表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
4/36

第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(1)

 白帆港へ入る前に、まず匂いが来た。


 塩。

 魚の腹の生臭さ。

 濡れた綱と油の焦げ。

 屋台の炭の残り香。


 湾を見下ろして、足が止まった。


 山道を下りてきたばかりだ。昨夜は雨の中を歩き通し、ろくに寝てもいない。腹は鳴り、外套も靴もまだ湿っていた。


 やろうと思えばどうにかすることはできる。

 だが、そんなことのために力を使う気はなかった。


 坂を下りる。石段の先で港がひらけた。


 見た目だけなら、よくある祭りの港だった。船は詰まり、岸には色布と屋台が並び、東岸では灯籠の骨組みを抱えた子どもたちが走っていた。


 人の足も、荷車の鼻先も、西へ寄っていた。


 西の岸壁だけ、荷がやけに少ない。結界杭も、西側の三本だけ打ち直し跡が新しい。今夜流す灯籠船も三艘まとめて、西の古い石積み寄りにつながれていた。


 岸壁の端で、忙しそうな人影が動いていた。


 若い女がひとり、石の縁に膝をついて銀釘を打っていた。


 青灰の外套。焦げ跡の残る袖。腰には工具袋と細い杭縄。手は早い。息をつく前に次の指図が飛ぶ。休む間もない。


「そこ、もう一打ち深く!」


 女が怒鳴る。

 相手は港役人らしい若者だ。木槌を構えたまま顔をしかめている。


「これ以上やると割れますよ!」


「割れるなら打つ場所が悪いの! 釘じゃなくて石を見なさい!」


 言いながら、自分の手で銀釘を一本抜き、半歩横へずらして打ち直す。槌の音が乾いて港へ響いた。その時、女が岸壁の上の灰色の外套に気づいた。


「何」


 まっすぐで、余裕のない目だった。


 リュカは西側の杭と灯籠船、それから女の足元の銀釘を順に見た。


「結論から言う」


「聞きたくない」


「壊れているのは結界じゃない。この港がどこから始まるかだ」


 女の眉が寄った。


「初対面の旅人に言われたくないわね」


「そうか」


「そうよ。しかも今、一番忙しい時に」


 女は槌を石へ置き、あからさまに顔をしかめた。


「物見ならどいて。占い師なら市場、神官なら教会。港務所はあっち」


「宿は」


「ない」


「飯は」


 女は一拍おいて、まじまじとリュカを見た。


「ずいぶん図々しいわね」


「腹が減ってる」


「顔見ればわかる」


 そう言いながら、女はまた銀釘へ手を伸ばした。


「祭り前で宿は埋まってる。飯場の残りならあるかもだけど、よそ者に回す余裕は――」


「今夜、また同じ杭を打ち直すことになる」


 女の手が止まった。


「何?」


「その位置だと足りない」


 リュカは岸壁の石目を顎で示した。


「西へ寄りすぎてる。打ち直しても、夜にはまた引かれる」


 若い役人が鼻で笑った。


「何だよ、あんた。結界師か?」


「違う」


「じゃあ黙ってろよ。こっちは朝から銀粉の袋まで開けてるんだ」


「袋を開けても足りない」


 リュカは言った。


「杭のせいじゃない。灯籠船の置き方と、鐘の位置のせいだ」


 女はそこで、本気でこちらを見た。


「……何で西の鐘を知ってるの」


「見える」


「見えるって」


「あそこだ」


 西の古い突堤の根元、崩れかけた石積みの陰に、鐘楼と呼ぶには低すぎる鐘棚があった。布は掛かっている。だが綱だけが新しい。


 女は舌打ちし、役人へ手を振った。


「ちょっと離れて」


「でも――」


「離れてって言ってる!」


 役人は不満そうに槌を持って下がる。


 女は腰を上げ、リュカの前まで来た。年は二十そこそこだろう。だが目の下にうっすら影がある。寝不足が顔に出ていた。


「名前」


「リュカ」


「私はアイラ。港務結界師見習い。本職が倒れたから、今は私が西を見てる」


「覚えた」


「それだけ?」


「足りないか」


「全然」


 アイラは腕を組んだ。


「港がどこから始まるかって、どういう意味」


「今の港と、昔の港の始まりがずれてる」


「そんなの、見ただけでわかるわけないでしょ」


「杭の打ち直し跡、灯籠船の置き方、祭礼鐘の位置」


 リュカは一つずつ指で示した。


「西だけ直しが多い。船も鐘も西へ寄ってる。祭りだけ、まだ古い岸から始まってる」


 アイラの口元が少しだけ固くなる。


「……それで」


「今夜も西から崩れる」


「縁起でもないこと言わないで」


「縁起じゃない」


「じゃあ何」


「去年までどう送ってたか、見ればわかる」


 アイラは眉を寄せたまま、少し黙った。


「港務所に来なさい」


「飯は」


「そこだけは絶対にぶれないのね」


「大事だ」


「わかったわよ。飯場の残りくらいなら、たぶんまだある」


「それで足りる」


「その返し、本当に腹立つ」


 アイラはそう言って背を向けた。歩き出しながら、役人へ怒鳴る。


「その杭はそのまま! 私が戻るまで銀粉を撒くな! 西三本の位置はあとで変える!」


「変えるって、またですか!」


「またよ!」


 港のざわめきの中を、二人は並んで歩き始めた。


 港務所へ向かう道すがら、リュカは何も聞かずに周りだけを見た。

 東岸の市場では子どもが灯籠の紙を運び、魚屋が桶の水を替えていた。

 飯場の前では女将が大鍋をかき回し、荷運びたちは片手でパンを齧りながら綱を引いていた。

 東は忙しいなりに回っていた。

 西は荷も人も少ないのに、目だけがそっちへ残っていた。


「宿、ないって本当か」


 歩きながらリュカが聞く。


「本当。祭り前だもの」


「客は多いな」


「多いわよ。だから余計に崩せない」


「崩れる」


「縁起でもない」


「さっきも言った」


 アイラは顔をしかめた。


「そうじゃなくて、あんた、そういう言い方しかできないの?」


「便利だろ」


「少なくとも優しくはない」


 主屋の影を曲がる時、子どもの声が横から飛んだ。


「アイラ! 今年は落ちないよね?」


 灯籠の骨組みを抱えた男の子だった。まだ十にもならない。


 アイラは足を止めなかったが、返事だけはした。


「落とさないように今みんなで動いてるの」


「去年みたいには?」


「させない」


 その声だけ、短く強かった。


 子どもが走り去ったあと、リュカは何も言わなかった。西の石積みのほうを見たまま歩いた。


 西の石積みが見える路地を通る。

 そこだけ、風の鳴り方が違った。綱が石を擦る音ではない。何かが古い位置へ戻ろうとしているような、乾いたきしみだ。


 リュカが言う。


「そこ、誰も長く見ないんだな」


 アイラの歩幅がわずかに変わった。


「何のこと」


「西の突堤だ」


「……見ても仕事が増えるだけ」


「増えるさ」


「軽く言うわね」


「軽くはない」


 港務所は、東岸と西岸のちょうど中ほどにあった。

 石造りの低い建物で、壁には風向板と港図、入口の前には木箱と予備杭が積まれている。

 使い込まれているが、片付いてはいない。


 扉を開ける前に、アイラが一度だけこちらを振り返る。


「先に言っとくけど、港務長は機嫌が悪いわよ」


「扉を開ける前からわかる」


「まだ会ってないでしょ」


「窓の開き方と扉の閉まり方で、だいたいわかる」


「……本当に嫌」


 そう言ってから、彼女は扉を押し開けた。


 中は潮の匂いより先に、古い紙と墨の匂いがした。

 その奥で、低い声が誰かを怒鳴っている。


 図板の上には、新しい港の線が引かれていた。

 西だけ、古い岸の札がまだ何枚も重なっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ