第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(2)
港務所の中は、外より狭かった。
机も箱も板も出しっぱなしで、どれもまだ途中だった。
その机の向こうで、片脚を少し引く年配の男が、若い役人に怒鳴っていた。
「だからその記録は去年の西岸だと言ってるだろうが! 今年の分と重ねるな!」
「でも補修位置が同じなら――」
「同じだから困ってるんだ!」
男はそこで、戸口に立つアイラとリュカに気づいた。
「遅い。杭は」
「仮打ちで止めてきました」
アイラが言う。
「それと、変なの拾った」
「犬か」
「旅人」
「似たようなものか」
年配の男――港務長ガルドは、机に手をついてこちらを見た。片脚を引いていても、立ち方だけは現場の人間だった。
「それで」
ガルドが言う。
「何拾った」
「西の杭と灯籠船と祭礼鐘を見て、“結界じゃなくて、港の始まりがずれてる”って言い出して」
ガルドの目がわずかに細くなった。
「ほう」
「ついでに、今夜も西から崩れるって」
「縁起でもないな」
「ええ。本当に」
アイラはうんざりした顔で言った。
机の脇にいた若い役人が鼻で笑う。
「祭り前になるといるんですよ。図板見て、港までわかった気になる奴らが」
「物見ではない」
リュカが言った。
「腹の減った旅人だ」
「もっと悪いじゃないですか」
若い役人はそう言ってから、机上の図板を自分のほうへ少し寄せた。
ガルドは椅子へ腰を下ろし、図板を指で叩いた。
「見たなら言ってみろ。どこがどう悪い」
リュカは机へ近づいた。
図板には東岸から西の古い突堤までが描かれ、杭も鐘も灯籠船も、西へ寄って並んでいた。
「西の第三杭」
リュカが指した。
「去年、二度」
ガルドが短く答える。
「一昨年は三度。南風の年は特に多い」
「今年は」
「今朝で二度」
若い役人が言った。少しだけ悔しそうに。
リュカは次に、灯籠船の札を見る。三艘。どれも湾の中央ではなく、西へ寄せてある。
「船も鐘も西だ」
「昔からそうです」
若い役人が言う。
「市場岸から流したら、送り灯じゃなくなる」
「今年はそうしないと、港がもたない」
アイラが吐き捨てるように言った。
「見習いが勝手に――」
「黙れ」
ガルドが一言で止めた。
若い役人は口を閉じたが、顔にはまだ不満が残った。
リュカは祭礼鐘の札へ触れた。鐘は今も西の低い鐘棚にある。昼は布を掛けているが、綱だけは新しい。今夜もそこを使う気だ。
「鐘も古い線にある」
「そうだ」
ガルドが言う。
「昔の港の起点だ。港が小さかった頃は、あの石積みから始めていた」
「今の港は」
「港は東へ伸びた。祭りだけまだ西だ」
リュカは事故札を二つ重ねた。去年も一昨年も、事故札は祭礼鐘のあとに重なっている。
「弱いのは結界じゃない」
「夜になると、人も灯も西へ寄る」
机の向こうがしんとした。
外では綱の擦れる音がしている。誰かが木箱を降ろしたらしく、どん、と重い音もひとつ響いた。そのたび、図板の上の木札がかすかに震える。
ガルドは黙ったまま、去年の記録綴じを開いた。指先で紙を繰り、ある頁で止める。
「祭りの夜、西の湾口が半刻だけ昔の位置へ戻った。係留綱三本断裂、負傷二」
次の綴じも開く。
「一昨年。古い石積み沿いに潮が引いた。見張り一名行方不明」
若い役人が言った。
「でも……東に替えたら、西の店は冷えます」
若い役人は図板の西側を指で押さえた。
爪の先が、古い石積みの印のところで止まる。
「祭礼組合も飲まない。あの人たちは本気で、『それは送り灯じゃない』って言い出します」
「思ってるさ」
リュカは言った。
「ならなおさら、見栄えのために岸を削るな」
「簡単に言うなよ!」
若い役人の声が一段高くなる。
押さえていた指先に、力が入った。
「商いにも響くし、去年死んだ者の家だってあるんだぞ」
「知るか、とは言わない」
リュカは図板から手を離した。
「だが、崩れる岸壁に見栄は張れん」
若い役人は言葉に詰まり、ガルドを見た。
ガルドはしばらく指で机を叩き、それからアイラを見た。
「東へ寄せた場合、西の補修班は何人浮く」
「四人」
「起点札の打ち替えは」
「半刻」
「灯籠船の綱回し」
「市場岸へ寄せれば一刻。西の封鎖綱も張れます」
「祭礼鐘は」
アイラは少しだけ黙った。
「……西の鐘はそのままにして、東で一度だけ打つなら何とか」
そこだけ声が鈍った。
ガルドはそれを聞いてから、若い役人へ顔を向けた。
「おまえ、今夜の見栄えと岸壁、どっちを残したい」
「それは……」
「返事が遅い」
「岸壁です」
「なら顔をしかめるのはあとにしろ」
若い役人は唇を噛んだ。それ以上は言えない。
ガルドは図板の西端を指で二度叩いた。
「今夜は東から始める」
「見栄は明日だ。今夜は岸壁を残す」
アイラの肩がわずかに動く。もう走り出す体になっていた。
「ただし」
ガルドの視線はまだリュカにある。
「言うだけの旅人なら夕方には消えてもらう」
ガルドは濡れた綱の束を顎で示した。
「荷を動かし、綱を引き、札を打ち替えるところまで手を出せ。口だけなら飯も出さん」
「飯は出るんじゃないのか」
アイラが呆れたように言う。
「そこは譲れないの?」
「腹が減ってる」
「見ればわかるわよ」
アイラは深々と息を吐いた。
「じゃあまず飯場。食べながら働いてもらう。こっちはその間に市場岸へ人を回す」
「待ってください」
若い役人が口を挟んだ。
「本当に東へ寄せるんですか? 祭礼組合には何て言うんです。西の送り鐘だって――」
「おまえが説明しろ」
ガルドが言った。
「嫌なら俺が行く。どちらにしろ今夜までに揉める。なら昼のうちに揉めたほうがマシだ」
若い役人は顔をしかめたが、うなずくしかなかった。
リュカは港務所の中をもう一度だけ見回した。図板、記録綴じ、濡れた綱、使いかけの銀粉箱。どれも、この港が毎年同じ場所でつまずいている証拠だった。
相手は港じゃない。昔のやり方だ。
アイラが戸口へ向かう。
「来るの?」
「行く」
「逃げたら許さないから」
「逃げない」
「あるでしょ。港務所で半日働かされるのよ」
「飯があるなら、まだマシだ」
「本当にぶれないわね」
港務所を出ると、潮の匂いが少し強くなっていた。
東の市場岸では、すでに何人かが灯籠船を動かすための綱を用意している。
西の低い鐘棚は昼の光を受けて黙っていたが、その沈黙がかえって悪かった。
アイラは足を速める。
「先に言っとくけど、港は図板だけじゃ動かないから」
「承知してる」
「じゃあ、まず手を動かして」
「そうだな」
その時、港の子どもがまた横を駆けていった。灯籠の骨組みを抱えたまま、息を切らしている。
「アイラ、今年は東でやるの?」
「そうなるかも」
「西じゃないの?」
子どもの何気ない問いに、アイラは一瞬だけ足を止めた。
「……港が残るやり方で流すの」
そう言って歩き出す。声は短く、だが逃げてはいなかった。
リュカは何も言わず、その背を追った。東へ寄せると決めても、目も綱もまだ西の古い石積みへ引かれたままだ。
それを剥がすには、図板の上の理屈だけでは足りない。
港の石と綱と人の足を、今日中に少しずつ動かしていくしかない。
それでも西の鐘棚だけは、布を掛けられていても、まだ祭りの始まる場所に見えた。




