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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(8)

「でも、おまえもまだ、それを抜かずに残してる」


「残してるけど」


 アイラは釘箱を抱えたまま、白い筋の向こうを見た。もう見ないふりはしていなかった。


「その釘を抜け」


「抜いてどうするの」


「今の港へ打ち直す」


 西の白い筋が、そこでひとつ、海の上を滑った。

 時間はない。


 アイラは歯を食いしばり、古い銀釘へ指をかけた。

 簡単には抜けない。

 八年の潮と風を受けて、去年まで毎年ここで使われてきた釘だ。

 それでも、彼女は小さな金槌を取り出し、横から二度だけ打った。釘が緩み、銀の頭が石から半分だけ浮く。

 アイラはそれを指先で引き抜き、リュカへ押しつけた。


 リュカが受け取る。

 冷たい。

 ただ冷たいだけじゃない。去年まで何度も人の手に握られてきた跡が、まだ残っていた。


「ネスト!」


 東岸のざわめきの中から、息を切らした返事が飛ぶ。


「はい!」


「起点札の控えを持ってこい! 白線の内は空いたか!」


「いま空けてます!」


「急げ!」


 リュカは西の石積みの上へ三歩進み、測り棒の先を海へ向けた。

 白い筋は目で追えるほど濃くなっている。

 昔の港の出口。

 それが今夜だけ、灯に引かれて浮き出ている。


 測り棒を下ろす。

 石へ軽く当てる。

 一度。

 二度。

 三度。


 三度目で、古い線の動きがわかった。

 港の線が、そこで昔の位置へ戻りかけている。


「東の石段、三段目の環」


 リュカが言う。


「アイラ、そこへ立て」


「私が?」


「おまえが立って、今の港はこっちだと押さえろ」


 アイラは一瞬だけ迷ったが、東へ走った。

 市場岸の石段、三段目。

 昼のうちに綱を掛け替えた新しい係留環の前だ。

 そこへ立ち、こちらを振り向く。東の灯を背にしたせいで、姿の縁が細く光った。


「そこから動くな!」


「わかった!」


 ガルドは棒を西の突堤の先へ向けた。


「俺はどこだ」


「境の真ん中」


「嫌な位置だな」


「似合ってる」


「若造が」


 そう言いながらも、港務長はそこで足を止めた。古い港と新しい港のちょうど境だ。港務長が立つなら、そこしかない。


 ネストが東から駆けてくる。

 手には控え札の板と、白線を引くために余らせていた石灰袋。


「これで!」


「置け」


 東の起点札の控えを、ガルドの足元へ置く。

 石灰袋は西の鐘棚の前へ投げる。

 リュカは銀釘を、東岸の石段へ向けて掲げた。


「アイラ!」


「何!」


「今夜、おまえはどこから灯を出す」


 声は東まで届く。

 市場岸のざわめきが一瞬だけ薄くなった。

 アイラは息を吸った。

 父の釘をこちらに渡し、起点札の前に立ち、東の灯を背にした。もう逃げられない位置だった。


「鴎泊から!」


 一拍おいて、続ける。


「潮見岸で受けて、白帆口へ返す!」


 市場岸の誰かが、小さくその名を繰り返した。声は東の灯のあいだへ広がっていった。


 リュカは銀釘を、測り棒の先で軽く打った。


 打ち込んだのは東ではない。

 西の古い鐘棚の手前、さっきまで父の釘があった場所より半歩内側。


 銀釘の頭が石に食い込み、その瞬間、西の鐘がひとつだけ鳴った。

 低く、腹へ響く音。

 父の好きだった音だ。


 白い筋が、海の上でひときわ濃く立つ。

 灯が二つ、そこで揺れる。


「残すのはいまの港だ」


 リュカは低く言い、測り棒を白い筋へ差し入れた。

 嫌いな感触だった。

 石でも水でもないところへ、針を差すみたいだった。


「今夜だけ、西へ戻る筋を畳め」


 東の灯が揺れる。

 西の白い筋が、端から少しずつ折れ始める。

 紙を折るような、乾いた音が海の上を走った。


 エドが思わず一歩前へ出る。


「おい……!」


「下がれ」


 ガルドが棒で止める。


「今動くな」


 白い筋の上にあった灯が、一度だけ沈みかけ、それから押し戻された。

 西へ流れるのではなく、その場で小さく円を描き、向きを失った。

 そこへ東の灯が、水の上で細い筋を作る。


 東の市場岸から、西へ寄ろうとしていた舳先が、今度はわずかに正面へ戻った。係留綱が鳴り、石段の環がきしむ。


「まだ東へ戻りきらない!」


 アイラが叫ぶ。だが、白い筋はまだ半分残っていた。


「エド!」


 リュカが呼ぶ。組合頭がこちらを見る。

 まだ顔が強張っていた。


「今夜、何を残す」


 エドの喉が動く。


「……残すのは、生きてる人間の明日だ」


 リュカが切る。


「なら今夜は西へ出すな」


 エドは目を細めた。


「……そうか」


 低く言って、灯を持っていた若い衆へ向き直る。


「西の灯は落とすな! 今夜は送らん! 東へ戻せ!」


 若い衆が慌てて残りの灯を抱え込む。

 西へ出そうとしていた手が止まり、古い線へ落ちる灯が一つ減る。


 リュカは測り棒をさらに押し込んだ。


 海の上で、白い筋がもう一度だけ大きく折れた。

 昔の湾口の輪郭が、夜の中から少しずつ消えていく。


 東の灯が、その空いた水面へ戻ってくる。


 ごう、と風が吹いた。

 東から西へではない。

 湾口から港の内へ、まっすぐ戻る風だ。


 その風に紙灯がいっせいに震えた。

 灯籠船の鼻先が定まり、東の石段の白線が、夜の中で細く光る。


 もう一打ち、西の鐘が鳴る。

 だが今度は、最後まで鳴りきらない。

 低い音のまま、途中ですぼんでいく。


 ごう……

 ……ん


 音はそこで切れた。


 白い筋は、海の上から消えた。

 潮はただの潮に戻る。

 西を向いていた小舟も、舳先を真っ直ぐへ返す。

 市場岸の係留綱も、やっといつもの鳴り方に戻った。


 水の上に残ったのは、東の灯だけだった。


 西には、低い鐘棚と係留環だけ残った。


 アイラは石段の三段目で、膝を少し折った。

 それでも札は手放さなかった。


 ガルドは棒をつきながら、西の鐘棚を見上げた。


「……終わったか」


「ひとまずだ」


 リュカが言う。


「今夜はな」


 エドが低く言う。

 エドは西を見たままだった。


「来年は」


 アイラが東から言う。


「来年は、最初から東でやる」


 ガルドはそれを聞いて、一度だけ頷いた。


「そうだな」


 ネストは記録板を抱えたまま固まった。最初の一行だけ、手が止まった。


「ネスト」


 ガルドが言う。


「はい!」


「ぼさっとするな。時刻、潮位、起点変更、西封鎖、組合の動き、全部書け」


「ぜ、全部ですか」


「全部だ。来年、誰かが“こんな夜はなかった”って言い出す前に残せ」


 その言葉で、ネストは板へ書きつけ始めた。墨が飛び、字も少し崩れる。それでも筆は止まらなかった。


 泣いていた子どもも、母親の腕の中で静かに灯を見ていた。


 市場岸の灯はまだ残っていた。西の綱の向こうへ戻る者は、もういなかった。


 ガルドは市場岸の白線の外に立ち、棒をついたまま言った。


「よく聞け」


 大声ではない。

 それでも、この岸にいた者は誰も聞き逃さなかった。


「今夜の送りは一度だけだ。順番札は下げるな」


 ガルドは白線の内側を棒で示した。


「名札だけ結べ。石段から順に、短く出せ」


 ガルドは西の綱を一度見た。


「長い列にするな。灯を落としたら、そこで終わりだ」


 誰も返さなかった。


 飯場の女将が、夫の名を書いた木札を灯へ結ぶ。

 魚屋の老婆が、海へ消えた息子の灯を両手で持つ。

 昼のうちは屋台を組んでいた若い衆も、いまは肩をすぼめて火を風からかばっている。


 東の石段では、もう次の灯へ火が渡っていた。まだ西を振り返る者もいたが、誰も動きを止めなかった。


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