第一話 呪われた宿の消えた朝(2)
ミレナが戻ってきた。炭のほかに、宿帳のそばで使う小さな板と、使いかけの紙束まで抱えている。息が上がっていた。
「これで足りる?」
「紐と釘は?」
「荷札に使う紐ならある。釘もある」
「そんなに使うの?」
「使う」
「宿が壊れたら請求するから」
「宿が残ったら払え」
リュカは受け取った紙を卓に広げ、炭で短く書いた。字は早いが雑ではない。
角をそろえ、余白も残す。ミレナは横からのぞき込み、やがて眉を上げた。
「……何これ」
「夜明けまでの決まりだ」
紙には五行だけ、簡単な文が並んだ。
一、今夜は二階へ上がるな。
二、名を呼ばれても、ひとりで返事をするな。
三、朝食札に触るな。
四、扉の前の水鉢を倒すな。
五、鐘が二度鳴ったら宿帳の台へ集まれ。
「名を呼ばれてもって……何それ」
「あとでわかる」
「わかりたくないんだけど」
「そういうのは、大体、知りたくない時にわかる」
リュカは紙を宿帳の横へ貼り、次に帳面を開いた。墨の乾き具合を指先で確かめる。
「今いる客の名を、声に出して読め」
「今?」
「今だ」
ミレナは渋い顔をした。だが、帳面を持って囲炉裏の前へ出た。
客たちはまだ事情がのみ込めていない。四号室で一緒に寝ていた男は、椅子に浅く腰かけ、両手で膝を押さえていた。
年かさの女は荷を抱えたまま口を結び、荷馬車引きらしい若者は泥の乾いた袖口を握っている。
峠越えの商人は濡れた口髭を噛んでいた。どれも疲れた顔だったが、眠気より不安のほうが勝っている。
「聞いて」
ミレナが言う。
「今夜は、みんな下で休んでもらう。部屋には戻さない。異論があるなら今言って」
「あるに決まってるだろ」
最初に声を上げたのは、四号室の男だった。赤い鼻をしている。さっきから落ち着きなく足を揺らしている。
「俺は上に荷を置いたままだぞ」
「朝まで触るな」
リュカが言う。
「何でだ」
「動かすと札だけ先に走る」
「札?」
「客はまだ部屋にいるのに、札だけ先に『出た』扱いになる」
「意味がわからん」
「わからなくていい。守れ」
男は露骨に顔をしかめた。
「おい、宿の娘。こんな得体の知れない流れ者の言うことを聞くのか」
「今夜だけは聞く」
ミレナの返事は早かった。
「じゃないと、あんたも消えるかもしれない」
囲炉裏の火が、小さく鳴った。誰も笑わない。
リュカは札の枠から朝食札を持ってきて、卓の上に並べた。
ひとつひとつ、角の欠けや墨のにじみが違う。札は七枚ある。
客は、消えた男を入れれば六人。宿の者を入れて七。数だけ見れば合う。だが、一枚だけ裏返っている。
「ミレナ」
「何」
「消えた客の名は?」
「……ロアだ」
「姓は?」
「ロア・フェン。峠の向こうの羊商人だって言ってた」
「書け」
ミレナは別紙に名を書いた。リュカはその紙を、空いていた朝食札の裏に細い紐で結わえつける。
「何してる」
四号室の男が言う。
「足りない分を揃えてる」
「だから意味が」
「お前の名は?」
「……ヤンだ」
「姓は?」
「ヤン・バルクだ」
言わされていると気づいたのか、ヤンの眉間にしわが寄った。
「ロアと一緒だったな」
「そうだ」
「なら、こっちを見ろ。今から先、ロアの声がしても動くな」
ヤンの顔つきが変わった。
「何?」
「ロアの声が聞こえるかもしれない」
「生きてるのか」
「知らん」
「知らんってお前――」
リュカは朝食札を卓に置いた。
「まだ死んでない。しくじると、もう一人だ」
囲炉裏の向こうで、年かさの女が荷を抱えたまま小さく息をのんだ。
荷馬車引きの若者は無意識に胸元の護符を握り、商人は口髭を噛んだ。宿の空気がぴんと張る。
ミレナはその張りを切るように、わざと大きな声を出した。
「名を呼ぶわよ。返事して」
彼女は帳面を読み上げ、一人ずつ名を確かめた。
声に出すたび、リュカは対応する札を卓の上に立てる。客が返事をする。札が並ぶ。名と顔と木の札が揃う。
単純な作業だった。だが、ひとつずつ揃うたびに場のざわつきが薄れていく。手順があるだけで、人は少し落ち着ける。
最後に、ミレナが自分の名を言った。
「ミレナ・アシュ」
札が一枚、残る。
ロアの分だ。
リュカはそれを札の枠に掛けた。裏返った札の隣。二枚が並ぶ。
「俺のは?」
ミレナが言う。
「おまえは朝まで起きてる」
「そうじゃなくて、札」
「いらない」
「何で?」
「俺は数に入れない」
「ずるくない?」
「そのほうが早い」
ミレナは鼻で笑いかけ、途中でやめた。笑うほど気楽な夜ではなかった。
そのあと、二人は宿の中を動き回った。
水鉢を三つ。浅い木皿を二つ。麻紐。細釘。札の枠の鈴。厨房の塩。囲炉裏の灰。
旅籠にあるもので、今夜をしのぐ支度をした。
玄関脇に水鉢。
階段の踊り場に水鉢。
三号室の前に水鉢。
札の枠から階段下まで、麻紐を一本、床すれすれに張る。踊り場にも一本張る。
三号室の鴨居には鈴。四号室の扉の前には灰を薄く撒く。
見えないものを止めるためじゃない。何か通ったら、すぐわかるようにするためだ。
作業の手際を見て、ミレナが言った。
「あんた、旅人っていうより、倒れかけの倉を立て直しに来た人みたい」
「大差ない」
「あるわよ」
「そうか」
「もうちょっと否定しなさいよ」
リュカは答えず、三号室の前にしゃがみこんだ。扉板に耳を当てる。
内側は静かだ。使っていない部屋の静けさではない。板一枚向こうで息をひそめている静けさだ。
音が、湿った布を何枚も重ねた奥へ吸い込まれていく。
「鍵」
ミレナが黙って差し出す。
三号室の鍵は、小さな鉄鍵だった。
他の客室の鍵より少しだけ古く、柄の輪が摩耗している。差し込むと、乾いた音が返った。
「開けるの」
「見るだけだ」
「見て、何かわかる?」
「足跡くらいは?」
「部屋、空よ。何度も見たんだから」
「それでも見る」
鍵が回る。扉を押すと、きしまずに開いた。
部屋は狭い。寝台が一つ。壁際に小机。
窓は閉まっている。雨戸の隙間から、外の霧の白さだけが細く入ってくる。
布団は畳まれ、上に薄く埃がのっていた。だが、埃は均一ではない。
床板の中央、寝台から扉へ続く細い一筋だけ、わずかに色が違う。
人が踏んだ跡ではない。もっと古い、もっと何度も繰り返されたすり減り方だ。
リュカは測量杖の先で床を軽く叩いた。
一度。
二度。
三度。
三度目だけ、音が違った。板の下に空洞ではなく、角の立った石がある音だ。
「……やっぱりか」
彼は部屋の中に一歩入り、鴨居を見上げた。部屋札の木片が外されて久しい跡がある。
だが、それより上に、もっと古い穴が二つ残っていた。
横に並んだ、小さな金具穴。札を掛ける位置ではない。
「何」
扉口からミレナが聞く。
「昔、ここに別のものが掛かってた」
「別のものって?」
「数える板か、通行印か、その手の類いだ」
「関所の名残?」
「たぶんな」
リュカは扉の表に戻り、向かいの一号室を見た。部屋札は新しい木だ。
色が浅く、釘も他と違う。二号、四号は黒ずんだ古い札なのに、一号だけが浮いて見える。
「一号室の札、いつ替えた」
「え?」
「一号室の部屋札だ」
「ああ……去年。割れたから」
ミレナはそこで、古い札の形を思い出そうとするように目を細めた。
「その前は?」
「前って、前の札のことか?」
「何て書いてあった」
「何って、一号室は一号室でしょ」
「自分で替えたのか」
「私じゃない。父さん」
ミレナは首をひねった。
「そんなのが関係あるの?」
「あるかもしれない」
「かも、ばっかり」
「夜はそういうもんだ」
リュカは三号室の扉を閉め、鍵を抜いた。
「ここは今夜、誰も入るな」
「わかってる」
「俺が言うまでは、鍵も渡すな」
「そこまで?」
「そこまでだ」
ミレナはしぶしぶうなずいた。鍵を受け取り、腰の紐に結ぶ。
その指の動きは素直ではなかったが、乱暴でもなかった。言われたことは守るつもりらしい。
下へ戻ると、客たちは囲炉裏のそばに寄っていた。
誰も上を見ないようにしているのがわかった。人は、怖い場所ほど目を向けたくなくなる。
リュカは卓を指で叩いた。
「聞け」
客たちが顔を上げる。
「今夜はここで夜を越す。眠るなら椅子に座ったまま寝ろ」
客たちの視線が、二階へ逃げかける。
「上がるな。呼ばれても返事するな」
リュカは朝食札を指した。
「誰かの声がしても、先にミレナか俺を起こせ」
「誰かの声って、まさか死人の声まで聞かされるのかい」
年かさの女が言いかける。
「その話は朝まで待て」
リュカが遮る。
「朝まで生きてたら聞け」
「迎えられなかったら?」
荷馬車引きの若者が、笑うふりで聞いた。声は乾いていた。
「その時は、もう聞いても仕方ない」
若者は口をつぐんだ。
ヤンだけが、拳を握ったまま動かない。
「ロアが戻る可能性は?」
「戻る可能性はある」
「どれくらい」
「今夜次第だ」
「曖昧だな」
「はっきりしてる夜なんて滅多にない」
ヤンは舌打ちした。だが、それ以上は言わない。
火が落ち着いてくると、宿の音がはっきりしてきた。
雨だれ。梁のきしみ。鍋蓋の震え。遠くで鳴く夜鳥。玄関脇の鈴。階段の軋み。
階段の軋み。
リュカが顔を上げる。客は誰も動いていない。ミレナも宿帳のそばにいる。
軋みは、上から一段ずつ下りてくる音ではなかった。
踊り場の一点だけが、重みを受けてきしむ音だ。乗ったまま、そこから動かない。
「ミレナ」
「聞こえた」
彼女はもう水差しを置いていた。顔色がよくない。
二人で階段を見る。踊り場の水鉢の表面に、細い輪が広がっていた。
風の揺れではない。下から上へも、上から下へも動かない。ただ、真ん中から波が立つ。
リュカは囲炉裏の脇に置いていた紙を一枚つかみ、炭で短く書いた。
踊り場。二つ目。
それを宿帳の横の板に貼る。
「何してるの」
ミレナが小声で聞く。
「順番を見てる」
「何の」
「この宿で朝が回ってくる順番だ」
ミレナはぞっとした顔をした。
「……そういう言い方、やめてくれない」
「やめても来るものは来る」
リュカは踊り場へ上がり、紐の張りを確かめた。
少しだけ弛んでいる。踏まれてはいない。
だが、一瞬だけ上から重みがのしかかった跡がある。
床板に手を置くと、冷たかった。ここだけ外気が吹き抜けているような冷たさだ。
彼は二歩上がり、三号室の前まで行った。
鴨居の鈴は鳴っていない。水鉢も静かだ。扉の下の隙間から、灯りは漏れてこない。
だが、扉板の向こうはただ暗いわけではなかった。
暗い部屋というより、向こうに曇った明るさがある。雨の朝の空をそのまま押し込めたような、輪郭を持たない白さ。
リュカは扉から手を離した。
「下がれ」
階下の客たちに言う。
「今からは、誰の声がしても上を見るな」
「お、おい」
ヤンが立ち上がる。
「ロアの声でもか」
「特にそうだ」
「どうして」
「引っ張られる」
「何に?」
「欠けた朝に?」
ヤンは意味がわからないまま、しかし本能で嫌なものを感じたらしい。椅子の背を握りしめ、座り直した。
その時、三号室の中で、何かが擦れた。
布だ。床を引く、湿った布の音。
ミレナが息を呑む。
音は一度きりで終わらない。
寝台のそばから扉へ、ゆっくり近づいてくる。
誰かが、立てずに這ってくる音だ。
ヤンが顔を上げた。
「……ロア?」
返事はすぐにはなかった。
代わりに、扉の向こうで、何かが木板に手をついた。乾いた音。指が一本、また一本と当たる音。五つ。人の手だ。
そして、かすれた声がした。
「……ヤン」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
ヤンが椅子を蹴って立ち上がる。ミレナも同時に動いた。リュカは階段の途中から振り返り、短く言う。
「動くな」
「ロアだ!」
「まだだ」
「まだって何だ、今――」
扉板の向こうで、声がまたした。前より近い。喉の潰れたような、乾いた声。
「寒い……開けろ……」
ヤンの顔から血の気が引く。彼は半歩、階段へ踏み出しかけた。
リュカは一段下りて、その前に立った。
「戻れ」
「ふざけるな、聞こえただろ!」
「聞こえた」
「なら――」
「聞こえたから止めてる」
声は今度、扉ではなく床板の下から響いた。
「水……」
ミレナが無意識に腰の鍵へ手をやる。
リュカはそれを見た。
「触るな」
「でも」
「まだ早い」
「中にいるなら――」
「今開けたら、おまえが中へ行く」
ミレナの指が止まる。だが、止まっただけだ。離れはしない。
扉の向こうで、また手が鳴る。今度は爪が引っかく音も混じった。
客たちの顔はみな青くなっていた。
年かさの女は祈りの文句を低く唱え始め、商人はまた口髭を噛んだ。若者は椅子から立てない。
「ロア!」
ヤンが叫ぶ。
「そこにいるのか!」
リュカが振り向く。
「名を呼ぶな!」
怒鳴り声に、宿じゅうが息を止めたように静まった。
「一つ投げるたび、向こうが近づく」
ヤンは歯を食いしばった。
「じゃあどうしろってんだ!」
「待て」
「何を!」
「札が揃うまでだ」
その言葉の意味が、次の瞬間、形になった。
札の枠に掛けた朝食札が、かた、と鳴る。
玄関脇の鈴が一度だけ下へ引かれる。
踊り場の水鉢の波が消える。
そして、三号室の前の水鉢だけが、縁から一滴もこぼさず、表面だけ白く曇った。
リュカの目が細くなる。
「来る」
「何が」
ミレナが聞くより先に、三号室の扉の下から、白いものが細く漏れた。
霧ではない。朝の光だ。まだ夜の宿の中で、そこだけが雨上がりの朝みたいに白い。
扉板の向こうで、誰かが重い体を引きずる。今度ははっきり聞こえた。
人が倒れている音だ。木が鳴り、肩が当たり、息が漏れる。
「……助けてくれ」
男の声だった。ロアかどうかはわからない。だが、苦しんでいる人間の声だとだけは、わかってしまう。
宿を回す人間には、そういう声がいちばんまずい。
「ミレナ」
リュカが低く呼ぶ。
「鍵から手を離せ」
「中にいる」
「いる」
「生きてる」
「そうかもしれない」
「じゃあ――」
「まだ宿の部屋に戻ってない。向こうにつながったままだ」
ミレナは唇を噛んだ。目が怒っている。恐怖ではなく、見捨てる形になることへの怒りだ。
「そんなの、宿の人間には同じじゃないの」
「違う」
「違わない。うちの客が、うちの部屋の向こうで助けを呼んでる」
「それで飛び込むと、次の札がおまえになる」
ミレナの喉が動く。だが、その目はまだ折れていない。
扉の向こうで、また声がした。今度はさっきより若く、はっきりしている。
「ミレナ……」
彼女の肩が跳ねた。
「いまの」
「答えるな」
「ロアじゃない」
「知ってる」
「じゃあ誰」
返事の代わりに、三号室の扉が内側からゆっくり鳴った。
閂はしていないはずなのに、引くでも押すでもなく、木そのものが息をするように膨らんで縮む。
「ミレナ、水をくれ……」
今度は、父親の声だった。
階下の奥で寝ているはずの、怪我をした父の、かすれた声。
ミレナが一歩、階段を上る。
「だめだ」
リュカが言う。
「それは中の誰かの声じゃない」
「でも」
「でもじゃない」
「父さんの声だった!」
「知ってる」
「だったら――」
「だから止めてる!」
珍しく、リュカの声も荒れた。
だが、扉の向こうから続けて来た咳の音のほうが、ミレナには強かったらしい。
怪我をしてから父がよくする、胸の奥に引っかかる咳だ。
誰でも真似できる類いのものではない。
ミレナの指先が震える。
止まれと言われた意味はわかっていた。
けれど、父の咳を聞いた瞬間、頭より先に体が動いた。
彼女は腰の紐を引き、鍵を外した。
リュカが腕を伸ばす。
その瞬間、階下のヤンが叫んだ。
「ロア!」
扉の隙間、足元の白い明かりの向こうに、何かが見えたのだろう。
男の影がひとつ、床に伏せていた。肩口だけが扉の前まで来ている。
濡れた外套。羊商人の荷に染みついた匂い。
ヤンは椅子を蹴って階段を駆け上がる。
「止まれ!」
リュカが振り向き、ヤンを押し返す。その半拍のあいだに、ミレナの鍵が錠に入った。
乾いた音がした。細い、だが逃げ場のない音だ。
「ミレナ!」
扉が開く。
中は暗い空き部屋ではなかった。
白く曇った朝だった。
敷居のすぐ向こうに薄く水が張っている。そこへ朝の色だけが先に溜まっている。
視線を上げると、寝台の足元に今はないはずの太い木柱が立っていた。
古い関所の柱だ。
その先の壁は三号室よりわずかに角度がずれている。窓も、あるはずの位置から外れている。
見慣れた三号室のはずなのに、どこも少しずつ噛み合わない。
その水の向こうに、男が倒れていた。
ロアだった。顔色は悪いが、生きている。
指が動いた。
「ロア!」
ミレナが扉を押し広げる。
「戻れ!」
リュカが掴んだのは、彼女の袖だった。
だが濡れた布は指からすべり、抜けた。
宿の娘は、考えるより先に体が出る。
迷っている間に客が死ぬ場所で働いてきた。そういう足だ。
彼女は一歩で敷居を越え、二歩でロアの肩へ手を伸ばした。
その瞬間、扉の内側から朝の冷気が吹いた。
紙が舞う。
鈴が鳴る。
朝食札が一斉に裏返る。
リュカは反射で扉板に手を打ちつけたが、遅い。
三号室の向こうの白い朝が、布を引くみたいに縮む。
「ミレナ!」
彼女は振り向いた。確かにそこにいた。肩まで。腕まで。口も動いた。
「大丈夫、引っ張れ――」
最後まで聞こえなかった。
扉が閉まる。
鈍い音だった。勢いよくではない。
誰かが向こうから、静かに押し戻した音だ。
閉じたというより、朝のほうが扉を引き取ったような音だった。
宿の中が、音を失う。
ヤンが呆然と立ち尽くす。階下の客たちも声を出せない。
囲炉裏の火だけが、小さく燃えていた。
リュカは扉に手を当てた。
冷たい。さっきまでの白い明かりも、もう漏れていない。
その代わり、木板の向こうから、かすかな水音がした。
足首まで浸かる浅い水を、人が一歩だけ踏む音。
ひとつ。
そして、ミレナの声。
「……リュカ?」
すぐそばから聞こえるのに、手の届かない距離だった。リュカは目を閉じ、短く息を吐いた。
「……くそ」
低く吐き捨てて、リュカは腰の鞄へ手を入れた。
いままで一度も開けなかった、底の平たい木箱へ。




