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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第三話 聖女が三人いる修道院(1)

 結論から言う。

 この修道院に足りないのは聖女じゃない。必要なのは、入口で振り分けることだ。


 修道院には、たいてい二つの匂いがある。


 香の煙と、煮出した薬草の匂いだ。


 白い壁の向こうで鐘が鳴るより先に、その二つは風に乗って届く。

 香が強ければ、祈りが前に出ている。

 薬草が勝てば、施療が前に出ている。

 両方が同じくらい濃いときは、たいていどちらにも手が回っていない。


 山裾の坂を登り切ったところで、リュカは足を止めた。


 修道院は、高い石垣の上にあった。

 その上に、白く塗られた壁が続く。

 細い鐘楼。

 正門の上に掲げられた古い聖印。

 遠目には整った院に見える。

 だが門の前まで来れば、見かけだけだとすぐわかる。

 門前で息が詰まるようなら、中もたいてい同じだ。


 列は三本あった。


 門の左に一本。

 正面に一本。

 右に一本。


 だが、並ぶ者はきれいに分かれていない。


 左の列には、熱のある子を抱いた母親がいる。

 その後ろには、封をした手紙を胸に抱えた老人。

 さらに後ろには、空の籠だけを持った娘。


 正面の列には、巡礼杖をついた男。

 すぐ後ろで、若い兵が咳き込んでいる。

 そのまた後ろには、黒パンの欠片を布に包んだ老婆。


 右の列も同じだった。

 祈りたい者。

 薬を求める者。

 施しを願う者。

 三本の列はある。だが、どの列にもその三つが混じっている。


 しかも、門の脇には寄進箱が三つあった。

 願い札の籠も三つ。

 それぞれ違う色布が巻かれているのに、何をどう分けているのかは、一目ではわからない。


 風が吹く。


 香の煙。

 煮出した薬草。

 湯。

 少し酸んだ羊乳。

 そこへ、朝から切られた黒パンの乾いた匂いが混じっていた。


 腹が鳴った。

 リュカは無視した。


 自分の空腹を満たすために、魔法を使う気はなかった。

 冷えた指を温めるのも、靴底の泥を払うのも、彼にとっては結局同じことだった。


 門前では、若い修道女が木箱を抱えて走っていた。


 修道服の袖は肘までまくり上げている。

 腕には粉がついていた。

 厨房から来たのか、調薬室から来たのか、その両方か。

 足取りは速い。祈る者の静けさではなく、忙しい場所を回している人間の歩き方だった。


「右の列、そこで止まらないで! 熱のある子は壁際へ寄せて! そこ、風が抜けるから!」


 木箱を抱えたまま、修道女が声を張る。

 言い方はきつい。だが、誰をどこへ寄せれば少しでもましになるかを、ちゃんとわかっている声だった。


 次の瞬間、修道女はリュカに気づいた。

 門前に突っ立ったまま、三本の列と寄進箱を順に見ている灰色の外套の男は、どう見ても祈りに来た人間ではない。


「何」


 そう言いながらも、修道女は木箱を下ろさない。


 リュカは寄進箱を顎で示した。


「結論から言う」


「言わなくていい」


「この修道院に足りないのは聖女じゃない。入口で分けることだ」


 修道女の顔が、きれいに歪んだ。


「初対面で、そこまで言う?」


「門前を見ればわかる」


「当たってるのが腹立つわね」


 木箱を抱え直しながら、修道女はじろりとリュカを見た。


「巡礼?」


「違う」


「施しを受けに来たの?」


「飯は食いたい」


「そういう意味じゃなくて」


「腹は減ってる」


「それは見ればわかる」


 そこだけは即答だった。


 娘はようやく箱を地面へ置き、額の汗を手の甲で拭った。

 年は二十前後だろう。

 顔立ちそのものはやわらかいのに、目の下にはうっすら影が落ちている。

 眠れていない顔だ。


「名前」


「リュカ」


「サーシャ。見習い修道女よ」


 彼女は箱の持ち手を握り直した。


「記帳と調薬室と配膳。あと入口整理。人手が足りないところへ回されてる」


「器用だな」


「人手が足りないだけ」


 サーシャはそう言ってから、また門前の列を振り返った。


 左の列で、熱のある子を抱えた母親がふらつく。

 正面では、巡礼杖をついた男がその背を見ても前へ詰めるだけだ。

 右の列の老婆は、寄進箱へ何を入れるか迷ったまま立ち尽くしている。


「見ての通り、忙しいの。文句は夜、祈りは列。飯だけ欲しいなら裏の鍋場へ回って」


「鍋場へ回れば食えるか」


「そこだけは本当にぶれないのね」


「大事だ」


「そうでしょうね」


 サーシャは箱をまた抱え上げた。

 箱の中で、乾いた根と薬瓶がぶつかる音がする。調薬室へ運ぶ荷らしい。


「ただ、飯だけ食べに来たなら、たぶんすぐ追い出すわよ」


「働けばいいのか」


「働く気があるならね」


「なら、その箱を持つ」


 サーシャは目を細めた。


「何」


「それ、どこへ運ぶ」


「調薬室」


「じゃあ行くぞ」


「……初対面で勝手に動くの、だいぶ感じ悪いわよ」


「腹が減ってる」


「それ、何にでも効く言い訳じゃないのよ」


 文句を言いながらも、サーシャは箱を離した。

 全部預けるのではなく、片側だけ。

 警戒はしているのだろう。だが今は、それでも手を借りたいらしい。


 木箱は見た目より重かった。

 瓶だけではない。乾燥させた薬草の束に、水差し、小さな乳鉢まで入っている。

 見習い修道女が一人で抱えて走るには、たしかに重すぎた。


 門をくぐる。

 中庭へ入った瞬間、匂いが変わった。


 門前では香と薬草が半分ずつだったのに、中では薬草のほうが濃い。

 煮出し釜から立つ苦い湯気。

 干した葉の青臭さ。

 その下に、黒パンを蒸して戻したときの、湿った粉の匂いがある。


 中庭は、修道院というより、忙しい仕事場だった。


 洗った布。

 水桶。

 釜。

 施し用のパン籠。

 担架。

 願い札を束ねた紐。

 そのあいだを、修道女たちと巡礼たちが絶えず行き交っている。


「そこ、置いて!」


 サーシャが顎で示した先には、長机が並び、その上に帳面が開かれていた。

 だが、一冊ではない。三冊ある。

 施療帳。

 願い受け帳。

 施し帳。

 開き具合を見るだけで、どれも同じ手が行ったり来たりしているのがわかった。


 箱を下ろす。

 サーシャはすぐに蓋を開け、中身を確かめた。


「欠けてない……よし」


「壊したらまずいのか」


「中身、ほとんど薬瓶」


「それはまずいな」


 彼女は一度だけ息をつき、それからようやく、正面の列の奥を顎で示した。


「見える?」


 リュカは目をやった。


 左手の庇の下に、若い修道女が座っていた。

 熱のある子の額に濡れ布を当てている。

 施療だ。

 手つきは丁寧だが、見ていて落ち着かない。熱のある子に触れるたび、あの娘のほうが先にすり減っていきそうだった。


「あれがエレナ。触って診るほう」


 次に、回廊の柱の下。

 別の修道女が、巡礼の話を聞いている。

 手紙を受け取り、何かを帳面に書きつけ、ときどき相手の手まで握る。

 笑顔はやわらかいが、引き受けるのが早い。話を聞き終えるより先に、相手の荷を自分の机へ引き寄せてしまう。


「あれがノエル。話を聞くほう」


 最後に、礼拝堂の入口近く。

 ひとり、小柄な修道女が祈り台の前に座っていた。

 何もしていないように見える。

 だが、列だけはそこがいちばん長い。


 返事はしない。それでも相手のほうが勝手に、「何か返ってきそうだ」と息を整えてしまう。そういう座り方だった。


「あれがリシェ。座ってるだけの子」


「座ってるだけで、人がいちばん並ぶな」


「そう」


 サーシャは短く言った。


「だから最悪なのよ」


 そのとき、門のほうでまた小さな騒ぎが起きた。


「違います、私は祈りじゃなくて薬を――」

「でしたら左へ!」

「さっき左に並んだら、書状は正面だって!」

「だから入口で分けてないのが悪いのよ!」


 怒鳴ったのは修道女ではなく、疲れ切った巡礼のほうだった。

 その一言で、中庭の修道女たちの手が一瞬だけ止まる。


 サーシャが目を閉じた。


「ね?」


「列を見ればわかる」


「腹立つけど、その通り」


 彼女は箱から薬束を抜き取り、その半分をそのままリュカに押しつけた。


「まだ手は空いてる?」


「空ける」


「じゃあそれ持って。調薬室まで来て」


「飯は」


「あと!」


「わかってる」


「……本当に嫌な人」


 そう言いながらも、サーシャはもう走り出していた。

 修道院を回しているのは、祈りでも奇跡でもなく、まずはこういう足なのだとわかる走り方だった。


 リュカは薬束を抱え、そのあとを追った。


 中庭の奥では、三人の見習いがそれぞれの持ち場ですり減っていた。

 左は熱。

 正面は願い。

 右は祈り。

 それなのに、門前の三本の列はまだきれいには分かれていない。


 祈りの場のはずなのに、入口ではまず人を振り分けなければならない。

 その奥では、三人の“聖女”が、それぞれ別のものを引き受けている。


 入口は一つなのに、その先の役目は三つに割れている。


 その食い違いは、もう正門の前にあらわれていた。


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