第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(7)
ガルドが怒鳴る。
普段なら止まる。
今夜は誰も止まらない。
綱を越えた者は、そのまま西へ向かった。
若い衆が灯籠を持って石積みへ下りる。
エドが鐘棚の布を剥ぐ。
綱の新しい繊維が、石に擦れて短く鳴る。
アイラが、東岸の起点札を握ったまま一歩だけ前へ出た。
「エド爺!」
「今年は東からでも送れる!」
「送れるだろうよ」
エドは振り向かず言った。
「だが、帰るかどうかは別だ」
東の石段でも、息を呑む音がした。
エドが古い鐘を鳴らす。
低い。
腹の底へ響く音だ。
派手な祭礼鐘じゃない。港の人間だけが振り向く音だった。
ごうん――
その一打ちで、海面の色が変わった。
西の水だけが、まだ黒いはずのところから薄く白み始める。
潮が引く音ではない。
海の下で、何か大きなものがずれたような音がした。
古い石積みの先から、見えない境目が海の上へ伸びていく。
「……来る」
アイラが小さく言う。
リュカも見た。西の低い石積みの先、今の湾口より内側に、昔の港の出口が白く浮いた。
若い衆のひとりが、灯籠へ火を入れる。
火は小さい。
紙の内側で揺れながら、まだただの灯だ。
もう一打ち、鐘が鳴る。
ごうん――
白い筋が濃くなる。
東の市場岸でも、ざわめきが一段低くなる。
「ネスト!」
ガルドが怒鳴る。
「東の起点札を下げるな! 市場岸の灯は消すな!」
「で、でも西が――」
「聞こえたことだけやれ!」
ネストは顔を青くしながらも、東へ向かって走る。記録板を抱えたまま、白線の内側へ人を戻し、東の灯を消させないよう怒鳴り始めた。
西の石積みでは、若い衆が灯をひとつ水へ下ろした。灯は波に揺れながら、細い白い筋へ乗った。そこでそのまま流れるだけなら、まだよかった。
白い筋が、その灯を拾い、ふっと前へ滑らせた。水の流れより半歩速い。灯だけが、水に乗って先へ滑っていく。
「……最悪だな」
リュカが言う。
その時、石積みの端にいた若い衆の片足が滑った。潮で濡れた石に足を取られ、そこへ白い筋にも引かれたのだろう。灯を追って半歩前へ出た体が、そのまま海側へ傾いた。
「おい!」
叫んだのはエドではなく、もうひとりの若い衆だった。だが声より先に動いたのはアイラだった。
東岸の白線を飛び越え、西へ駆ける。ガルドの「行くな!」が背に刺さっても止まらない。もう港務の足ではなかった。去年の夜、父を失った突堤へ戻っていた。
石積みの手前で滑りかけ、片手を古い係留環にかけ、もう片手で若い衆の襟を掴む。若い衆はもう半身を海へ乗り出し、腰まで水に引かれていた。灯はもう手を離れている。
「離すな!」
アイラは返事もせず、歯を食いしばって引いた。若い衆の足が石へ戻る。だがそのはずみで、組合の手に残っていた別の灯が落ち、白い筋の真ん中へ灯が二つ並んだ。
ごうん――鐘が三度目に鳴る。
西の水が、今度ははっきり引いた。潮じゃない。海と岸の境が、一瞬だけ昔の位置へ寄った。係留中の小舟が西を向き、石積みの下の木箱がひとつ、乾いた音を立てて滑った。
東岸でも悲鳴が上がる。市場石段の係留綱がぴんと鳴り、灯籠船の舳先が少し西を向く。新しい起点札は立っているのに、港の下に残った昔の形へ、まだ西へ引かれていく。
「港務長!」
ネストが東から叫ぶ。
「東の係留も引かれてます!」
「見えてる!」
ガルドが怒鳴り返し、西の石積みへ棒をつきながら踏み込む。片脚を引いているのに、その一歩だけは迷わない。危ない場へ出る時の足取りだった。
「灯をこれ以上落とすな! 下がれ!」
「下がれば帰れん!」
エドが怒鳴る。
怒りより先に、焦りが顔に出ていた。古い鐘は鳴った。灯も落ちた。それでも海は静まらない。
「エド爺!」
アイラが若い衆を引き上げたまま怒鳴る。
「もう戻れ!」
「戻れば今年は誰も帰れん!」
「今このままだと生きてるほうが落ちる!」
東の灯が揺れ、西の鐘の尾だけが残った。エドは白い筋を見た。東へ目をやり、西の若い衆の青い顔を見た。
低く言った。
「……何を残す」
その問いで、周りの手が止まり、係留綱だけが鳴った。リュカは一歩前へ出る。
「決めろ。言え」
エドがこちらを見る。
アイラも。
ガルドも。
ネストまで、動きながらこちらを見ていた。
「今夜、残すのはどっちの岸だ」
白い筋の上で、灯が二つ揺れた。エドの喉が動く。目だけが海から離れない。
「……生きてるほうだ」
絞り出すように言った。
「今夜は、生きてるほうを海へ落とすな。明日も人が立つ岸を残せ」
西の若い衆が息を呑み、アイラが詰めていた息を吐いた。
白い筋はまだ消えない。灯も乗ったままだ。エドは海を睨み、次の指図を飲み込んだ。
東で、灯籠船の鼻先がまた西を向いた。
アイラが息を呑む。
「……まだ東へ戻りきらない」
「そうだな」
リュカは答えた。まだ西へ引く音が残っていた。東岸で、灯籠船の舳先がもう一度きしんだ。
西を向く。
係留綱が鳴る。
石段の白線ぎわで、紙灯を抱えた子どもが泣き出し、それを母親が胸へ引き寄せる。
その下で、係留綱だけが細く鳴っていた。
「ネスト!」
ガルドが怒鳴る。
「市場岸から人をどかせ! 白線の内に残すな! 灯は持たせたまま下げろ!」
「どこまで!」
「飯場の壁までだ! 石段は空けろ!」
ネストは板を脇へ抱え、東岸へ走った。若い衆を怒鳴り、子どもを押し戻し、屋台の脚を引きずって白線の内から外へどけていく。
ガルドは西へ向いたまま、棒の先で石を二度叩いた。
「アイラ!」
「はい!」
「東の起点札は落とすな! 市場岸の灯は消すな! 東だと一目でわかるようにしろ!」
「わかってる!」
声は返したが、アイラの足はまだ西の石積みを離れない。古い係留環のそばで、指先が無意識に父の銀釘の頭を探っていた。
リュカはそこへ向かった。
「動けるか」
アイラは一度だけ息を詰めて、それから頷いた。
「……動ける」
「なら、そこで止まるな」
「命令しないで」
「頼んでる」
アイラは舌打ちして、それでも東の石段へ向き直った。
リュカは測り棒を抜いた。
普段はただの細い棒だ。だが今夜これで測るのは石段の幅ではない。
「ガルド」
「何だ」
「今の港の名を言え」
港務長は一瞬だけ目を細め、すぐに意味を察した。
「鴎泊」
まず東岸の市場石段を指す。
次に、灯籠船をつないだ石段の下へ棒を向けた。
「潮見岸」
最後に、湾口へ。
「白帆口」
今ここで呼ぶのは、その三つだ。
「アイラ、銀釘箱」
彼女は返事もせず、小箱を差し出した。
だがリュカは受け取らない。
「違う。箱じゃない。西に残ってる、おまえの父の銀釘だ」
アイラの息が止まった。東の灯が背で揺れる。
西の白い筋は、まだ一本も消えていない。
「……何で、あの釘を残したのよ」
それはリュカに向けた言葉ではなかった。




