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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
1/33

第一話 呪われた宿の消えた朝(1)

 結論から言う。

 この宿に足りないのは客じゃない。朝が一つ欠けてる。


 宿が壊れる時、先に余るのは朝餉の膳だ。夜のうちに消えた客より、冷えた粥のほうが先に帳面の狂いを知らせる。


 だからリュカは、宿へ入る前にまず皿を見る。


 山道の霧は、日が落ちると急に腰の高さまで降りてくる。

 道の両脇に立つ痩せた木が、白い息の向こうで一本ずつ消え、また現れた。


 荷馬車の轍は泥に半分埋まり、踏み石の角だけが濡れて光っている。街道と呼ぶには頼りない。

 だが、峠を越えるならここを通るしかない。古い関所の名残で、道幅だけは無駄に広い。


 その道を、灰色の外套を着た男がひとり歩いていた。

 背は高いが、歩き方に見栄えはない。

 足を前に出すたび、濡れた靴が泥を噛み、外套の裾が石に当たって重い音を立てた。


 肩には使い込まれた革鞄。杖の代わりに持っているのは、先が金具になった細い棒だった。

 畳めば荷に入るほどの長さしかない。旅人の杖というより、何かを測る道具に見えた。


 男――リュカは、道の先に見えた灯りを見て、ようやく足を止めた。


 宿だ。


 板壁は黒ずみ、屋根の端は風でめくれかけている。二階建てのくせに横幅が狭く、無理に階を重ねたように見えた。

 玄関脇には、消えかけた文字で《山鳩亭》と書かれた木札が吊られている。

 札の下には、雨で濡れた木皿が二枚、伏せたまま積まれていた。朝食用だ。

 客数より一枚多い。それだけで、だいたいわかった。


 リュカは宿の軒先まで来ると、壁に手をついた。

 腹が減っていた。昼から何も食べていない。

 右の脇腹も鈍く痛む。昨日、崩れた石垣を越える時に打った箇所だ。


 まともな術者なら温めるか、痛みを散らすくらいの処置はする。

 そうでなくても、旅用の簡単な火の魔術で靴くらいは乾かす。

 リュカは何もしなかった。

 軒下で一度だけ外套の水を払うと、そのまま戸を開けた。


 中は思ったより明るい。囲炉裏に火が入り、湯気と煮豆の匂いが立っている。

 板間は磨かれていたが、節目ごとに修繕の跡が見えた。

 宿帳の台には木札が何枚も並び、その奥で娘がひとり、帳面とにらみ合っていた。

 黒髪を後ろでまとめた娘は、扉が開く音に顔を上げると、客の顔より先に、靴と外套を見た。


「泊まり?」


「飯が先だ」


「質問に答えなさいよ」


「泊まれれば泊まる」


 娘の視線が、リュカの革鞄へ落ちた。


「金はあるの」


「少ない」


「少ないってどのくらい」


「宿の主人が顔をしかめるくらい」


 娘は眉を寄せた。帳面を閉じる音が妙に大きい。


「うちは施し小屋じゃないの。峠を越えてきたからって、誰でもかんでも――」


「結論から言う」


 リュカは宿帳の台に立てかけてあった朝食札を一枚つまみ上げた。角が欠け、裏に赤い筋が引いてある。


「この宿に足りないのは客じゃない。朝が一つ欠けてる」


 娘は一拍おいて、目を細めた。


「喧嘩売ってる?」


「いや」


「うちの朝飯がまずいって言いたいなら帰って。食べてもないでしょ」


「飯はうまそうだ。悪いのは朝だ」


「同じよ、それ」


 娘は台から身を乗り出したが、その目は怒りだけではなかった。

 戸口に立つ濡れ鼠の旅人を、追い返すべきかどうか見定めている目だ。

 峠の宿は、客を選びすぎれば潰れる。選ばなければ、もっと早く潰れる。


「……何者?」


「旅人」


「見たらわかる」


「それ以外は、飯のあとだ」


「全然足りない」


 リュカは答えず、板間を見回した。


 囲炉裏。宿帳の台。廊下。階段。奥の厨房。壁に掛かった鍵。

 客室札。干し草のついた荷運び用の木箱。娘が使ったばかりらしい濡れた布巾。

 台の角に寄せられた朝食札は七枚ある。だが今日の客の名は、帳面の開き具合から見て五人分しか記されていない。


 札が多い。

 それも、一枚だけ裏返っていた。


「宿の主人は?」


「父さんは寝てる」


「病気か」


「怪我。ふた月前に足場から落ちたの。今は私が回してる」


 言いながら、ミレナは奥の戸口を一度だけ見た。眠っている父を守る目だった。


「なるほど」


「何がなるほどよ」


「飯を出す手が一人足りない」


「だから?」


「だから記帳が荒れる」


 娘の顔つきが変わった。怒っていた時より、少しだけ警戒が深くなる。


「……あんた、何を見てそう言ってるの」


「鍋の火」


 リュカは囲炉裏の脇に置かれた鍋を顎で示した。


「煮返しが一度多い。汁が減りすぎてる」


 ミレナの目が、囲炉裏の鍋へ落ちた。


「夕の客が思ったより長居した。頃合いを見ながら火を弱めたな」


「……」


「宿帳の墨も乾ききってない」


 リュカは朝食札を指で一枚ずらした。


「札は七枚。帳面は五人分。途中で書き直した跡もある」


 ミレナの肩が、ほんの少し固くなる。


「厨房と記帳を一人で回した。どこかで数が飛んだ」


「…………」


「今夜の飯はうまい。明日の朝も一膳余る」


 娘は言葉を失ったらしい。少し口を開けたまま、リュカと朝食札を見比べた。

 囲炉裏の火がぱちりと爆ぜる。奥の鍋が小さく鳴った。


「……誰かに聞いた?」


「この宿の話か」


「この宿の話」


「そんな話を聞く相手もいないまま山を下りてきた」


 濡れた外套の裾から、床へ水が落ちた。


「嘘」


「疲れてるだけだ」


「旅人がいきなり朝食の数を言い当てるわけないでしょ」


「言い当てたんじゃない。見ればだいたいわかる」


「そんなの、見ただけでそこまでわかる?」


 娘は腕を組み、じっとこちらを見た。追い返すより先に確かめたいことができたらしい。


「名前は?」


「リュカだ」


「苗字は?」


「長いこと名乗ってない」


「そう」


「そっちは?」


「ミレナ。ここの娘」


 言ってから、ミレナは顎で囲炉裏脇の卓を示した。


「座って。豆の煮込みと黒パンなら出せる。酒は薄いのしかない」


「酒はいらない」


「まだ泊めるとは言ってない」


「飯が出るなら、それでいい」


「変なの」


 ミレナは台の裏から出て、厨房へ引っ込んだ。足早だが、音は立てない。

 客商売の癖か、気が張っているのか。足取りには、もう疲れが出ていた。


 リュカは囲炉裏に近い席へ腰を下ろした。背もたれのない木椅子が軋む。

 温かさが外套の湿りを少しずつ追い出す。

 脇腹の痛みまでは消えない。鞄を足元に置き、測量杖を膝に立てた。


 その金具の先が、板間にごく薄く触れた。

 かすかな抵抗が返る。


 床板の下に、硬いものが走っている。石か、古い金属か。

 宿にしては不自然な筋だ。玄関から宿帳の台、そこから階段の下へ、きれいに一本つながっている。


 関所跡か。

 古い施設の骨が、床下にまだ残っている。


 ミレナが盆を持って戻ってきた。

 湯気の立つ豆煮込み、固い黒パン、塩を振っただけの根菜。峠宿の飯としては上等だ。


「ほら」


「助かる」


「先に言っとくけど、変な真似したら追い出すから」


「変な真似の基準は?」


「夜中に勝手に歩き回るとか、客の荷を漁るとか、壁に印を書きつけるとか」


 最後のひとつだけ、妙に具体的だった。


「最後のはよくあるのか」


「たまにいるのよ。呪いだ祓いだって、勝手に炭で線を引く連中」


「止まったか」


「何が」


「その祓い」


 ミレナは盆を置いたまま、少し黙った。


 さっきまでの鋭い調子が、ここで初めて鈍る。


「……止まってたら、こんなに客が減ってない」


 リュカはスプーンを手に取り、豆を一口すくった。温かい。塩が少しきついが、空腹にはちょうどいい。


「何が起きる」


「何がって?」


「この宿の朝だ」


 ミレナは向かいの席に座らず、卓の端に手をついたまま言った。


「消えるのよ」


「何が」


「客」


 厨房の火が、奥で低く鳴った。

 宿の中は暖かいのに、その一言だけが空気をすっと冷やした。


「死体は?」


「出ない」


「荷は?」


「残る時と残らない時がある」


 リュカは指先で卓を一度叩いた。


「部屋は?」


「閉まってる」


「窓は?」


「開かない。うちの二階の窓、外に張り出してるから、降りようとしたら落ちる」


 ミレナはそこで、ちらりと階段のほうを見た。


「見た者は?」


「いない」


「最後に会ったのは?」


「宿の者か、他の客か、その日による」


「頻度は?」


「月に一度あるかないか。でも、霧の夜に偏る」


 ミレナはそこまで言うと、ようやく向かいに腰を下ろした。囲炉裏の火が頬に赤く映る。


 年はリュカよりずっと下だろうが、目の下には薄い影がある。眠れていない顔だった。


「最初は、宿代を踏み倒されたんだと思ったわ」


 ミレナは囲炉裏の火を見ずに言った。


「でも、馬まで置いていった人がいた。荷も、剣も、外套も」


「厄介だな」


「厄介で済めばいいのよ」


「村の連中が何と言った」


「村ってほどじゃないの。街道沿いに家が散ってるだけ」


 ミレナは口元だけで笑った。


「みんな好きに言うわ。関所の亡霊だとか、閉じ損ねた門の祟りだとか」


「うちが何か隠してる、とかな」


「そう」


「術者は来たか」


「来た。二人とも町から」


 ミレナは指を二本立てた。


「ひとりは寝台の四隅に杭を打った。もうひとりは扉に銀粉を振った」


 その指が、ゆっくり下りる。


「どっちの夜も、消えた」


「なるほど」


「何がよ」


「魔術だけじゃ足りない」


「だから困ってるんでしょ」


「いや」


 リュカは黒パンを割った。中は思ったより柔らかい。


「そうじゃない。足りないのは、術の強さじゃない。見るところを間違えてる」


 ミレナは眉をひそめた。


「偉そう」


「疲れてるだけだ」


「便利な言葉ね、それ」


 リュカは返事をせず、食べながら宿の音を聞いた。


 二階の床板が一度鳴る。風ではない。客が寝返りを打った音だろう。

 厨房の奥で鍋蓋が揺れる。台の向こう、玄関脇の小さな鈴が、風もないのに一度だけ触れた。


 鈴を見る。

 揺れはもう止まっていた。


「今の音は?」


「何が?」


「鈴」


「玄関の? 風よ」


「扉は閉まってる」


「古い宿なの。どこからでも入る」


「そうか」


 だが風の入り方ではない、とリュカは思った。


 鈴は横には振れず、下へ小さく引かれた。誰かが見えない糸をつまんだみたいに。


 床下の筋。

 玄関、宿帳の台、階段下。

 その上に立つ鈴。

 あまりいい並びではない。


「今夜の客は何人だ」


「五人。あんたを入れたら六」


「部屋割りは?」


「二階に四。下に一。あと、倉庫横の小部屋を今片づけてる」


「三号室は?」


 ミレナの顔が止まった。


「……なんで三号室を知ってるの」


「階段の手前の鍵が一つだけ離して掛けてある。よく使う鍵じゃない置き方だ」


 ミレナの視線が、壁の鍵束へ走った。


「見ただけで?」


「それで、三号室は?」


「使ってない」


「閉めたのはいつだ」


「去年の秋から」


「何があった」


「一番最初に消えた客が、そこだったから」


 囲炉裏の火がまた鳴った。

 ミレナは拳を握りしめていた。指の節が白くなっている。

 怖いものに縮こまるより、納得のいかないものへ食ってかかる性分なのだろう。


「あの部屋は閉めたのよ」


「そのあと父さんが、床まで剥がして見た。でも何もなかった」


 ミレナは拳をほどかない。


「壁も、窓も、寝台も、そのまま。なのに次は、踊り場に寝てた商人が消えた」


「次は一階の端の部屋」


「場所が動いてるな」


「ねえ」


「何だ」


「あんた、本当にただの旅人?」


 リュカは手を止めた。


 豆の皿は半分空いた。温かいものが腹に落ちるたび、体の感覚が戻ってくる。

 そのぶん、床下を走る古い筋の気配もはっきりした。


「宿代が足りない旅人だ」


「それ以外」


「それ以上は高くつく」


「何それ」


 ミレナは鼻で笑った。だが少しだけ、肩の力が抜けたらしい。


「じゃあ安いところだけ聞く。あんた、この件、見られるの」


「見られるかどうかは今夜次第だ」


「見たら、わかる?」


「半分はわかる」


「残り半分は?」


「朝まで待たないと決まらない」


 ミレナはしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。


「……倉庫横の小部屋、まだ片づけてないけど、寝るだけなら使える。藁は新しいのに替える」


「助かる」


「まだ礼は言わなくていい。あんたに見せるために泊めるだけ」


「そうか」


「その代わり、逃げないでよ」


「逃げる気はない」


「あるでしょ。うち、呪われてるんだから」


 リュカは空になった皿を卓に置いた。


「呪われてるのは宿じゃない」


「じゃあ何よ」


「朝だ」


 ミレナは鼻にしわを寄せた。


「それ、さっきも聞いた」


「聞いたなら覚えておけ」


「言い方」


 言いながらも、彼女は台へ戻っていった。足取りはさっきより少しだけ軽い。

 苛立ちが消えたわけではない。それでも、目の前にいるのは何もできない旅人ではなくなった。


 リュカは最後のパンを口に入れ、立ち上がった。

 測量杖を持って、何気ない顔で囲炉裏の外を一歩、二歩と歩く。台の前。玄関脇。階段の下。

 そこで杖の先を、床板の継ぎ目に軽く当てた。

 乾いた板の下に、別の音がある。


 石だ。四角く削った、古い敷石。

 しかも一本ではない。三本。宿の骨組みとは違う向きで、床下を走っている。

 関所の敷居石か。いや、ただ人がまたぐ敷居とは違う。

 昔ここで、誰を通して、誰を止めるかを分けていた。その境に置かれた石だ。


 リュカは目を細めた。

 その時、二階で短い悲鳴が上がった。

 ミレナが顔を上げる。リュカはすでに階段へ向かっていた。

 上から駆け下りてきたのは、寝巻のままの若い男だった。顔色が悪い。片足にしか靴を履いていない。


「お、おかしいぞ!」


「何がですか!」


 ミレナが叫ぶ。


「さっきまでいたんだ、部屋に!」


 若い男は寝巻の胸元を握りしめた。


「隣の寝台で寝てた男が、今見たらいない! 窓も閉まってる、扉も――」


 男の声が震える。


「……扉も、内側から閂がかかったままだ」


 宿の空気が一気に冷えた。


 ミレナの顔から血の気が引く。

 だが彼女はすぐに台の奥へ手を伸ばし、壁の鍵束を掴んだ。慣れた動きだった。何度もやってきたのだろう。


「何号室」


「二階の、端の……四号だ」


「案内して」


 ミレナが走る。男が続く。

 リュカは階段の一段目で、いったん足を止めた。

 鈴が、また鳴った。今度は玄関ではない。

 台の裏。朝食札の掛かった木枠が、誰も触れていないのに、かすかに揺れた。

 札が一枚、裏返る。

 リュカはそれを見て、低く息を吐いた。


「……なるほど」


 そして階段を上がる。

 二階の廊下は狭い。板壁に油の匂いが染み、窓は小さい。

 四号室の前には、さっきの若い男とミレナが立っていた。扉は閉まっている。

 内側から閂がかかったままらしく、押しても引いてもびくともしない。


「中にいたのは二人か」


「え、ええ」


「名前は?」


「知らん、峠の手前で一緒になっただけだ」


「宿帳には書いてあります」


 ミレナが鍵を差し込みながら言う。だが閂は内側だ。鍵だけでは開かない。


「下がれ」


 リュカが扉板に手を当てる。冷たい。

 向こうに人の気配はない。だが、ただの空でもない。

 部屋の奥が、ほんの少しだけずれている。手を伸ばせば触れそうなのに、指先だけ届かない。

 嫌な感触だった。

 昔の傷口の縁を、布越しになぞられるような感触。


「壊しますか」


 ミレナが言う。


「まだだ」


「でも――」


 リュカは扉板から手を離した。


「人が消えてるんじゃない」


「じゃあ何だっていうの」


「客を動かしてるのは、朝食札だ」


「朝食札?」


「先に裏返すと、床下の関所跡がその客を『もう出た』と数える」


 リュカは裏返った札を見た。


「部屋にいても、朝の向こうへ通される」


 若い男は意味がわからないという顔をした。

 ミレナも同じだった。ただ、彼女は混乱しながらも、続きを待っていた。


「今夜、誰も部屋を変えるな」


「は?」


「朝食札は触るな。ひっくり返った札があっても、そのままにしておけ」


「何言って――」


「三号室は開けるな」


 ミレナの肩が揺れる。


「……なんで、三号室が出てくるの」


「この宿のずれは、三号室から始まってる」


「見てもないのに?」


「見てる」


 リュカは廊下の床を杖で一度だけ叩いた。

 鈍い音が返る。


「床の下に古い石が通ってる。関所跡だな」


 ミレナは目を見開いた。若い男は話についていけず、ただ扉とリュカを交互に見ている。


「今夜は俺が起きてる」


 リュカは言った。


「朝が来る前に、ずれた場所を見つける」


「……見つけたら?」


 ミレナの声は細い。だが逃げていない。

 リュカはその顔を見て、少しだけ目を伏せた。


「朝のずれを、ここで止める」


 それだけ言って、彼は四号室の前にしゃがみ込んだ。

 廊下の板目に指を当てる。冷えた木の隙間、その下の古い石、そのもっと奥。

 まだ夜なのに、ここだけ朝が浅く差しかかっている。

 その朝は、誰かを一人、先に連れていった。

 リュカは口の中で小さく舌打ちした。


 嫌いな類いの気配だった。力で押し潰せるものではない。術式の穴でもない。

 もっと古く、黙ったまま残る関所跡のずれだ。


 こういうずれは、人の手順に入りこむ。

 帳面の数をずらし、鍵の位置を狂わせる。

 気づけば朝飯の数まで欠けさせる。

 だから嫌いだ。嫌いだからこそ、放っておけない。


 リュカは立ち上がり、ミレナを見た。


「紙と炭を持ってこい」


「紙?」


「宿帳とは別のやつだ」


「何を書くの」


「朝まで越すための書きつけだ」


 ミレナは一瞬だけきょとんとしたあと、走った。

 若い男はまだ震えている。四号室の扉の向こうは静かなままだ。

 廊下の窓の外では、霧が二階の高さまで上がってきていた。

 夜はまだ深い。

 それでもこの宿のどこかでは、もう朝が始まっている。

 誰かを一人、先に連れていく朝が。


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