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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
2/33

第一話 呪われた宿の消えた朝(2)

 ミレナが戻ってきた。炭のほかに、宿帳のそばで使う小さな板と、使いかけの紙束まで抱えている。息が上がっていた。


「これで足りる?」


「紐と釘は?」


「荷札に使う紐ならある。釘もある」


「そんなに使うの?」


「使う」


「宿が壊れたら請求するから」


「宿が残ったら払え」


 リュカは受け取った紙を卓に広げ、炭で短く書いた。字は早いが雑ではない。

 角をそろえ、余白も残す。ミレナは横からのぞき込み、やがて眉を上げた。


「……何これ」


「夜明けまでの決まりだ」


 紙には五行だけ、簡単な文が並んだ。


 一、今夜は二階へ上がるな。

 二、名を呼ばれても、ひとりで返事をするな。

 三、朝食札に触るな。

 四、扉の前の水鉢を倒すな。

 五、鐘が二度鳴ったら宿帳の台へ集まれ。


「名を呼ばれてもって……何それ」


「あとでわかる」


「わかりたくないんだけど」


「そういうのは、大体、知りたくない時にわかる」


 リュカは紙を宿帳の横へ貼り、次に帳面を開いた。墨の乾き具合を指先で確かめる。


「今いる客の名を、声に出して読め」


「今?」


「今だ」


 ミレナは渋い顔をした。だが、帳面を持って囲炉裏の前へ出た。

 客たちはまだ事情がのみ込めていない。四号室で一緒に寝ていた男は、椅子に浅く腰かけ、両手で膝を押さえていた。

 年かさの女は荷を抱えたまま口を結び、荷馬車引きらしい若者は泥の乾いた袖口を握っている。

 峠越えの商人は濡れた口髭を噛んでいた。どれも疲れた顔だったが、眠気より不安のほうが勝っている。


「聞いて」


 ミレナが言う。


「今夜は、みんな下で休んでもらう。部屋には戻さない。異論があるなら今言って」


「あるに決まってるだろ」


 最初に声を上げたのは、四号室の男だった。赤い鼻をしている。さっきから落ち着きなく足を揺らしている。


「俺は上に荷を置いたままだぞ」


「朝まで触るな」


 リュカが言う。


「何でだ」


「動かすと札だけ先に走る」


「札?」


「客はまだ部屋にいるのに、札だけ先に『出た』扱いになる」


「意味がわからん」


「わからなくていい。守れ」


 男は露骨に顔をしかめた。


「おい、宿の娘。こんな得体の知れない流れ者の言うことを聞くのか」


「今夜だけは聞く」


 ミレナの返事は早かった。


「じゃないと、あんたも消えるかもしれない」


 囲炉裏の火が、小さく鳴った。誰も笑わない。

 リュカは札の枠から朝食札を持ってきて、卓の上に並べた。

 ひとつひとつ、角の欠けや墨のにじみが違う。札は七枚ある。

 客は、消えた男を入れれば六人。宿の者を入れて七。数だけ見れば合う。だが、一枚だけ裏返っている。


「ミレナ」


「何」


「消えた客の名は?」


「……ロアだ」


「姓は?」


「ロア・フェン。峠の向こうの羊商人だって言ってた」


「書け」


 ミレナは別紙に名を書いた。リュカはその紙を、空いていた朝食札の裏に細い紐で結わえつける。


「何してる」


 四号室の男が言う。


「足りない分を揃えてる」


「だから意味が」


「お前の名は?」


「……ヤンだ」


「姓は?」


「ヤン・バルクだ」


 言わされていると気づいたのか、ヤンの眉間にしわが寄った。


「ロアと一緒だったな」


「そうだ」


「なら、こっちを見ろ。今から先、ロアの声がしても動くな」


 ヤンの顔つきが変わった。


「何?」


「ロアの声が聞こえるかもしれない」


「生きてるのか」


「知らん」


「知らんってお前――」


 リュカは朝食札を卓に置いた。


「まだ死んでない。しくじると、もう一人だ」


 囲炉裏の向こうで、年かさの女が荷を抱えたまま小さく息をのんだ。

 荷馬車引きの若者は無意識に胸元の護符を握り、商人は口髭を噛んだ。宿の空気がぴんと張る。


 ミレナはその張りを切るように、わざと大きな声を出した。


「名を呼ぶわよ。返事して」


 彼女は帳面を読み上げ、一人ずつ名を確かめた。

 声に出すたび、リュカは対応する札を卓の上に立てる。客が返事をする。札が並ぶ。名と顔と木の札が揃う。

 単純な作業だった。だが、ひとつずつ揃うたびに場のざわつきが薄れていく。手順があるだけで、人は少し落ち着ける。

 最後に、ミレナが自分の名を言った。


「ミレナ・アシュ」


 札が一枚、残る。


 ロアの分だ。


 リュカはそれを札の枠に掛けた。裏返った札の隣。二枚が並ぶ。


「俺のは?」


 ミレナが言う。


「おまえは朝まで起きてる」


「そうじゃなくて、札」


「いらない」


「何で?」


「俺は数に入れない」


「ずるくない?」


「そのほうが早い」


 ミレナは鼻で笑いかけ、途中でやめた。笑うほど気楽な夜ではなかった。


 そのあと、二人は宿の中を動き回った。

 水鉢を三つ。浅い木皿を二つ。麻紐。細釘。札の枠の鈴。厨房の塩。囲炉裏の灰。

 旅籠にあるもので、今夜をしのぐ支度をした。


 玄関脇に水鉢。

 階段の踊り場に水鉢。

 三号室の前に水鉢。


 札の枠から階段下まで、麻紐を一本、床すれすれに張る。踊り場にも一本張る。

 三号室の鴨居には鈴。四号室の扉の前には灰を薄く撒く。

 見えないものを止めるためじゃない。何か通ったら、すぐわかるようにするためだ。


 作業の手際を見て、ミレナが言った。


「あんた、旅人っていうより、倒れかけの倉を立て直しに来た人みたい」


「大差ない」


「あるわよ」


「そうか」


「もうちょっと否定しなさいよ」


 リュカは答えず、三号室の前にしゃがみこんだ。扉板に耳を当てる。

 内側は静かだ。使っていない部屋の静けさではない。板一枚向こうで息をひそめている静けさだ。

 音が、湿った布を何枚も重ねた奥へ吸い込まれていく。


「鍵」


 ミレナが黙って差し出す。

 三号室の鍵は、小さな鉄鍵だった。

 他の客室の鍵より少しだけ古く、柄の輪が摩耗している。差し込むと、乾いた音が返った。


「開けるの」


「見るだけだ」


「見て、何かわかる?」


「足跡くらいは?」


「部屋、空よ。何度も見たんだから」


「それでも見る」


 鍵が回る。扉を押すと、きしまずに開いた。

 部屋は狭い。寝台が一つ。壁際に小机。

 窓は閉まっている。雨戸の隙間から、外の霧の白さだけが細く入ってくる。


 布団は畳まれ、上に薄く埃がのっていた。だが、埃は均一ではない。

 床板の中央、寝台から扉へ続く細い一筋だけ、わずかに色が違う。

 人が踏んだ跡ではない。もっと古い、もっと何度も繰り返されたすり減り方だ。

 リュカは測量杖の先で床を軽く叩いた。


 一度。

 二度。

 三度。


 三度目だけ、音が違った。板の下に空洞ではなく、角の立った石がある音だ。


「……やっぱりか」


 彼は部屋の中に一歩入り、鴨居を見上げた。部屋札の木片が外されて久しい跡がある。


 だが、それより上に、もっと古い穴が二つ残っていた。

 横に並んだ、小さな金具穴。札を掛ける位置ではない。


「何」


 扉口からミレナが聞く。


「昔、ここに別のものが掛かってた」


「別のものって?」


「数える板か、通行印か、その手の類いだ」


「関所の名残?」


「たぶんな」


 リュカは扉の表に戻り、向かいの一号室を見た。部屋札は新しい木だ。

 色が浅く、釘も他と違う。二号、四号は黒ずんだ古い札なのに、一号だけが浮いて見える。


「一号室の札、いつ替えた」


「え?」


「一号室の部屋札だ」


「ああ……去年。割れたから」


 ミレナはそこで、古い札の形を思い出そうとするように目を細めた。


「その前は?」


「前って、前の札のことか?」


「何て書いてあった」


「何って、一号室は一号室でしょ」


「自分で替えたのか」


「私じゃない。父さん」


 ミレナは首をひねった。


「そんなのが関係あるの?」


「あるかもしれない」


「かも、ばっかり」


「夜はそういうもんだ」


 リュカは三号室の扉を閉め、鍵を抜いた。


「ここは今夜、誰も入るな」


「わかってる」


「俺が言うまでは、鍵も渡すな」


「そこまで?」


「そこまでだ」


 ミレナはしぶしぶうなずいた。鍵を受け取り、腰の紐に結ぶ。

 その指の動きは素直ではなかったが、乱暴でもなかった。言われたことは守るつもりらしい。


 下へ戻ると、客たちは囲炉裏のそばに寄っていた。

 誰も上を見ないようにしているのがわかった。人は、怖い場所ほど目を向けたくなくなる。


 リュカは卓を指で叩いた。


「聞け」


 客たちが顔を上げる。


「今夜はここで夜を越す。眠るなら椅子に座ったまま寝ろ」


 客たちの視線が、二階へ逃げかける。


「上がるな。呼ばれても返事するな」


 リュカは朝食札を指した。


「誰かの声がしても、先にミレナか俺を起こせ」


「誰かの声って、まさか死人の声まで聞かされるのかい」


 年かさの女が言いかける。


「その話は朝まで待て」


 リュカが遮る。


「朝まで生きてたら聞け」


「迎えられなかったら?」


 荷馬車引きの若者が、笑うふりで聞いた。声は乾いていた。


「その時は、もう聞いても仕方ない」


 若者は口をつぐんだ。

 ヤンだけが、拳を握ったまま動かない。


「ロアが戻る可能性は?」


「戻る可能性はある」


「どれくらい」


「今夜次第だ」


「曖昧だな」


「はっきりしてる夜なんて滅多にない」


 ヤンは舌打ちした。だが、それ以上は言わない。


 火が落ち着いてくると、宿の音がはっきりしてきた。

 雨だれ。梁のきしみ。鍋蓋の震え。遠くで鳴く夜鳥。玄関脇の鈴。階段の軋み。

 階段の軋み。

 リュカが顔を上げる。客は誰も動いていない。ミレナも宿帳のそばにいる。

 軋みは、上から一段ずつ下りてくる音ではなかった。

 踊り場の一点だけが、重みを受けてきしむ音だ。乗ったまま、そこから動かない。


「ミレナ」


「聞こえた」


 彼女はもう水差しを置いていた。顔色がよくない。


 二人で階段を見る。踊り場の水鉢の表面に、細い輪が広がっていた。

 風の揺れではない。下から上へも、上から下へも動かない。ただ、真ん中から波が立つ。


 リュカは囲炉裏の脇に置いていた紙を一枚つかみ、炭で短く書いた。


 踊り場。二つ目。

 それを宿帳の横の板に貼る。


「何してるの」


 ミレナが小声で聞く。


「順番を見てる」


「何の」


「この宿で朝が回ってくる順番だ」


 ミレナはぞっとした顔をした。


「……そういう言い方、やめてくれない」


「やめても来るものは来る」


 リュカは踊り場へ上がり、紐の張りを確かめた。

 少しだけ弛んでいる。踏まれてはいない。

 だが、一瞬だけ上から重みがのしかかった跡がある。

 床板に手を置くと、冷たかった。ここだけ外気が吹き抜けているような冷たさだ。

 彼は二歩上がり、三号室の前まで行った。

 鴨居の鈴は鳴っていない。水鉢も静かだ。扉の下の隙間から、灯りは漏れてこない。


 だが、扉板の向こうはただ暗いわけではなかった。

 暗い部屋というより、向こうに曇った明るさがある。雨の朝の空をそのまま押し込めたような、輪郭を持たない白さ。

 リュカは扉から手を離した。


「下がれ」


 階下の客たちに言う。


「今からは、誰の声がしても上を見るな」


「お、おい」


 ヤンが立ち上がる。


「ロアの声でもか」


「特にそうだ」


「どうして」


「引っ張られる」


「何に?」


「欠けた朝に?」


 ヤンは意味がわからないまま、しかし本能で嫌なものを感じたらしい。椅子の背を握りしめ、座り直した。

 その時、三号室の中で、何かが擦れた。

 布だ。床を引く、湿った布の音。


 ミレナが息を呑む。

 音は一度きりで終わらない。

 寝台のそばから扉へ、ゆっくり近づいてくる。

 誰かが、立てずに這ってくる音だ。

 ヤンが顔を上げた。


「……ロア?」


 返事はすぐにはなかった。

 代わりに、扉の向こうで、何かが木板に手をついた。乾いた音。指が一本、また一本と当たる音。五つ。人の手だ。

 そして、かすれた声がした。


「……ヤン」


 囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。

 ヤンが椅子を蹴って立ち上がる。ミレナも同時に動いた。リュカは階段の途中から振り返り、短く言う。


「動くな」


「ロアだ!」


「まだだ」


「まだって何だ、今――」


 扉板の向こうで、声がまたした。前より近い。喉の潰れたような、乾いた声。


「寒い……開けろ……」


 ヤンの顔から血の気が引く。彼は半歩、階段へ踏み出しかけた。

 リュカは一段下りて、その前に立った。


「戻れ」


「ふざけるな、聞こえただろ!」


「聞こえた」


「なら――」


「聞こえたから止めてる」


 声は今度、扉ではなく床板の下から響いた。


「水……」


 ミレナが無意識に腰の鍵へ手をやる。

 リュカはそれを見た。


「触るな」


「でも」


「まだ早い」


「中にいるなら――」


「今開けたら、おまえが中へ行く」


 ミレナの指が止まる。だが、止まっただけだ。離れはしない。

 扉の向こうで、また手が鳴る。今度は爪が引っかく音も混じった。

 客たちの顔はみな青くなっていた。

 年かさの女は祈りの文句を低く唱え始め、商人はまた口髭を噛んだ。若者は椅子から立てない。


「ロア!」


 ヤンが叫ぶ。


「そこにいるのか!」


 リュカが振り向く。


「名を呼ぶな!」


 怒鳴り声に、宿じゅうが息を止めたように静まった。


「一つ投げるたび、向こうが近づく」


 ヤンは歯を食いしばった。


「じゃあどうしろってんだ!」


「待て」


「何を!」


「札が揃うまでだ」


 その言葉の意味が、次の瞬間、形になった。

 札の枠に掛けた朝食札が、かた、と鳴る。

 玄関脇の鈴が一度だけ下へ引かれる。

 踊り場の水鉢の波が消える。

 そして、三号室の前の水鉢だけが、縁から一滴もこぼさず、表面だけ白く曇った。

 リュカの目が細くなる。


「来る」


「何が」


 ミレナが聞くより先に、三号室の扉の下から、白いものが細く漏れた。

 霧ではない。朝の光だ。まだ夜の宿の中で、そこだけが雨上がりの朝みたいに白い。

 扉板の向こうで、誰かが重い体を引きずる。今度ははっきり聞こえた。

 人が倒れている音だ。木が鳴り、肩が当たり、息が漏れる。


「……助けてくれ」


 男の声だった。ロアかどうかはわからない。だが、苦しんでいる人間の声だとだけは、わかってしまう。

 宿を回す人間には、そういう声がいちばんまずい。


「ミレナ」


 リュカが低く呼ぶ。


「鍵から手を離せ」


「中にいる」


「いる」


「生きてる」


「そうかもしれない」


「じゃあ――」


「まだ宿の部屋に戻ってない。向こうにつながったままだ」


 ミレナは唇を噛んだ。目が怒っている。恐怖ではなく、見捨てる形になることへの怒りだ。


「そんなの、宿の人間には同じじゃないの」


「違う」


「違わない。うちの客が、うちの部屋の向こうで助けを呼んでる」


「それで飛び込むと、次の札がおまえになる」


 ミレナの喉が動く。だが、その目はまだ折れていない。

 扉の向こうで、また声がした。今度はさっきより若く、はっきりしている。


「ミレナ……」


 彼女の肩が跳ねた。


「いまの」


「答えるな」


「ロアじゃない」


「知ってる」


「じゃあ誰」


 返事の代わりに、三号室の扉が内側からゆっくり鳴った。

 閂はしていないはずなのに、引くでも押すでもなく、木そのものが息をするように膨らんで縮む。


「ミレナ、水をくれ……」


 今度は、父親の声だった。

 階下の奥で寝ているはずの、怪我をした父の、かすれた声。

 ミレナが一歩、階段を上る。


「だめだ」


 リュカが言う。


「それは中の誰かの声じゃない」


「でも」


「でもじゃない」


「父さんの声だった!」


「知ってる」


「だったら――」


「だから止めてる!」


 珍しく、リュカの声も荒れた。

 だが、扉の向こうから続けて来た咳の音のほうが、ミレナには強かったらしい。

 怪我をしてから父がよくする、胸の奥に引っかかる咳だ。

 誰でも真似できる類いのものではない。


 ミレナの指先が震える。

 止まれと言われた意味はわかっていた。

 けれど、父の咳を聞いた瞬間、頭より先に体が動いた。

 彼女は腰の紐を引き、鍵を外した。

 リュカが腕を伸ばす。

 その瞬間、階下のヤンが叫んだ。


「ロア!」


 扉の隙間、足元の白い明かりの向こうに、何かが見えたのだろう。

 男の影がひとつ、床に伏せていた。肩口だけが扉の前まで来ている。

 濡れた外套。羊商人の荷に染みついた匂い。

 ヤンは椅子を蹴って階段を駆け上がる。


「止まれ!」


 リュカが振り向き、ヤンを押し返す。その半拍のあいだに、ミレナの鍵が錠に入った。

 乾いた音がした。細い、だが逃げ場のない音だ。


「ミレナ!」


 扉が開く。

 中は暗い空き部屋ではなかった。

 白く曇った朝だった。

 敷居のすぐ向こうに薄く水が張っている。そこへ朝の色だけが先に溜まっている。


 視線を上げると、寝台の足元に今はないはずの太い木柱が立っていた。

 古い関所の柱だ。

 その先の壁は三号室よりわずかに角度がずれている。窓も、あるはずの位置から外れている。

 見慣れた三号室のはずなのに、どこも少しずつ噛み合わない。


 その水の向こうに、男が倒れていた。

 ロアだった。顔色は悪いが、生きている。

 指が動いた。


「ロア!」


 ミレナが扉を押し広げる。


「戻れ!」


 リュカが掴んだのは、彼女の袖だった。

 だが濡れた布は指からすべり、抜けた。

 宿の娘は、考えるより先に体が出る。

 迷っている間に客が死ぬ場所で働いてきた。そういう足だ。

 彼女は一歩で敷居を越え、二歩でロアの肩へ手を伸ばした。

 その瞬間、扉の内側から朝の冷気が吹いた。


 紙が舞う。

 鈴が鳴る。

 朝食札が一斉に裏返る。


 リュカは反射で扉板に手を打ちつけたが、遅い。


 三号室の向こうの白い朝が、布を引くみたいに縮む。


「ミレナ!」


 彼女は振り向いた。確かにそこにいた。肩まで。腕まで。口も動いた。


「大丈夫、引っ張れ――」


 最後まで聞こえなかった。

 扉が閉まる。

 鈍い音だった。勢いよくではない。

 誰かが向こうから、静かに押し戻した音だ。

 閉じたというより、朝のほうが扉を引き取ったような音だった。


 宿の中が、音を失う。

 ヤンが呆然と立ち尽くす。階下の客たちも声を出せない。

 囲炉裏の火だけが、小さく燃えていた。


 リュカは扉に手を当てた。

 冷たい。さっきまでの白い明かりも、もう漏れていない。


 その代わり、木板の向こうから、かすかな水音がした。

 足首まで浸かる浅い水を、人が一歩だけ踏む音。


 ひとつ。

 そして、ミレナの声。


「……リュカ?」


 すぐそばから聞こえるのに、手の届かない距離だった。リュカは目を閉じ、短く息を吐いた。


「……くそ」


 低く吐き捨てて、リュカは腰の鞄へ手を入れた。

 いままで一度も開けなかった、底の平たい木箱へ。


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