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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
3/36

第一話 呪われた宿の消えた朝(3)

「下へ戻れ」


「お、おい、今――」


「下がれ、札はそのまま、名を呼ばれても返すな。火は消すな」


「ミレナは?」


「あの朝の中にいる」


「何言って――」


「話はあとだ」


 そう言って、リュカは鞄の底から平たい木箱を引き出した。

 留め金には細い封蝋の筋が入っている。旅道具にしては、封が妙にきれいすぎる。


 彼はそれを見て、眉間にしわを寄せた。

 指先が一瞬止まる。それでも、留め金に手をかける。


「……嫌いなんだよ」


 誰にともなく、そう言った。


 扉の向こうから、また水音がした。今度は二つ。

 ミレナが歩き始めている。

 リュカは封を切った。

 箱の中には、油紙に包まれた細い針が一本と、平たい糸巻きが入っていた。


 針は鉄に見えたが、火を受けても鈍く光るだけで赤くならない。

 糸は白とも銀ともつかず、引くと乾いた弦のように鳴った。

 ほかに、小さな鉛の印が三つ。

 指の先に乗る程度の四角い錘で、片面に擦り切れた刻みがある。

 文字ではない。関所の封か、荷改めの印か、その類いだ。


 リュカはそれを見て、ますます機嫌を悪くした。


「……つくづく嫌になる」


「それ、何」


 ヤンが聞いた。声が上ずっている。


「触るな」


 リュカは箱を閉じずに、床へ膝をついた。三号室の敷居。扉の左右の柱。その手前の床板。


 測量杖の先で順に位置を取り、鉛の印を置く。

 ひとつは左の柱の根元。ひとつは右の柱の根元。最後のひとつは、扉から三歩離れた廊下の真ん中だ。


「ヤン」


「な、何だ」


「ロアの荷は?」


「下だ。囲炉裏のそばに置いてある」


「羊鈴はあるか」


「……ある」


「持ってこい。だが名を呼ぶな」


 ヤンは駆けた。階段を下りる音がやけに大きい。

 リュカは糸を針に通した。通したはずなのに、針穴へ糸を入れた手応えがない。

 ただ、白い細線が針の後ろについてくる。


「おい」


 廊下の壁際で縮こまっていた荷馬車引きの若者が、震え声で言った。


「俺たちは何をすればいい」


「火を見ろ」


「火?」


「消すな。絶やすな。今夜はそれだけでいい」


「……火なら、朝まで見張れる」


「それ以上やらせると、もう一人増える」


 若者は喉を鳴らし、それでもうなずいて階下へ走った。年かさの女もつられて下がる。

 宿の二階には、リュカと、階段の下に固まる客たちの怯えだけが残った。


 ミレナの声が扉の向こうからした。


「リュカ」


 今度は近い。すぐ板一枚向こうだ。


「いる。ロアもいる。水が――」


「床を見るな」


 リュカは即座に言った。


「柱も見るな。俺の声だけ聞け」


「わかった」


 返事は早い。だが、その声の端が少しだけ遠い。板の向こうで一歩ごとに距離がずれる場所にいる声だ。


「ロアは動けるか」


「半分だけ。立てない」


「意識は?」


「意識はある」


「いい。無理に起こすな」


 ヤンが戻ってきた。片手にくしゃくしゃの外套、もう片手に小さな青銅の鈴を握っている。

 羊をまとめる時に使う鈴だろう。毛の匂いがついている。


「これだ」


 リュカは鈴を受け取り、耳元で一度だけ鳴らした。

 高く、乾いた音だった。

 その音が鳴った瞬間、扉の下から漏れていた白さが、ほんの少しだけ脈を打つように揺れた。


「やっぱりな」


「何がわかった」


「向こうにいるのはロアだけじゃない」


 ヤンの顔がこわばる。


「……どういう意味だ」


「向こうには、連れて行かれた客の朝だけが残ってる」


「ふざけるな」


「ふざけてない」


 リュカはロアの鈴を、鉛の印のそばへ置いた。次に、札の枠から外した朝食札を二枚取り出し、炭で名前を書く。


 ロア・フェン

 ミレナ・アシュ


 書いた札を、糸に通した。札は紙ではなく木だ。

 穴を開けたわけでもないのに、針が触れるだけで通っていく。木が少しだけ湿った音を立てる。


 ヤンがそれを見て、低く言った。


「……魔術師、か」


「違う」


 リュカは短く答えた。


「それなら、まだいい」


 納得できないまま、ヤンはそれ以上聞かなかった。

 リュカは扉の左柱へ針を打ち込んだ。木が裂ける音はしない。

 代わりに、見えない、もっと奥の何かへ届いたような鈍い手応えが返る。

 次に右柱。最後に廊下の真ん中、三つ目の印のそばへ、糸を渡す。

 三角に張られた白い糸が、夜の中でだけ薄く見えた。


「ヤン」


「何だ」


「ここを越えるな」


「……ミレナを見捨てろってのか」


「越えたら、助けるどころじゃ済まない」


 リュカは扉板に手を当て、目を閉じた。

 手の下にあるものは、古い木の冷たさと違った。濡れた石を押さえているような冷えが、掌へ返ってくる。

 見た目は部屋でも、その奥は昔の関所跡へ続いている。霧の夜だけ、人を通した道が宿の廊下まで戻ってくる。


 この宿では寝る前に朝食札を揃え、宿帳の横で裏返す。

 夜のうちに裏返された札は、関所跡には通行済みの印になる。

 まだ部屋で寝ている客まで、朝の向こうへ送られる。

 始末が悪い。宿のやり方に、古い関所の数え方が混じっている。術だけでは引きはがせない。


 リュカは息を吸い、言った。


「聞け」


 階下の囲炉裏端まで届くように。


「今から先、誰の名も呼ぶな。返事もするな。呼ばれても、聞こえないふりをしろ」


 階下で、誰かが椅子を引く音がした。たぶん年かさの女だろう。

 祈りの言葉を飲み込み、「聞こえない、聞こえない」と自分に言い聞かせる気配がある。


「ヤン」


「……ああ」


「おまえはロアの鈴を鳴らせ。三つ。ゆっくりだ」


 ヤンが鈴を持つ手を震わせながら、音を鳴らす。


 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。


 音が三つ、霧の夜に落ちていく。


 扉の向こうから、水音が返った。


「ロア」


 リュカは名を呼んだ。さっきまで客に禁じていた呼び方を、今度は自分が使う。


「鈴のほうへ寄れ。声は返すな。足だけ動かせ」


 返事はなかった。だが、水を踏む音が一つ、二つ、近づく。


「ミレナ」


「いる」


「ロアの襟を放すな。だが、扉へは来るな」


「来るなって、ここ、足場が――」


「そこはまだ部屋じゃない」


 リュカは糸をひとつ、左手に巻いた。指先が白くなる。針を持つ右手は、拒むように重い。


 嫌いだ。


 布でも木でもないものに針を入れる、この感触が。

 使うたび、昔見た空の裂け目を思い出す。

 白い裂け目が世界のあちこちに走り、町の輪郭も、人の声も、まとめて剥ぎ取っていった朝を。


 それでも手は止めない。


「今夜の勘定はまだ閉じていない」


 低く、リュカは言った。

 誰に聞かせる言葉でもない。宿の人間には古い宿屋の決まり文句にしか聞こえないだろう。


「泊まる者は火のそばに置く。出る者は顔を見て数える。札の数え違いを、ここへ戻せ」


 針を引く。

 白い糸が、扉板の前で一度だけ光った。

 空気が軋んだ。


 三号室の輪郭が、ぶれる。

 扉の木目の奥に、もう一枚の柱が透ける。

 宿の柱ではない。

 もっと太く、もっと低い。雨を何十年も受けた関所柱だ。

 その向こうに、薄い朝の色が溜まっている。

 ヤンが息を呑み、一歩ぶんだけ腰を引いた。


「……見えた」


「見るな」


 リュカが言う。


「糸だけ見ろ」


 白い糸は、もう廊下に張られていない。扉の隙間を抜け、向こうの朝へまっすぐ伸びている。

 ミレナの声が、少しだけはっきりした。


「見えた。これ、掴めばいい?」


「手首に巻け」


「ロアにも?」


「先にロアだ」


 水をはねる音。苦しげなうめき。

 ミレナが肩を入れて男を起こしているのだろう。板の向こうの気配だけで、それがわかる。


 だが、向こうも黙ってはいない。


 朝の白さのもっと奥で、何人もの足音がした。

 硬い靴。裸足。引きずる音。

 男とも女ともつかない咳払い。

 低い囁き。


「……まだ部屋がある。まだ朝飯が足りない。もう一人」


 ヤンの顔から血の気が消える。


「何だ、いまの」


「余りだ」


「何の」


「朝の」


 言いながら、リュカは二度目の針を入れた。

 左の柱から右の柱へ。

 右から床へ。

 床からもう一度左へ。

 見えない裂け目を、三つ留める。


 扉の向こうで、白い朝が少しだけ狭まる。


「うっ……」


 ロアの苦鳴がした。


「ミレナ、いまだ。糸をロアの脇に通せ」


「通した!」


「ヤン、持て」


 リュカは糸の端をヤンに投げた。

 ヤンは反射で掴む。糸は見た目より重い。

 腕が一気に引かれ、彼は歯を食いしばった。


「そのまま、手前へ。だが名を呼ぶな」


「くそ……!」


 ヤンが引く。リュカも引く。白い糸がきしむ音を立てる。向こうの水の中で、何か重いものがずるりと動いた。


 敷居の前に、濡れた手が一つ現れる。次に腕。ロアだった。

 顔は青白いが、生きている。目も開いているが、焦点が合っていない。


「あと一息だ」


 リュカが言った時だった。


 白い朝の奥から、別の手が伸びた。

 女の手だ。細い。指に旅人用の安い真鍮輪が見える。ロアの足首を掴む。

 続けてもう一本。今度は男の手。袖は擦り切れた外套。さらに、もっと小さな手。

 何人分もの“余り”が、引き戻そうとしていた。


 ヤンが喉の裏返った声を漏らす。


「何だそれは!」


「見るな、引け!」


 リュカは三本目の針を打つ。

 右手の親指が裂け、血がにじんだ。

 針に血が触れた瞬間、糸が白から青へ変わる。

 嫌な音がした。


 世界のどこかが、布のように引きつる音だった。


 扉の向こうで手が一斉に退いた。ロアの体が敷居まで滑ってくる。

 ヤンがほとんど転ぶようにしてそれを抱え込み、廊下へ引きずり出した。


 ロアは吐いた。水ではない。白い息だ。朝靄みたいな薄い白さが、口からひとすじ出て、すぐ消える。


「ロア!」


 ヤンが今度は名を叫んだ。もう敷居のこちら側だったから、リュカは止めなかった。


「ミレナ!」


 返事がない。

 白い朝の中で、水音だけが動く。


「ミレナ、糸を持て」


 ようやく声が返る。


「……取れた」


「いい。おまえは引くな。歩け」


「歩いてる」


「柱は見るな」


「見てない」


「後ろも見るな」


 一拍の沈黙。


「見ない」


 その返事で、リュカは少しだけ呼吸を戻した。ミレナはそういう約束は守る。


 白い糸がまた張る。今度は軽い。

 ロアよりずっと軽いはずなのに、向こうから来る抵抗はさっきより強い。

 ひとり分の重さではない。宿じゅうが持っていかれまいと踏ん張っているみたいな抵抗だ。


 扉板の向こうで、いくつもの声が重なった。


「娘を置いていけ。今度は足りる、勘定が合う、これで閉じる」


 リュカの顔つきが冷えた。


「閉じない」


 短く言って、彼は最後の針を抜いた。いままで打ち込んだ糸の中央へ、それを逆さに差す。

 夜気が一瞬、凍りついたように静まる。


「この宿の朝は、まだ数え終わっていない」


 白い朝が、ぴたりと止まった。

 敷居の向こうに、ミレナの手が出る。濡れている。次に肩。髪。だがあと一歩のところで、彼女の足が止まった。


「リュカ」


「何だ」


「……誰か、後ろで父さんの声がする」


 リュカは目を閉じなかった。


「知ってる」


「今度は本物かもしれない」


「違う」


「でも――」


「違う。こっちへ来い」


 ミレナの顔が見えた。いつもの強情な顔だ。

 だが、その目がわずかに揺れる。誰かを置いてくる顔だ。

 だからこそ、リュカは言い切った。


「おまえが聞きたい声ほど、今は偽物だ」


 ミレナが唇を噛む。

 次の瞬間、彼女の後ろで、かすかな咳がした。父親のものにそっくりな、胸の奥に引っかかる咳だ。

 ミレナの肩が動く。

 リュカは白い糸を一気に引いた。


「前を見ろ!」


 彼女の体が敷居を滑る。

 ミレナが倒れこむように廊下へ出たその瞬間、扉の向こうから誰かの手が伸びた。

 指先だけが、彼女の踵に触れる。


 リュカは逆さに差した針を、扉の中央へ叩き込んだ。

 白さが裂ける。

 水音が止む。

 声が消える。

 関所柱の影が、宿の木目の奥へ沈む。


 扉が重く閉じた。

 今度は、本当にただの木が鳴る音だった。

 廊下に沈黙が落ちる。


 ヤンは床へへたり込み、ロアを抱えたまま荒い息をしている。

 ロアも咳き込み、肺に入り込んだ冷気を吐いていた。

 ミレナは床へ手をついたまま、しばらく顔を上げられない。


 リュカは扉板から手を離した。

 右手の親指の裂け目から血が流れている。

 だが、彼はそこを見ない。見れば、気分が悪くなるからだ。

 彼は針を抜かなかった。そのまま、糸を三号室の扉に渡して結び、朝食札を二枚、針の根元へ挟み込む。


 ロア・フェン

 ミレナ・アシュ


 名札が、扉の前で静かに揺れる。


「……終わったの」


 ミレナがやっと言った。声がかすれている。


「今夜はな」


「今夜は、って」


「宿のほうはまだ終わってない」


 ミレナはそれを聞くと、起き上がろうとして失敗した。膝が抜けている。ヤンが慌てて支える。

 リュカは短く息を吐いた。


「下へ運べ。火のそばに寝かせろ」


 誰も逆らわない。

 ヤンと若者がロアを抱え、若者は護符を握った手のまま足を持つ。

 年かさの女は抱えていた荷を脇へ投げ、「足を貸しな」とミレナの肩を取る。

 商人は噛んでいた口髭をようやく離し、「火のそば空けろ」と階段下の椅子をどけた。

 みんな囲炉裏のある一階へ降りていく。


 最後にリュカだけが残った。


 三号室の扉に手を置く。もう白さは漏れてこない。

 だが、木の向こうはまだ冷たい。塞いだはずなのに、冷えだけ残っていた。


「……だから嫌いなんだ」


 小さくそう言って、彼はようやく階段を下りた。


     *


 朝は、ちゃんと外から来た。

 白みかけた空が窓の格子を抜け、囲炉裏の煤けた壁に薄い四角を置く。

 鶏の声は聞こえない。ここは街道の宿で、鶏より先に起きるのは荷馬車の車輪だ。


 だが、今朝に限っては、その遅い音さえずいぶんまともに思えた。


 ロアは囲炉裏のそばで眠っている。熱はあるが、息は落ち着いた。

 ミレナも起きている。目の下はひどいが、顔色は夜よりずっといい。


 ヤンは椅子に座ったまま寝落ちし、鈴を握った手だけは離していない。

 荷馬車引きの若者は火箸を抱えたまま壁にもたれ、うとうとしながらも、火が鳴るたび「消えるな」と唇だけ動かした。


 リュカは宿帳の横で紙を書いていた。

 炭ではなく、今度は墨で。

 字は夜より整っている。紙は三枚。理屈は書かない。読めばすぐ動けるように、手順だけ書いた。


 ミレナが、湯気の立つ茶碗を両手で持ったまま、隣へ来た。


「あれ、何だったの」


「関所の残りだ」


「関所?」


「昔ここに、人を通して数える場所があった」


「そんなの知ってる。うちの祖父さんの代でも、もう土台しか残ってなかったって聞く」


「寝る前に、朝食札をもう裏返してた」


 ミレナは眉を寄せる。


「返しただけで、そうなるの?」


「霧の夜だけだ。夜のうちに返すと、札だけで『客はもう出た』ことにされる」


「……寝てる客まで?」


 リュカは短くうなずいた。


 ミレナはしばらく黙っていたが、やがて吐き出すように笑った。


「ひどすぎる」


「さっき言った」


「今度は私が言ってるの」


 リュカは紙を書き終え、墨を置いた。


「守れ。少しはもつ」


「少しは、ね」


「二度と、とは言わない」


「正直で腹が立つ」


「だろうな」


 紙の一枚目を、彼はミレナへ渡した。


 一、三号室は客室に使うな。納戸にしろ。

 二、部屋を数で呼ぶな。札は鳥か木の名に替えろ。

 三、朝食札は日の出まで裏返すな。

 四、霧の夜は客を二階へ上げるな。

 五、床下の石を掘り返すな。

 六、鈴は宿帳の横ではなく、玄関へ戻せ。


 ミレナは二度読み返し、三行目で指を止めた。つられて、札の枠の朝食札に目がいく。


「部屋を数で呼ぶな、って」


「数えるからだ」


「鳥の名って何よ」


「宿の名が山鳩亭だろ。鳩でも鶫でも好きにしろ」


「……急に雑」


「大事なのは数で呼ばないことだ」


 ミレナは紙を膝に置いたまま、少しだけ笑った。夜のあいだ一度も出なかった笑いだ。


「じゃあ三号室は?」


「鳥にするな」


「意地悪」


「どうせ閉めたままなんだから同じだ」


 リュカは二枚目の紙を宿帳の横へ差し込み、端を墨壺で押さえた。朝食札を出せば、嫌でも目に入る場所だ。

 濃霧の夜は朝食札を出すな。客の顔を見てから裏返せ。

 それだけ、太く書いてある。


 最後の一枚は、三号室の扉へ回す札だった。リュカはそれを卓の上で裏返し、ミレナへ渡す。

 納戸。開ける時は二人で。


 ミレナはそれを見て、長く息をついた。


「宿は続けてもいいと思う?」


 リュカはようやく椅子の背へ体を預けた。


「続けろ」


「……でも部屋は一つ潰れる」


「潰せ」


「客も減る」


「減らせ」


「言い切るわね」


「宿は部屋一つじゃ死なない。寝床と朝飯が途切れた時に死ぬ」


 ミレナは茶碗を見た。湯気がゆっくり上がる。


「全部元通りにはならないのね」


「ならない」


「そう」


「嫌か」


「嫌よ」


 言ってから、彼女は顔を上げた。


「でも、嫌でも、続くほうがまし」


「そのほうがましだ」


 しばらくして、ミレナはじっとリュカの右手を見た。

 親指の裂け目には布も巻かれていない。墨をすったせいで、血と黒が混じって乾いている。


「あんた、それ」


「何だ」


「怪我」


「見たらわかる」


 ミレナは眉をひそめた。客の怪我を見過ごせない顔だった。


「手当てしなさいよ」


「あとでいい」


「魔術は?」


「使わない」


 リュカは血のついた親指を、袖の内側へ隠した。


「……使えないんじゃなくて?」


「使わない」


 ミレナは一瞬だけ何か言い返しかけ、やめた。昨夜のものを見たあとでは、軽口では済まないとわかったのだろう。

 代わりに、彼女は立ち上がった。


「待ってなさい。布と湯を持ってくる」


「自分のほうが先だろ」


「宿の主人が、怪我した客を放っておけるわけないの」


「今の主人は誰だ」


「私」


 奥の部屋で、低い咳がした。

 寝ていたはずの父が、戸口の陰から片手だけ出していた。指先で宿帳の台を二度叩く。


「なら、札はおまえが掛けろ」


 ミレナは一度だけ奥を見て、うなずいた。


「わかってる」


「そうか」


「そうよ」


 ミレナは厨房へ向かった。その背中はまだ少しふらつくが、昨夜みたいに焦ってはいない。

 歩幅が定まっている。宿帳の台と厨房を、もう迷わず行き来できる歩き方だった。

 リュカはその背を見送り、それから外へ目をやった。

 霧はほとんど上がっている。峠道の先に、薄い青が見えた。今朝はちゃんと、峠の向こうから来る朝だ。


     *


 食事のあと、リュカは帰り支度をした。

 礼として受け取ったのは、寝床と朝飯、それからミレナが無理やり押しつけてきた黒パン二つだけだ。

 銅貨は受け取らなかった。

 理由を聞かれても、「面倒だ」としか言わない。それ以上、口は開かない。

 玄関で靴紐を締めていると、ミレナが新しい札を持ってきた。まだ墨が乾ききっていない。

 札には、丸い字でこう書いてあった。


 山鳩

 鶫

 雲雀


 三枚ある。


 それからミレナは、雲雀の札の下に挟んであった白木を一枚だけ抜き取った。

 何も書いていない。角だけが少し丸く削ってある。


「あと、これ」


「何だ」


「空き札」


 ミレナは白木の札をぐいとリュカの手に押しつけた。


「まだ誰の部屋でも席でもないのに、名前だけ先に書かれた場所を見つけたら置きなさい」


「使い道はありそうだな」


「でしょ」


「その言い方、腹立つな」


「うつったのよ」


「三号室は?」


 リュカが聞く。


 ミレナは鼻を鳴らした。


「納戸。鳥にはしない」


「それでいい」


「誰かさんの紙のせいでしょ」


「紙だけ残る」


「客は残らないくせにね」


 その言い方に、リュカは少しだけ目を細めた。


「呼べば戻るかもしれないわよ」


「呼ぶな」


「冗談」


 ミレナは札を胸に抱え、戸口に寄りかかった。


「あんた、何者なの」


 昨夜も聞かれた問いだ。


 リュカは鞄を肩に掛け、測量杖を持った。


「宿代が足りない旅人だ」


「まだそれ言う」


「それで通るだろ」


「全然」


 ミレナは少し考え、それから肩をすくめた。


「まあいい。次に来る時は、ちゃんと金を持って泊まりなさい」


「次があるならな」


「あるわよ。宿、続けるんだから」


 その声に、強がりは混じっていなかった。

 リュカは入口の扉を開け、外へ出た。朝の空気は冷たい。脇腹の鈍い痛みも、指の裂け目もそのままだ。

 それでいい。自分の分は、自分で持って歩くと決めている。

 背後で、ミレナが呼んだ。


「ねえ!」


 リュカは振り向かない。


「今度は名前、ちゃんと名乗りなさいよ!」


 返事の代わりに、彼は片手だけ上げた。


 山道へ踏み出す。濡れた轍。痩せた木。消えかけた関所跡の石。昨夜と同じ道なのに、もう朝は欠けていない。


 宿のほうで、木槌の音がした。

 もう鳥の札を打つ音だ。


 それを背に、リュカは歩き出した。


 鞄の中で、白木の空き札がほかの木札に触れ、小さく乾いた音を立てた。


 まだ誰の名も入っていない札だ。その軽い音だけが、妙に耳に残った。


 ろくでもない。

 それでも、捨てていく気にはなれなかった。


 灰色の外套が霧に溶けるころ、山鳩亭でもう一度だけ木槌が鳴った。


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