第二話 送り灯が昔の船着きを呼ぶ港(9)
アイラは少し離れたところに立っていた。
東の起点札のそばだ。
手には、小さな紙灯をひとつ持っている。
まだ火は入っていない。
昼のあいだ、誰にも見せずにいた灯らしかった。
紙の折りも、札の結びも、ほかの灯より少しだけ丁寧だった。
港務の荷みたいに腰へぶら下げず、両手で抱えていた。
リュカが近づく。
「それか」
アイラは答える前に、灯の木札へ一度だけ指を置いた。
「今年は流さないつもりだった」
「そうか」
「港のほうが先だと思ったから」
「そうか」
「でも、東からなら流してもいいのか、まだわからない」
火の入っていない灯は軽い。
手の重さだけ変わらなかった。
「わからないなら、まだ決めるな」
リュカは言った。
「今夜は、東から送ると決めた人だけ流せばいい」
アイラは目を細めた。
「そういう時だけ、待つのね」
「慌てて決めるよりいい」
「……たまに、そういうのずるい」
言いながらも、彼女は灯を胸の前へ引き寄せ、流す手を止めた。
東では、最初の灯が水面へ出た。
東の仮鐘が一度だけ鳴る。
そのあと、灯がひとつずつ石段の前から流れていった。
灯は西へ取られず、波に押され、風を受けて、今夜の港の中を静かに進んでいった。
夜が深くなるころ、東の灯は全部流れきった。
紙の小さな光は湾の外へ出る前にばらけ、ひとつずつ水の色へ溶けていった。
東の灯が消えたあともしばらく、誰も海から目を離さなかった。
西を振り返る足もなかった。
*
東の市場岸では、消え残った灯の紙片を拾う者がいる。
飯場では鍋を洗う音がする。
係留綱を点検する若い衆は、目だけ赤いまま歩いていた。
西の封鎖綱は、そのままだった。
ガルドは日の出前にもう一度そこへ行き、棒の先に潮だけつけて戻ってきた。それでも綱は外さなかった。
やがて東の鐘が鳴る。
一度だけ。
短く、乾いた音だった。
ネストはその鐘を聞くなり、寝不足の目をこすって記録板を机へ広げた。
昨夜あわてて書きつけた記録を、朝のうちに清書するつもりらしい。
字はまだ少し跳ねていたが、もう手は震えていない。
「ガルド」
リュカが声をかける。
「何だ」
「紙を出せ」
ガルドは何も言わず、港務所の奥の棚から一番大きな紙を持ってきた。
祭礼用の札紙より厚い、役所の紙だ。
机に広げる。
リュカは墨を磨る。
アイラがその横へ立つ。
ネストも板を抱えたまま寄ってきた。こういう時だけは耳が早い。
リュカが紙へ書く。
一、西の突堤を祭礼の起点に使うな。
二、送り灯の起点は東の市場岸に置け。
三、送り鐘は一度だけ鳴らせ。
四、灯籠船に順番札を下げるな。名札だけ結べ。
五、古い港の名で湾口を呼ぶな。
六、祭礼の夜は西の封鎖綱を日暮れ前に張れ。
そこまで書いて、筆を置く。
ネストの抱えた板が、そこで一度だけ小さく鳴った。
「ガルド」
「何だ」
「足りないところを足せ」
ガルドは紙を引き寄せ、「七、祭礼組合は東起点の支度へ人を出せ、西の鐘棚は開けるな」と一行書き足した。ネストが顔をしかめ、アイラも紙を見たまま息を浅くした。
「それ、だいぶ揉めますよ」
「揉めろ」
ガルドが言う。
「紙に残さなきゃ、来年また揉める」
ネストは口をつぐんだまま板へ写し始め、もう手は止まらなかった。アイラは何度か目を止め、それでも最後まで読んだ。
「これでいいの?」
アイラがふと聞いた。
「何が」
「全部」
「全部じゃない。来年のぶんが残ってる」
アイラはそこで少し笑った。
「嫌な答えね」
「今夜はな」
*
朝飯は、昨夜の残りを温めたものだった。
魚のあら汁に、少し硬くなった黒パン。
豆も塩も、昨日より味が強い。眠れていない舌にはそのくらいでちょうどよかった。
飯場の女将が二人の前へ椀を置く。
「今年は鍋をひっくり返さずに済んだね」
「一応ね」
アイラが言う。
「今朝はそれでいい」
リュカが言う。
女将が鼻で笑った。
「便利な返しだね」
「人にはすすめないな」
「すすめられてもごめんだね。腹立つから」
女将は空いた椀へ黙って汁を足した。その時、飯場の扉の外で、子どもの声がした。
「アイラ!」
昨日、灯籠の骨組みを運んでいた男の子だ。今朝は昨夜流せなかったらしい小さな紙灯を一つ持っていた。
「何」
「これ、どうするの?」
その一言で、アイラの匙が止まった。
棚の上の灯を、アイラは一度だけ見た。
昨夜は流さなかった。
飯場の女将が、何も言わずに子どもから灯を受け取った。見慣れた手つきで灯の紙を正し、木札の紐をほどく。
「誰の灯だい」
「……父さん」
アイラが答える。
女将は頷いただけだった。
「だったら、来年の最初に流しな」
さらりと言う。
「今夜むりに流すより、そのほうが港にも灯にもいいよ」
アイラは灯を見たまま、黙っていた。
リュカが椀の底を見ながら言う。
「それでいい」
「そういう時だけは、まともね」
「たまにはな」
「褒めてない」
アイラは灯を受け取り、今度は飯場の棚の上へ置いた。胸元へは戻さなかった。
「来年は、最初から東から流す」
「流せる形は残した」
「はっきり言わないのね」
「決めるのはおまえたちだ」
アイラは笑って、椀へ手を伸ばした。
*
荷運びは綱を巻き直し、魚屋は桶の水を替えていた。
西の突堤だけ、まだ綱が張られていた。
立ち止まった人も、西を一度見てまた歩いた。
ガルドは新しい紙を港務所の板へ打ちつけ、ネストはその下へ昨夜の記録を二枚重ねた。
字はまだ跳ねていたが、最後の行まで埋まっていた。
アイラは西の封鎖綱を見に行った。戻ると東の起点札を一度撫で、そのまま次の仕事へ戻った。
リュカは鞄を肩に掛ける。
「出るの?」
「そうだ」
「次は宿代持ってきなさい」
「祭り前じゃなきゃ、どうにかする」
「それで足りる」
「またそれか」
「あんた、何者?」
「旅人だ」
「嘘」
東の仮の起点鐘が一度だけ鳴った。
鳴らしたネストは、板を抱え直した。荷運びは一度だけ顔を上げ、また手を動かした。
荷を担いだ肩も、桶を抱えた腕も、石段へ折れていった。
西の係留環と低い鐘棚のまわりだけ、人影がなかった。
リュカは背を向け、港を出た。
塩と魚と濡れた綱、焦げた油の匂いがした。
市場岸では、魚屋が値を呼んでいた。
西の封鎖綱だけが、まだ濡れていた。




