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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(3)

 東の市場岸へ着いた時には、もう昼の荷が岸へ上がり始めていた。

 だが、まだ西へ船を寄せる綱は動いていた。


 魚の競りは一段落し、代わりに祭りの支度が前へ出ている。

 干した網を畳む者、露店の板を組む者、灯籠の骨組みに薄紙を貼る子ども、朝から焼きっぱなしの炭を掻き起こして魚を炙り直す女たち。

 潮と油と炭の匂いが、石段の上で混じっていた。


「まず船」


 アイラが言う。


「飯はそのあと。動かせるうちに動かす」


「船が先か」


「嫌な顔しないの」


「腹は減ってるが、船は待たん」


「そのくらいはわかるのね」


 市場岸の隅の灯籠船は、見た目より重かった。綱を引くと水を噛んで鈍く粘る。


 アイラが荷役の若い衆へ指を飛ばした。


「船首はもっと東! 石段のいちばん下に合わせる! そこで止めて!」


「東すぎると屋台の客が邪魔で――」


「邪魔ならどかすの! 西へ寄せたままよりまし!」


 若い衆は文句を言いながらも手を動かす。その横で、さっき港務所にいた若い役人が不機嫌そうに記録板を抱えていた。


「そっち」


 アイラがリュカへ顎を振る。


「船腹の綱、石段の二段目へ掛け替えて。古い札も外して」


 舟べりに結ばれた木札を見る。墨で、かすれた字が残っていた。


 "西送り 一"

 "西送り 二"

 "西送り 三"


 それを外す。紐は潮で固くなっていて、指へ食い込んだ。リュカは歯で片端を噛み切り、木札をまとめて足元の桶へ放る。


「捨てるな!」


 若い役人が思わず声を上げる。


「祭礼組合が見たら面倒ですよ!」


「だから桶へ入れた」


 リュカが言う。


「捨ててはいない」


「同じようなものでしょうが!」


「違うわよ」


 アイラが振り向きもせず言った。


「見えないところへどけるのと、なくすのは別」


 若い役人は唇を噛んだが、それ以上は言わなかった。代わりに記録板へ書きつける。


 綱を掛け替える。

 石段の下は潮でぬめり、片手で体を支えないと足を取られる。

 二段目の鉄輪は新しい。

 だが隣の古い係留環だけは、まだ西へ戻す綱を掛ける場所のままだった。


「そこじゃなくて、右!」


 アイラが上から言う。


「右の新しい環!」


「見えてる」


「見えてるなら早く!」


「うるさいな」


「仕事中はね!」


 舟が一つ、二つと東岸へ寄る。石段の上では、起点の杭はまだ打っておらず、白木の起点札だけが脇に寝かせてあった。


「札はまだ打つな!」


 アイラが叫ぶ。


「船が全部揃ってから! 順を間違えるとまた揉める!」


 リュカは少しだけ目を細めた。


 日が少し高くなったころ、三艘とも市場岸へ寄った。

 西から見れば、真っ先に目に入るのは起点札の白さだった。


「次、杭」


 アイラが息も整えずに言う。


「市場岸の起点杭を打ち直す。銀釘箱、持って」


「飯は」


「まだ」


「手がかかるな」


「本当にぶれないわね」


 銀釘箱は重く、中で釘が鳴るたび乾いた金属音が手首へ返った。リュカが箱を抱えて歩く横で、若い役人がやっと口を開いた。


「……補修位置、ずらすんですか」


「ずらす」


 リュカが答える。


「西の第三杭からは切る」


「でも西が薄くなりませんか」


「なる」


「だったら危ないでしょう」


「危ないところへ毎年同じように寄るよりはましよ」


 アイラが前を向いたまま言う。


「去年までのやり方じゃ、もう持たない」


 若い役人はそこで黙った。


 市場岸の石段脇に、新しい起点杭を立てる。古い印を削って消し、アイラが銀釘を押さえ、リュカが木槌を振り下ろす。石へ釘が噛む音が二度、三度と響いた。


「もう少し深く」


「これ以上は割れる」


「だったら半歩ずらす。無理に押すな」


「細かいな」


「海はそういうずれで荒れるの」


 言いながら、彼女は自分の膝で石を測り直した。しゃがみ方だけは、もう見習いに見えなかった。誰もやらないぶん、自分で覚えた動きだった。


 それから起点札に墨を入れる。


 "東送り 起"


 その字を見て、近くで灯籠の骨組みを運んでいた子どもが目を丸くした。


「東送り?」


「今年はね」


 アイラが言う。


「えー、西じゃないの」


「文句があるなら大きくなって港務に入りなさい」


「やだ」


「でしょうね」


 子どもたちは笑って走り去った。笑っていたのは子どもだけだった。大人たちは東送りの札を一度見て、黙って持ち場へ戻っていった。


 飯にありつけたのは、それからしばらくしてだった。


 市場岸の飯場は、板壁の低い建物だった。

 扉を開けると、湿った湯気と魚のあらを煮た匂いがむっと来る。

 奥の大鍋を見張っている女将が、アイラを見つけて眉を上げる。


「ようやく食べる気になったのかい」


「気じゃなくて、今やっと手が空いたの」


「その旅人は」


「拾った」


「厄介そうだね」


「ええ。腹だけは正直」


 女将は鼻を鳴らし、二人分の椀へ汁をよそった。魚のあら汁に固い黒パン、塩を強く入れた豆。


 隅の卓へ腰を下ろす。アイラは食べるのが早い。もう次の作業を数えながら食べている。


「祭りが嫌いって感じじゃないな」


 リュカが言った。


 アイラの匙が一度だけ止まる。


「何」


「嫌いなら、さっき東送りの札なんて書かない」


「どういう意味よ」


「嫌々書く字じゃなかった」


 アイラは黒パンをちぎり、汁へ浸してから口へ入れた。飲み込むまで少し時間がかかる。


「嫌いじゃないわよ」


 ようやく言う。


「楽しいかって聞かれたら、去年からはそうでもないけど」


「去年、何かあったか」


 アイラは匙を置いた。卓の木目をしばらく見ている。


「父が死んだ」


 短く、それだけ言う。


「見張りだったの」


 それ以上は続けない。飯場のざわめきの中で、その一言だけが耳に残った。


「祭りの夜か」


「……そう」


「西か」


「知った顔しないで」


「してない」


 アイラは少しだけ唇を噛んだ。


「灯が一つ落ちたの。綱を踏み外した子がいて」


 アイラは匙から手を離した。


「父はそれを拾いに行った。ひとり岸へ押し返して、それで終わり」


「それで祭りをやめたいのか」


「……言い切れたら楽なのよ」


 アイラは汁の表面を見たまま言った。


「港が残るならそれでいい。そう割り切れたら楽なのに、できない」


 アイラは汁の表面から目を上げなかった。


「今年も父の灯だけは流したい。そう思うたび、自分が嫌になる」


「嫌になるような話じゃない」


 リュカは答えた。


「そう言うのね」


「死んだ相手を送りたいのと、港を残したいのは別の話だ」


「別にしろって?」


「一緒に抱えると、両手からこぼれ落ちる」


 アイラはそこで、ようやく少しだけこちらを見た。


「慰めるの、下手ね」


「してない」


「そうでしょうね」


 女将が横から鍋杓子を振った。


「食べ終わったらさっさと働きな! 今年の港は、椀の底を覗いてる暇があるほど楽じゃないんだ」


 アイラは小さく舌打ちして椀を空ける。リュカもパンの最後を汁で湿らせて飲み込んだ。


 飯場を出ると、潮風がさっきより強い。東の空はまだ明るいが、光の角度が変わっている。午後の仕事の色だ。


 市場岸では、新しい起点札が打たれ、灯籠船の並びもだいぶ整っていた。

 子どもたちが運んでいた紙灯も、東へ積まれている。

 西の荷は少しずつ減っていた。

 役人たちも、もう文句より手が先に出ていた。


「これなら、持つかもしれない」


 アイラが言う。


 リュカはその言葉にすぐ返さなかった。西のほうを見ている。


 古い石積みの向こう、低い鐘棚だけが、昼の終わりの光を受けて黙っていた。綱は新しい。布も掛けたままだ。なのに、そこだけまだ祭りが始まる場所に見えた。


「持てば楽だ」


「楽って言うのね」


「嫌いなものを使わずに済む」


 その一言で、アイラの目がほんの少しだけこちらへ向いた。


「……あんた、本当に何者」


「飯で動く旅人だ」


「嘘っぽい」


「そう見えるか」


「そうよ」


 若い役人が駆けてきて、起点札の板を抱えたまま叫んだ。


「港務長が、西の封鎖綱をもう一段増やせって!」


「わかった!」


 アイラが返し、また走り出す。


 走りながら、半歩だけ振り向いた。


「来るなら来て。次は西を閉める」


「行く」


 東岸が整うほど、西の突堤だけがまだ去年のまま残っていた。

 それを見てから、リュカも歩き出した。


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