第三話 聖女が三人いる修道院(2)
調薬室の中は静かではなかった。
奥の小部屋と聞けば、ひんやりした場所を思う。
だが入口をくぐると、湯気と薬草の匂いがむっと押し寄せた。
足音も絶えない。
棚には干した薬草、陶器の壺、油紙の包み、細首の瓶。
床には水桶、窓辺には使いかけの乳鉢。
整いきってはいない。
よく使うものほど、手前へ出ている。
サーシャは薬束を机へ放るように置き、すぐに別の棚を開けた。
「赤紐の袋、そこに見える?」
「見える」
吊り棚の一番下、乾いた根の束の横に、赤い紐で口を縛った小袋が三つあった。リュカが手を伸ばすと、サーシャは間を置かずに続けた。
「それを二つ、左の鍋へ。残り一つはエレナのところ」
サーシャは棚の薬瓶へ目を走らせた。
「熱のある子が三人いる。今朝のぶんだけじゃ、たぶん回らない」
「足りないのは薬か」
「薬じゃない。手」
「そうか」
「そうよ」
返しながら、サーシャは別の薬瓶の数を目で追っていた。両手で仕事をしながら、目だけはもう次に足りなくなるものを探していた。
赤紐の袋を二つ持って、鍋へ向かう。廊下を出ると、すぐ中庭の音がぶつかってきた。
水桶が石へ置かれる音。
鍋の蓋が鳴る音。
誰かの咳。
木匙で鍋をかく音。
そのどれよりも多いのが、人の呼ぶ声だった。
「次の人!」
「熱はいつから?」
「願い札はそっちじゃない!」
「寄進は箱へ、手紙はノエルへ!」
叫んでいるのは、大人も子どももいた。修道院の中なのに、飛び交う声だけは市場に近かった。
鍋のそばには年かさの修道女がいた。
布をきっちり頭に巻き、袖口だけを濡らしている。
赤紐の袋を見せると、黙って鍋の縁を持ち上げた。
中では薄い褐色の湯が煮えていた。
薬草だけじゃない。
粥と汗と、焦げた木の匂いまで混じっている。
「二つ」
リュカが言うと、年かさの修道女は短くうなずき、それだけで受け取った。忙しい場所の人間は、たいていそのくらいのやりとりで足りる。
残り一つを持って、エレナの列へ向かう。
左の庇の下だけ、昼前だというのに、もう夕方みたいに空気が沈んでいた。
熱のある子を抱えた母親。
足に布を巻いた老人。
咳き込む若い兵。
エレナはその真ん中で、誰かの手を取っていた。
近くで見ると、思っていた以上に若い。
サーシャとそう変わらない年だろう。
だが、サーシャよりずっと疲れて見える。
目が細いのではなく、瞼の上に重さが乗っていた。
「これ」
リュカが赤紐の袋を差し出す。
エレナは一瞬だけ顔を上げた。
「……助かる」
礼は言う。だが、それで終わりではなく、もう次の人の額へ濡れ布を当てていた。
「熱が強い子がいる。湯を増やして」
「どの子だ」
「そこの……」
そこまで言って、別の子どもが膝から崩れた。
列の後ろで、祈りの白札を握っていた女の子だ。
まだ十にもならない。
頬が赤く、肩で息をしている。
母親が悲鳴を上げる。
「こっちじゃなかった、ごめんなさい、ごめんなさい、でもこの子、朝から……!」
「謝らなくていいから、寝かせて!」
エレナが叫ぶ。
だが庇の下は狭い。寝かせる場所も、布も、湯も足りない。
リュカは女の子を抱き上げた。軽い。軽いのに、熱だけが重い。
「どこだ」
エレナは迷わず足元の板を蹴って空けた。
「そこ。寝台代わりにしてる。頭だけこっちへ!」
女の子を寝かせる。
母親が泣きそうな顔でついてくる。
白札が母親の手から落ちる。
祈りの列にいたのだろう。
熱の列でも、施しの列でもない。
白札は汗でふやけ、角が丸くなっていた。
何度も握り直した紙だった。
エレナがそれを一目見て、小さく息を詰めた。
「……また」
その一言に、修道院の今がそのまま入っていた。
熱のある子が、祈りの列にいる。
手には願い札しかない。
だが要るのは、祈りじゃなく薬だった。
列が三本あっても、人の困りごとは三つに割れない。困っている人間ほど、どの列へ並べばいいのかわからなくなる。
「布」
エレナが言う。
リュカは近くの籠から布を取った。濡らして渡す。母親に持たせる。エレナは薬湯をぬるい水で割り、女の子の口へ少しだけ流し込んだ。
「吐かせないで。喉が動いたら、もう一口」
「は、はい」
「次の人、待って!」
列へ向かってそう言いながらも、エレナの手は止まらない。
リュカはそこを離れた。
ここに長く立っていると、自分まで熱のある子へ手を伸ばしそうになる。
長く立つ場所じゃない。
次に手の足りないところへ行くべきだった。
中庭を横切る。
正面の回廊の柱の下にノエルがいた。
こちらも若い。
笑顔の作り方がうまい。
だが、うますぎる笑顔はたいてい、人の荷まで余分に背負う。
作業台には願い札、書状、封の切られていない小箱、布包み、半分ほど空いた寄進袋。
願いも相談も、区別なくそこへ積まれていた。
「はい、ここへ置いてください。預かります」
ノエルが言う。
「いつ届くかは言えません。でも、確かに受けます」
「本当に?」
巡礼の男が、封をした手紙を差し出す。
封の角は、指で押されすぎて白く擦れていた。
「本当に読むの?」
「読みます」
「返事は」
「……返せる時はあります」
嘘ではない。
だが、それで足りるかどうかは別だった。
隣には、亡くなった家族の指輪を包んだ女がいた。
さらにその後ろでは、船の消息を知りたい漁師が札を握っていた。
願いを受ける場というより、持ち込まれた未練の置き場になっていた。
「そちらは」
ノエルがリュカに気づいた。
「荷物持ち?」
「腹の減った旅人だ」
「変わった自己紹介ね」
「よく言われる」
ノエルは少しだけ笑ったが、その笑みはすぐ次の人へ向いた。
「ごめんなさい、次の方」
彼女は机の端に積まれた手紙の束を、無意識に手元へ引き寄せた。そのぶんだけ、台の余白が減っていった。
ノエルの机には、預かりものが多すぎる。
願い札の箱。
寄進の小袋。
手紙の束。
遺品の小箱。
どれも人が持ち込むものばかりで、受けたあとの行き先がない。
嫌な机だ。
「サーシャ」
リュカが中庭の向こうへ声を投げた。
木箱を抱えて戻ってきたサーシャが、振り向いた。
「何」
「この机、受け取るばかりだ」
「見ればわかるでしょ」
「その先は」
「ないから積んでるの!」
怒鳴り返したあと、サーシャは息を吐いた。
「ノエルは何でも受ける。だから人が集まる。でも、受けたものの先がない」
「なら入口で振り分けろ」
「振り分けられたら苦労しないわよ」
そう言いながらも、サーシャはノエルの机の端へ木箱を一つ置いた。
机の前が物で塞がりすぎないよう、少しだけ空きを作る。
箱の置き場一つで、人は無意識に机へ載せる量を変える。
そういう手加減を、サーシャはもう体で覚えていた。
礼拝堂の入口近くへ向かう。
そこに、リシェがいた。
小柄で、細い。
膝の上に両手を重ね、祈り台の前に座っている。
音を立てる気配がまるでない。
何もしていないように見える。
だが、列はここがいちばん長い。
人は、よく喋る相手より、黙って聞く相手に深い願いを置きたがる時がある。
「……まだ二十人」
祈り台の脇にいた少女が、小声で数えていた。
見習いではなく、雑役の子らしい。
ただ列の数だけを数えている。
「昨日より少ないか」
リュカが聞いた。
少女は驚いてこちらを見た。
「し、知らない人が喋った」
「悪いな」
「十六人、いや十八人……」
数え直している。礼拝堂の前まで来ると、皆少し声を落とす。門前や中庭と違って、ここにはまだ祈りの場らしい空気が残っていた。
リシェは人の顔を見ない。
祈り台の上の小さな燭台と、その先の、空いた礼拝堂の中央だけを見ている。
だが、ときどき肩がほんのわずかに震える。耳の奥へ何かが刺さる時の震え方だった。
「座ってるだけなのに、人が並ぶ」
リュカが言った。
いつの間にか横へ来ていたサーシャが、ため息混じりに答えた。
「だから厄介なの」
「何も返してないだろ」
「そう見えるだけ」
「違うのか」
「返事はなくても、胸の中のものを少し置いて帰れそうに見えるのよ。あの子は」
ひどく曖昧な言い方だった。
だが、こういう場では曖昧な言葉ほど当たることがある。
中庭の向こうで、鍋の蓋が落ちる音がした。続いて、施し籠の数をめぐって言い争う声。
サーシャが顔をしかめた。
「ちょっと待ってて」
「どこで」
「中庭の真ん中にでも!」
「雑だな」
「もう雑にしか回せないの!」
そう言って、サーシャは走り出した。
木箱。鍋。布。願い札。
手の足りないところへ、最後にはいつもサーシャが回されるらしい。それでも足を止めない程度には、この見習い修道女は頑丈だった。
リュカは中庭の真ん中に立った。
左に施療。
正面に願い受け。
右に祈り。
奥に施しの黒パン。
その全部のあいだを、同じ人たちが行ったり来たりしている。
熱のある子を抱えた母親が、施療の列を少し外れて、願い受けのほうを見る。
願いを聞いてほしい巡礼が、祈り台を諦めて施しのほうへ目をやる。
ノエルの前に手紙を出した漁師が、結局リシェの列にも並び直す。
困りごとが増えているだけじゃない。
行き先を増やしても、人はきれいに分かれない。
だから同じ人が、三度並ぶ。
「……困りごとが三回並んでる」
小さくそう言った時、すぐ脇で誰かが足を止めた。
サーシャだった。
いつ戻ってきたのか、黒パンの籠を腰で支えている。
「何」
「聖女が三人いるんじゃない」
リュカは中庭を見た。
「困りごとが三回並んでる」
サーシャは少しのあいだ、何も言わなかった。
否定したい顔だった。
だが、目の前では熱のある子が祈りの列にいて、手紙を持った男が施しのほうを見ている。否定できるほど、現場はきれいではない。
「……たまに、本当にその通りだから腹立つのよ」
言ってから、彼女は籠を机へ置いた。
「院長さまに会う?」
「会う」
「偉い人にそのまま言わないで」
「たぶん言う」
「ほんと嫌」
そう言いながらも、サーシャは断らなかった。
中庭の向こうでは、エレナがまだ熱の子へ濡れ布を当てている。
ノエルは笑顔のまま、行き場のない願いをまた受けている。
リシェは座ったまま、聞かなくていいものまで聞いてしまいそうな目で、まっすぐ礼拝堂の奥を見ていた。
修道院は、まだ昼のうちから削れている。
院長に会うなら、今のうちだ。
夕方になれば、中庭は静かになる代わりに、願いは礼拝堂へ集まり始める。
その前に見せなければならない。
この並びは、もう崩れかけている。
見ればわかる。
礼拝堂の中央だけが、まだ誰も立っていない場所みたいに空いていた。
入口を変えるだけでは足りない。
あの空きを背に三人が並べば、聖女ひとりに向くはずの願いが、三つに割れて流れていく。




