第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(5)
西へ回る道は、東岸より敷石が古びていた。
市場岸の石段は何度も削り直され、荷車の車輪と人の足で角が丸くなっている。
だが西の突堤へ向かう石畳は、角が減る前に潮を吸って黒ずんだままで、踏むと足裏に返る硬さが違った。
人に踏まれて馴染んだ石ではない。
港のざわめきも、半歩ずつ遠くなる。
屋台の呼び声。
魚を網から外す音。
子どもの笑い声。
人の声は後ろへ薄れ、綱が石を擦る音と、潮が古い石積みに当たる音だけが残った。
封鎖綱のところで、アイラは一度だけ立ち止まった。
自分で張った綱だ。
二重に渡し、その間に白布も結んである。
昼のうちは立ち入りを分けるだけの目印だった。
夕方になると、ここから先は今夜の祭りの場じゃないと、ひと目でわかる。
「開けるわよ」
誰に言うでもなくそう言って、アイラは綱の結びをほどいた。
「中へ入るのか」
リュカが聞く。
「見ないふりをして帰れるなら、とっくにしてる」
アイラは白布を脇へどけ、そのまま足を踏み入れた。
突堤は狭い。
東岸の市場石段と違って、荷の置き場より先に人の立つ場所を作ったような幅しかない。
片側は低い石垣、もう片側はそのまま海だ。
足元の石は、何年も風と潮を受けたせいで、色が一段濃い。
突堤の先へ行くほど、綱の鳴る音も低くなる。
古い係留環が、石へいくつも埋まっていた。
新しい環は角が立ち、打ち直しの鉄が光る。
だが古いものは輪の形が少し歪み、何度も綱を通された跡が艶になって残っていた。
使われなくなっても、人の手に磨かれた艶だけは残っていた。
アイラはそのうちのひとつの前でしゃがんだ。
最初は何も言わない。指先で環の縁をなぞり、錆の浮いた継ぎ目を親指で押す。毎年ここでそうしてきたのだとわかる手つきだった。
「父のだ」
少しして、そう言った。
「見張り場も兼ねた場所なの」
環のすぐ横の石を軽く叩く。その黒ずんだ石だけが、ほかより少し低くなっていた。いつも足を置く場所だった。長く人が立つ場所は、そういうふうに減る。
「ここで綱を見て、灯を数えて、船を寄せる時は声を張ってた」
アイラはそこで一度黙った。
風が吹く。
西の低い鐘棚の布が、乾いた音を立てて揺れた。
「去年も、最初は別におかしくなかったのよ」
海のほうを見たまま、アイラが言う。
「灯はちゃんと浮いたし、潮も静かだった。父も、いつも通りここに立ってた」
アイラの指が、係留環の縁をもう一度なぞった。
「だから皆、今年もただの祭りだと思ってた」
語尾だけが少し細くなった。
「それで、灯が一つ落ちた。綱を踏み外した子がいたの」
アイラは低い石へ目を落とした。
「まだ小さい子だったって聞いた」
アイラは、銀釘の残る石から目を離さない。
「父はすぐ飛び込んだわけじゃない。ちゃんと綱を見て、船の向きを見て、それから行った」
そこで初めて、彼女は少しだけ笑った。
「最後まで、そういう人だったの。無茶に見えても、先に見る人だった」
笑いはすぐ消えた。
「灯は拾えた。子どもも岸へ押し返した。そこで終わってれば、たぶんただの笑い話だった」
「終わらなかったか」
「ええ」
アイラは係留環から手を離した。
「西の水が、そこで一度だけ引いたの。ほんの半歩ぶん」
アイラは、古い環の向こうの海を見た。
「見てた人は“波に攫われた”って言うけど、違う」
風で、鐘棚の布がまた鳴った。
「あれは攫われたんじゃない。足場ごと、ちょっとだけ別のところへ持っていかれたのよ」
潮の匂いが少し強くなる。
リュカは何も言わず、石や綱に残った跡を見た。
アイラが、古い環の少し先を指した。
「そこに、父の銀釘がまだ一本残ってる」
見ると、石の継ぎ目に短い銀釘が打たれていた。
新しいものと違って頭が潰れ、半分ほど石へ沈んでいる。
それでも残してあるのは、抜けなかったからじゃない。
抜かなかったんだ。
「他のは打ち替えたのに、それだけ残してる」
「抜けないからじゃないわよ」
アイラが言う。
「抜こうと思えば抜ける。試したこともある」
「やめたか」
「……やめた」
そこでこちらを見た。
「ねえ、私、祭りが嫌いってわけじゃない」
「そうは見えない」
「港が無事ならそれでいいって言えたら、まだましよ」
アイラは鐘棚へ目をやった。
「東から流して済むなら、とっくにそうしてるわ」
風で髪がほどけ、頬へかかった。アイラはそれを払わない。
「でも、父さんの灯は流したい」
「東でも西でもいい。ただ、送ってやりたいだけ」
「どうしてだ」
「父さんが先に浮かぶのよ」
「先に浮かぶだろ」
リュカが言う。
アイラは呆れたように息を吐いた。
「そう返すんだ」
「当たり前だろ」
「慰める気がない」
「してない」
「そうでしょうね」
「父親の灯と港を一緒にするな。どっちも見えなくなる」
「……わかってる」
アイラはそう言って、立ち上がった。だが足はすぐ戻らない。鐘棚のほうを見ている。
低い木の枠に、新しい綱と古い金具が残っている。布を掛けただけじゃ、まだ西は切れない。あの連中には、まだ西から始められそうに見える。
「見てくるか」
リュカが聞く。
「何を見てくるの」
「西の鐘を」
「見たってどうにもならないわよ」
「それでも気になるんだろ」
「……でも」
アイラは少し迷ってから、綱の手前まで歩いた。
布には塩が吹いていた。
昼に被せたばかりなのに、もう湿って重い。
アイラは端をつまんで少しだけめくる。
中の鐘は小さい。
東岸へ移した起点鐘よりずっと低く吊られていて、手を伸ばせばすぐ鳴らせる高さだった。
「父さんはこの音が好きだった」
布を戻しながら、アイラが言う。
「派手じゃない。港の人間しか振り向かない音だって言ってた」
石積みの向こう、海の面が少しだけ暗くなった。西の水だけが、東より先に夜へ寄っている。
リュカは突堤の先へ二歩進み、足元の石を見た。
綱が擦れた跡があり、古い釘穴があり、見張りが立っていた場所と灯を置く台座が残っている。
ここだけ、まだ西から始まっていた頃のままだ。
綱を張っても、石も鐘も残っていた。
突堤の先端で、海が一度だけ変な鳴り方をした。
波ではない。
潮が石を抜ける音でもない。
もっと細い、乾いた音だ。海の下で、何かがわずかにきしむ音だった。
アイラも聞いた。すぐに西を見る。
「……いまの」
「聞こえただろ」
「聞こえたけど、好きじゃないの」
「嫌だろうな」
西の突堤は静かだった。東のざわめきも、ここへ来ると半分以下になる。綱の鳴りと、鐘棚の布と、石へ当たる潮だけが残る。
なのに落ち着かない。ここだけ、まだ去年の夜が残っていた。
アイラが背を向けた。
「戻るわ」
「そうしろ」
「ここで長く立ってると、余計なことまで考える」
「だろうな」
「たまに、本当に嫌な返しをするわね」
「よく言われるな」
封鎖綱を戻す。結びを二重にし、白布も結び直す。アイラはそれを確かめてから、ようやく足を東へ向けた。
歩き出す直前、突堤を一度だけ振り返る。
父の係留環。
古い銀釘。
低い鐘棚。
去年までの港の名残。
「見ないほうが楽なのにね」
小さく言った。
東岸へ戻る道では、祭りの火が一つずつ入っていくのが見えた。屋台の炭が赤くなり、灯籠の紙が薄く光る。子どもの声もまた遠くから戻ってくる。
それでも、西の突堤の気配だけは背中に残っていた。
東の市場岸へ最初の灯が入ったのは、日が岬の肩へ触れたころだった。
紙を貼ったばかりの細長い灯籠が、石段の脇でひとつ、ふたつと明るくなる。
薄い紙の向こうで火が揺れるたび、昼のあいだはただの骨組みに見えていたものが、急に送り灯らしく見えてきた。
魚を焼く匂いが濃くなる。
屋台の炭が赤く起き、潮の匂いと混じり合う。
さっきまで灯籠の骨組みを運んでいた子どもたちは、今度は完成した灯籠を抱えて走っている。
露店の女たちは銅皿へ菓子を並べ、荷運びの男たちまで今夜だけは手を止めて、東岸の白線を見ていた。
笑い声は多いのに、誰も声を張り上げなかった。
死んだ父。
海へ消えた兄。
冬に熱で落とした子。
遺髪も遺骨もない者の名まで、細い木札へ書いて灯へ結ぶ。
紙は軽いのに、持つ手つきはどれも固かった。
リュカは市場岸のいちばん端に立ち、東から伸びる灯の列を見ていた。
新しい起点札はもう乾いている。
白線も消えていない。
灯籠船は三艘とも東の石段へ揃えた。
係留綱の取り回しも直した。
起点鐘も東の仮鐘へ移してある。
「その顔、嫌い」
横からアイラが言った。
「何だ」
「“ここまでやってもまだ足りない”って顔」
「見ればわかるか」
「わかるわよ、そのくらい」
アイラは灯籠の最終確認をしていた。
手には起点札の控え板。
髪はもう乱れている。
袖には昼のまま煤と潮の跡。
だが、午前より息は落ち着いていた。
「東の灯は?」
リュカが聞く。
「今のところ崩れてない。市場側の風も弱い。灯籠船の並びもそのまま」
「西は」
アイラは答える前に一度だけそちらを見た。
「静か」
「それが嫌か」
「静かすぎるのがね」
実際、西は静かだった。
東の屋台。
東の灯。
東のざわめき。
それらが港の半分を埋めているのに、西だけは古い石積みと封鎖綱、それから布を掛けた低い鐘棚があるだけだ。
人がいないわけではない。だが、誰も西の鐘棚の前では足を止めない。ちらりと目をやるだけで、そのまま通り過ぎていく。
誰も足を止めない。
そのぶん、西の鐘棚だけが夜の中で浮いて見えた。




