第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(6)
港務長ガルドは、東岸と西岸の中ほど、両方を見渡せる位置に立っていた。
片脚を引きながらも、立つ場所だけは間違えない。
棒の先を石に軽く当て、左右の並びを何度も見比べている。
どちらに声が上がっても、すぐ届く場所だった。
「ネスト」
ガルドが言う。
「西の綱、結び目をもう一つ増やせ」
「まだ増やすんですか」
ネストが不満そうに言う。
「もう二重ですよ」
「二重でも越える奴は越える」
「縁起でもないことを」
「祭り前に縁起で飯は食えん」
ネストは顔をしかめながらも、留めを増やしに走った。午前なら、文句を言って終わりだった。今はもう、先に体が動いた。
市場岸の石段では、灯籠に木札を結ぶ者が次々としゃがみこみ、紐を締めていた。
紙の白。
細い紐。
墨の黒。
名を書きつける筆の先だけは、屋台のざわめきとも魚の匂いとも違う静けさがあった。
その中に、見覚えのある顔がいた。
飯場の女将だ。
昼間、鍋杓子でアイラを追い立てた女が、今は静かに木札を灯へ結んでいる。結ぶ相手は夫らしい。木札の字を指で一度だけ撫で、それから紙の内側へそっと差し込んだ。
木札を結ぶ者たちは静かだった。声をかけられても、短く返すだけで、手は止めなかった。
「だから嫌なのよ」
アイラがぽつりと言った。
「何が」
「そんなふうに割り切れないの」
彼女は市場岸の灯じゃなく、名を結びに来た手を見ていた。
「港が危ないなら、やめろで済む」
アイラは、木札を結びに来た手を見たままだった。
「けど、ここへ来る人はみんな、何かを送りに来てる」
アイラの声はそこで少し低くなった。
「あの灯じゃないと、去年までを見送れない人がいる」
「そうか」
「そうよ。わかるから腹が立つ」
その時、東の仮鐘が一度鳴った。
白線の内側へ、人が灯籠船の前に寄り始めた。
子どものざわめきが一段高くなり、屋台の呼び込みもそれに押されるように大きくなる。紙の灯がいっせいに揺れ、海へ映る光が細く長く伸びた。
東の灯が揺れるたび、西の暗さが浮いた。
西の鐘棚はまだ暗い。
古い石積みも、綱も、夕方の色をそのまま残している。
あの連中だけは、もう西を見ていた。
「来たな」
リュカが言う。
アイラも気づいたらしい。
西の封鎖綱の向こう、古い倉壁の陰に数人の老人たちが立っている。
祭礼組合の古い顔ぶれだ。
昼のうちに港務所でもめていた連中だろう。
手に灯はない。
引く気のない顔をしていた。
ネストも気づき、苛立ったように舌打ちした。
「来ましたよ」
ガルドは棒の先を西へ向けた。
「見えてる。おまえは東を離れるな」
「でも――」
「おまえが向こうへ行くと余計に火がつく」
「じゃあ誰が」
「俺が行く」
ガルドはそれだけ言って、西へ向いた。
「アイラ」
今度は静かな声で呼ぶ。
「おまえは東だ。今夜の起点はこっちだ。そこを空けるな」
アイラは一瞬だけ返事をしなかった。
西を見ている。
父の立っていた突堤。
父の係留環。
父の銀釘。
そこへ祭礼組合の老人たちが集まっている。
足は動かず、目だけが西に残った。
「アイラ」
ガルドがもう一度呼ぶ。今度は低い声だった。
「今夜の起点はどこだ」
アイラは唇を引き結んだ。
「……東です」
「じゃあそこに立て」
「わかってる」
返事は荒かったが、足は東に残った。
ガルドが西へ向かう。ネストは渋い顔のまま東に残った。
市場岸では、灯籠船の前へ人が並び始めた。
紙の灯を両手で持ち、風を避けるように体を寄せている。
誰も大きな声は出さない。
灯の列の中だけ、送り出す前の静けさがあった。
「今年も流れるかな」
子どもの声が、足元からした。
昼間に灯籠の骨組みを運んでいた男の子だ。
完成した灯籠を抱え、見上げている。
「落とさないように持ちなさい」
アイラが言う。
「今年はどっちから流すの?」
「東から。今夜はね」
「西からじゃないと、怒る人がいるの?」
子どもはそういうことを、そのまま言う。
アイラは一瞬だけ言葉を止めたが、すぐに答えた。
「怒る人はいる。でも今夜は港が先」
子どもは首をかしげたまま灯籠を抱き直し、母親らしい女のもとへ戻っていった。
その背を見送りながら、アイラが小さく言う。
「言ったな」
「そうだな」
「本当は、まだ半分も決めきれてないのに」
「足りない分は、夜になってから決めろ」
「嫌な慰め方」
「考える順番を戻してるだけだ」
「……わかってる」
西のほうで、ガルドの怒鳴り声が一度上がった。
言葉までは聞こえない。
だが、止まれと命じる声だった。
起点札も、白線も、船の並びも、東へ寄っていた。
暗いままの鐘。
張られた綱。
古い石。
そこだけ、まだ古い送り方のままだった。
リュカは海の面を見た。
東の灯が水へ落ちる。
波は静かだ。
だが、西の水だけ揺れ方が揃わない。
「まだ西に引かれてるな」
「何が」
アイラが聞く。
「港がだ」
その時、西の封鎖綱が揺れた。
人が越えた揺れ方だ。
東の灯がきれいなぶん、その揺れだけが目についた。
風ではない。
綱の一本だけが、重みを受けて下へ落ちる。
アイラの指が、起点札の板を強く握る。
「……始まる」
リュカは何も答えず、西を見た。
暗い鐘の下で、人の形が動いた。
西の封鎖綱を最初に越えたのは、若い衆ではなかった。
白い布の結び目の前に、祭礼組合の古株が三人並ぶ。
港で長くやってきた者にだけある、黙って立つだけで「どけ」と言える立ち方だった。
先頭の老人は痩せているのに背が高く、肩だけは妙に落ちていない。
西の組合頭、エドだ。
昼のうちに港務所で一度揉めた相手でもある。
忘れるような顔ではない。
ガルドが綱の前に立つ。棒を石につき、エドをまっすぐ見る。
「今夜は東だ」
エドは鼻で笑いもしなかった。
「知ってるよ。見ればわかる」
「なら戻れ」
「戻るわけがないだろう」
その声は怒鳴りではない。
むしろ静かで、その静けさがかえって場を冷やした。
東の市場岸ではざわめきが続いているのに、この綱の前だけはまだ去年の夜のままだった。
「西の鐘を鳴らさずに、何を送る気だ」
エドが言う。
「灯を水へ落とし、古い線を通して返す。ここはずっとそうやってきた」
エドは西の水を見たまま続けた。
「去年だけじゃない。俺の親父の代も、その前もだ」
エドの後ろで、若い衆が灯籠を抱え直した。
「東の石段から滑らせた紙灯を、誰が帰った灯だと思う」
「港が崩れれば、送る岸ごとなくなる」
ガルドの声は低いが、押し返す力がある。
「今年はそこを先に止める。西は使わん」
「使わんのはおまえの勝手だ。死んだ者にまで、その勝手を押しつけるな」
綱の向こうで、若い衆が灯籠を二つ抱えていた。
まだ火は入っていない。
だが抱え方を見れば、もう西の海へ出すつもりなのがわかる。
ここで止めに入れば揉み合いになる。
揉み合って灯を落とせば、その時点で今夜の祭りは崩れる。
ネストが綱の手前で記録板を抱え直した。
「組合頭、今夜は東岸起点で決裁が下りてます。港務長と見習い結界師、役場の副署名も――」
「紙は読んだ」
エドが一言で切った。
「こっちはこの海がどう動くか知ってる」
その言い方に、アイラの肩がぴくりと動いた。
視線は西へ向いたままだ。
行きたいわけでも、ただ飛び込みたいわけでもない。
ここで何が起きるかを、頭より先に身体が思い出していた。
「アイラ」
リュカが低く呼ぶ。
「東を離れるな」
「わかってる」
返事は早い。だが視線はまだ西だ。
エドの後ろにいた若い衆のひとりが、封鎖綱へ手をかけた。白布が揺れる。ネストが思わず一歩前へ出た。
「触るな!」
「触ればどうなる」
「記録に残る!」
ネストは口にしてから、自分でもその言い方の弱さに気づいた顔をした。記録が残る。たしかに大事だ。だが今この場で、綱を越える手を止めるには少し軽い。
エドがそこで、ようやく口の端を上げた。
「残せばいい」
そして、白布ごと留めてあった綱の結びを、自分の手で外した。
片側の綱が落ちる。
誰かが息を呑む。
東の市場岸のざわめきは、その一瞬だけ遠くなった。
「止まれ!」
東ではもう灯がきれいに揃っていた。だからこそ、西の綱の前でその一声が遅れたことだけが目立った。
もう、その一声で止まる夜ではなかった。




