一度呼ぶ。
少女は外套の端を小さく握り、ようやく振り向いた。
「はい、今行きます」
エナは鍋のそばへ戻り、器を取った。
麦のスープをよそう手つきは慣れていた。
器の縁へこぼさなかった。
リュカの前に置いた。
スプーンは、器の右へそっと添えられていた。
ただ、エナの指は冷えていた。
湯気の立つ鍋を扱っていたのに、指先だけは白かった。
「おまえは食べないのか」
リュカは、入口近くの低い棚を示した。
「あとで。冷めたのでいい」
エナは、自分の器の方へ手を戻さなかった。
テーブルには、客の器がそれぞれあった。
熱いもの、半分ほど冷めたもの、もう空になっているもの。
入口近くの低い棚に、手つかずの器が一つだけあった。
スープの表面には、薄い膜が張り始めていた。
「入口近くの棚の器は、おまえのか」
「私の分です」
「なら、今のうちに食え」
「あとで食べます」
エナはまた、入口の方へ体を戻した。
ネラは客の食べ終えた器を一つ取りかけて、やめた。
器の縁に残ったスープが、テーブルへ一筋落ちた。
火のそばで、子どもの父親が扉の隙間の霧を気にした。
「明日の朝は霧が出るかね」
背負い袋の商人が、袋の紐を膝へ引いた。
「朝も霧は残るだろ」
「子どもがいるんだ。崖道で足を踏み外されたら困る」
「エナが見てくれるなら、大丈夫だよ」
エナの名が出ると、子どもの父親の手が子どもの肩へ戻った。
商人は背負い袋の紐を押さえた。
老人の杖が、床の上で止まった。
エナは、鍋の蓋を持ったまま止まっていた。
蓋の端が、鍋の縁を浅くこすった。
エナは蓋を鍋の縁へ押さえ直した。
「明日は、私も出ます」
火の音の向こうで、リュカのスプーンが器の縁で止まった。
「町へ出るのか」
「はい。紹介状を持っていきます」
エナは蓋を支える指に、もう一度力を入れた。
鍋の縁をこする音が、そのあとまで残った。
ネラが手を止めた。
「紹介状、届いていたね」
ネラは鍋の横から手を下ろした。
リュカは麦のスープをすすった。
薄い。
塩も少なかった。
それでも、湯気で指先と喉が少し緩んだ。
「あたたかいだけでうまい」
エナは、入口近くの棚へ目を戻した。
「本当ですか」
「湯気があるうちは、大抵うまい」
「……冷めると、だめですか」
「冷める前に食うものだ」
入口近くの自分の器だけが、まだ手つかずだった。
薄い膜の張った表面は、もう揺れなかった。
宿の中では、しばらく何度もエナの名が呼ばれた。
呼びかけは、どれも大きくなかった。
命令でもなかった。
器を乱暴に置く客もいなかった。
ただ、呼ばれるたび、エナは手元の仕事を止めた。
器を持っている時は、その縁で指が強くなった。
「エナ、明日の朝は、一本目の杭のどっちを通ればいいかね」
足の悪い老人の杖先が、床を一度鳴らした。
「左を通ってください」
エナは、左の方へ短く指を動かした。
「右はだめかね」
「根元の石が浮いています。杖が滑ります」
老人は杖を握る手を緩めた。
「助かった。左だな」
すぐ杖の柄へ指を戻した。




