第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(4)
西を閉めても、樽も網も残る。
係留環を減らし、封鎖綱を張り、見張りの位置も札も変えても、岸はすぐには空かない。
「そっちの樽は東へ!」
アイラが怒鳴る。
「西の倉へ積むな! 今夜は手前で止める!」
「止めるってどこまでですか!」
「鐘棚の石を越えたら全部東!」
若い役人が記録板を抱えたまま、荷運びへ向かって怒鳴り返す。
さっきまで文句ばかりだったのに、もう荷の列に声を飛ばしていた。
ガルドが一度だけその背へ「記録だけじゃなく足も使え」と怒鳴ると、彼は顔をしかめながら板を脇へ挟み、樽へ手をかけた。
「名前は」
樽の底へ肩を入れながら、リュカが聞く。
「何がです」
「おまえのだ」
若い役人は樽を持ち上げた拍子に息を詰まらせ、それから吐き捨てるように言った。
「ネスト!」
「わかった」
「それだけですか」
「足りないか」
「いえ、別に」
ネストは不満そうに眉を寄せたまま、樽を東の倉へ運んでいった。口は尖ったままだが、手は止まっていない。
市場岸の石段では、別の役人たちが起点札の周りへ白線を引いていた。
「白線までやるのか」
リュカが言う。
「やる」
アイラは振り向きもせずに答えた。
「札だけじゃ見ないのよ」
「西の組合向けか」
「誰にでもよ。祭りの夜って、見えてるものも見えなくなるの」
灯籠船は市場石段の前へ真っ直ぐ寄り、荷の山も道を開け始めた。屋台まで動かしたせいで、魚焼きの煙の流れ方まで変わっていた。
ガルドが杖代わりの短い棒をつきながら東岸へ来た。顔は相変わらず渋いが、見ている目は机の中より生きていた。
「西倉の空きは」
「三つ」
ネストが即座に答える。
「灯籠船は全部東。起点札も打ち替え済み。市場岸の通りを一列空けました」
「西の封鎖綱は」
「二段目を今から張る!」
アイラは人の返事を待たず、自分で答えた。
ガルドはそれを聞いて一度だけ頷いた。
「いい。できてるところから言え。できてない分はあとで聞く」
ネストはそこでいったん口をつぐんだ。
西へ渡る。こちらは東より人が少ないのに、風だけはせわしない。綱も鐘棚も、まだ触る場所が残っていた。
封鎖綱は、古い鐘棚の手前、その少し先、最後に西の突堤の根元へ張る。
綱を張るたび、古い係留環がひとつずつ使われなくなる。昔は人も荷も灯も、みなここを通った。今でも使えてしまう。
「そこ、もっと内」
アイラが言う。
「手前へ寄せて。古い環に掛けるな」
「見てる」
「わかるなら早く」
彼女は、自分の手でもう一本綱を取り、鐘棚の前へ交差させた。これで真っ直ぐには入れない。意地で越えるなら越えられる。だが、越えれば誰の目にもわかる。
ネストが後ろで言う。
「ここまでしても、あの人たちは越えますよ」
「越えてくるだろうな」
ガルドが答えた。
「綱があれば一目でわかる。止めるにも使える」
「身も蓋もないですね」
「祭り前は、蓋も要る」
ネストはそれで少しだけ吹き出しかけ、すぐ真顔に戻った。
仕事がひと区切りついたのは、日が西の崖へ寄り始めたころだった。
東岸の市場石段には新しい起点札が立ち、灯籠船は三艘とも東へ並んだ。西の封鎖綱は二重になり、見張りの立ち位置まで変わった。
飯場の女将が、樽の蓋を足で閉めながらアイラへ声を飛ばす。
「見習い! 今年は少し静かだね!」
「まだ昼が終わっただけ!」
「去年よりはましに見える!」
「夜まで言わないで!」
そう怒鳴り返しながらも、アイラの口元はほんの少しだけ緩んでいた。
東岸の石段に立つと、船の鼻先も人の流れも、同じ向きだった。午前の詰まりは消えていた。
「これなら持つか」
ネストが、誰にともなく言った。
ガルドがすぐ横で鼻を鳴らす。
「そういう台詞は夜明けまで飲み込んどけ」
「でも実際――」
「夜を越えてから言え」
ネストは不満そうな顔のまま、記録板へ東岸起点と西封鎖の時刻を書きつける。
その時、西のほうから小走りの足音が来た。
祭礼組合の若い衆らしい男が二人、封鎖綱の前に立ってこちらを見上げている。
まだ綱は越えていない。
だが、引き返す足取りでもなかった。
「来たわね」
アイラが小さく言う。
ガルドもその視線に気づいたらしく、棒をついて近づく。
「ネスト」
「はい」
「祭礼組合向けの貼り紙を出せ」
「今からですか」
「今だ。揉めるなら貼り紙を先に出す」
ネストは板を抱えて走る。今は文句より足が先だ。
アイラは一度だけ深く息を吸い、西を見た。視線は、封鎖綱の少し先へ流れる。古い石積みの陰、低い鐘棚のあたりだ。
夕日が、西の石だけを赤くしていた。ひとり入るだけで、そこだけ祭りの場に戻りそうだった。
「仕事だから」
ようやく言う。
「封鎖綱の先を、最後に一度見ておきたいだけ」
「そうだろうな」
「そうよ」
アイラが歩き出した。
「西を見てくる。来るなら来て」
「行く」
リュカも少し遅れて後ろについた。
東岸が整うほど、西の突堤だけが浮いて見えた。




