第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(1)
白帆港へ入る前に、まず匂いが来た。
塩。
魚の腹の生臭さ。
濡れた綱と油の焦げ。
屋台の炭の残り香。
湾を見下ろして、足が止まった。
山道を下りてきたばかりだ。昨夜は雨の中を歩き通し、ろくに寝てもいない。腹は鳴り、外套も靴もまだ湿っていた。
やろうと思えばどうにかすることはできる。
だが、そんなことのために力を使う気はなかった。
坂を下りる。石段の先で港がひらけた。
見た目だけなら、よくある祭りの港だった。船は詰まり、岸には色布と屋台が並び、東岸では灯籠の骨組みを抱えた子どもたちが走っていた。
人の足も、荷車の鼻先も、西へ寄っていた。
西の岸壁だけ、荷がやけに少ない。結界杭も、西側の三本だけ打ち直し跡が新しい。今夜流す灯籠船も三艘まとめて、西の古い石積み寄りにつながれていた。
岸壁の端で、忙しそうな人影が動いていた。
若い女がひとり、石の縁に膝をついて銀釘を打っていた。
青灰の外套。焦げ跡の残る袖。腰には工具袋と細い杭縄。手は早い。息をつく前に次の指図が飛ぶ。休む間もない。
「そこ、もう一打ち深く!」
女が怒鳴る。
相手は港役人らしい若者だ。木槌を構えたまま顔をしかめている。
「これ以上やると割れますよ!」
「割れるなら打つ場所が悪いの! 釘じゃなくて石を見なさい!」
言いながら、自分の手で銀釘を一本抜き、半歩横へずらして打ち直す。槌の音が乾いて港へ響いた。その時、女が岸壁の上の灰色の外套に気づいた。
「何」
まっすぐで、余裕のない目だった。
リュカは西側の杭と灯籠船、それから女の足元の銀釘を順に見た。
「結論から言う」
「聞きたくない」
「壊れているのは結界じゃない。この港がどこから始まるかだ」
女の眉が寄った。
「初対面の旅人に言われたくないわね」
「そうか」
「そうよ。しかも今、一番忙しい時に」
女は槌を石へ置き、あからさまに顔をしかめた。
「物見ならどいて。占い師なら市場、神官なら教会。港務所はあっち」
「宿は」
「ない」
「飯は」
女は一拍おいて、まじまじとリュカを見た。
「ずいぶん図々しいわね」
「腹が減ってる」
「顔見ればわかる」
そう言いながら、女はまた銀釘へ手を伸ばした。
「祭り前で宿は埋まってる。飯場の残りならあるかもだけど、よそ者に回す余裕は――」
「今夜、また同じ杭を打ち直すことになる」
女の手が止まった。
「何?」
「その位置だと足りない」
リュカは岸壁の石目を顎で示した。
「西へ寄りすぎてる。打ち直しても、夜にはまた引かれる」
若い役人が鼻で笑った。
「何だよ、あんた。結界師か?」
「違う」
「じゃあ黙ってろよ。こっちは朝から銀粉の袋まで開けてるんだ」
「袋を開けても足りない」
リュカは言った。
「杭のせいじゃない。灯籠船の置き方と、鐘の位置のせいだ」
女はそこで、本気でこちらを見た。
「……何で西の鐘を知ってるの」
「見える」
「見えるって」
「あそこだ」
西の古い突堤の根元、崩れかけた石積みの陰に、鐘楼と呼ぶには低すぎる鐘棚があった。布は掛かっている。だが綱だけが新しい。
女は舌打ちし、役人へ手を振った。
「ちょっと離れて」
「でも――」
「離れてって言ってる!」
役人は不満そうに槌を持って下がる。
女は腰を上げ、リュカの前まで来た。年は二十そこそこだろう。だが目の下にうっすら影がある。寝不足が顔に出ていた。
「名前」
「リュカ」
「私はアイラ。港務結界師見習い。本職が倒れたから、今は私が西を見てる」
「覚えた」
「それだけ?」
「足りないか」
「全然」
アイラは腕を組んだ。
「港がどこから始まるかって、どういう意味」
「今の港と、昔の港の始まりがずれてる」
「そんなの、見ただけでわかるわけないでしょ」
「杭の打ち直し跡、灯籠船の置き方、祭礼鐘の位置」
リュカは一つずつ指で示した。
「西だけ直しが多い。船も鐘も西へ寄ってる。祭りだけ、まだ古い岸から始まってる」
アイラの口元が少しだけ固くなる。
「……それで」
「今夜も西から崩れる」
「縁起でもないこと言わないで」
「縁起じゃない」
「じゃあ何」
「去年までどう送ってたか、見ればわかる」
アイラは眉を寄せたまま、少し黙った。
「港務所に来なさい」
「飯は」
「そこだけは絶対にぶれないのね」
「大事だ」
「わかったわよ。飯場の残りくらいなら、たぶんまだある」
「それで足りる」
「その返し、本当に腹立つ」
アイラはそう言って背を向けた。歩き出しながら、役人へ怒鳴る。
「その杭はそのまま! 私が戻るまで銀粉を撒くな! 西三本の位置はあとで変える!」
「変えるって、またですか!」
「またよ!」
港のざわめきの中を、二人は並んで歩き始めた。
港務所へ向かう道すがら、リュカは何も聞かずに周りだけを見た。
東岸の市場では子どもが灯籠の紙を運び、魚屋が桶の水を替えていた。
飯場の前では女将が大鍋をかき回し、荷運びたちは片手でパンを齧りながら綱を引いていた。
東は忙しいなりに回っていた。
西は荷も人も少ないのに、目だけがそっちへ残っていた。
「宿、ないって本当か」
歩きながらリュカが聞く。
「本当。祭り前だもの」
「客は多いな」
「多いわよ。だから余計に崩せない」
「崩れる」
「縁起でもない」
「さっきも言った」
アイラは顔をしかめた。
「そうじゃなくて、あんた、そういう言い方しかできないの?」
「便利だろ」
「少なくとも優しくはない」
主屋の影を曲がる時、子どもの声が横から飛んだ。
「アイラ! 今年は落ちないよね?」
灯籠の骨組みを抱えた男の子だった。まだ十にもならない。
アイラは足を止めなかったが、返事だけはした。
「落とさないように今みんなで動いてるの」
「去年みたいには?」
「させない」
その声だけ、短く強かった。
子どもが走り去ったあと、リュカは何も言わなかった。西の石積みのほうを見たまま歩いた。
西の石積みが見える路地を通る。
そこだけ、風の鳴り方が違った。綱が石を擦る音ではない。何かが古い位置へ戻ろうとしているような、乾いたきしみだ。
リュカが言う。
「そこ、誰も長く見ないんだな」
アイラの歩幅がわずかに変わった。
「何のこと」
「西の突堤だ」
「……見ても仕事が増えるだけ」
「増えるさ」
「軽く言うわね」
「軽くはない」
港務所は、東岸と西岸のちょうど中ほどにあった。
石造りの低い建物で、壁には風向板と港図、入口の前には木箱と予備杭が積まれている。
使い込まれているが、片付いてはいない。
扉を開ける前に、アイラが一度だけこちらを振り返る。
「先に言っとくけど、港務長は機嫌が悪いわよ」
「扉を開ける前からわかる」
「まだ会ってないでしょ」
「窓の開き方と扉の閉まり方で、だいたいわかる」
「……本当に嫌」
そう言ってから、彼女は扉を押し開けた。
中は潮の匂いより先に、古い紙と墨の匂いがした。
その奥で、低い声が誰かを怒鳴っている。
図板の上には、新しい港の線が引かれていた。
西だけ、古い岸の札がまだ何枚も重なっていた。




