表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
14/33

第三話 聖女が三人いる修道院(2)

 調薬室の中は静かではなかった。


 奥の小部屋と聞けば、ひんやりした場所を思う。

 だが入口をくぐると、湯気と薬草の匂いがむっと押し寄せた。

 足音も絶えない。

 棚には干した薬草、陶器の壺、油紙の包み、細首の瓶。

 床には水桶、窓辺には使いかけの乳鉢。

 整いきってはいない。

 よく使うものほど、手前へ出ている。


 サーシャは薬束を机へ放るように置き、すぐに別の棚を開けた。


「赤紐の袋、そこに見える?」


「見える」


 吊り棚の一番下、乾いた根の束の横に、赤い紐で口を縛った小袋が三つあった。リュカが手を伸ばすと、サーシャは間を置かずに続けた。


「それを二つ、左の鍋へ。残り一つはエレナのところ」


 サーシャは棚の薬瓶へ目を走らせた。


「熱のある子が三人いる。今朝のぶんだけじゃ、たぶん回らない」


「足りないのは薬か」


「薬じゃない。手」


「そうか」


「そうよ」


 返しながら、サーシャは別の薬瓶の数を目で追っていた。両手で仕事をしながら、目だけはもう次に足りなくなるものを探していた。


 赤紐の袋を二つ持って、鍋へ向かう。廊下を出ると、すぐ中庭の音がぶつかってきた。


 水桶が石へ置かれる音。

 鍋の蓋が鳴る音。

 誰かの咳。

 木匙で鍋をかく音。

 そのどれよりも多いのが、人の呼ぶ声だった。


「次の人!」


「熱はいつから?」


「願い札はそっちじゃない!」


「寄進は箱へ、手紙はノエルへ!」


 叫んでいるのは、大人も子どももいた。修道院の中なのに、飛び交う声だけは市場に近かった。


 鍋のそばには年かさの修道女がいた。

 布をきっちり頭に巻き、袖口だけを濡らしている。

 赤紐の袋を見せると、黙って鍋の縁を持ち上げた。

 中では薄い褐色の湯が煮えていた。

 薬草だけじゃない。

 粥と汗と、焦げた木の匂いまで混じっている。


「二つ」


 リュカが言うと、年かさの修道女は短くうなずき、それだけで受け取った。忙しい場所の人間は、たいていそのくらいのやりとりで足りる。


 残り一つを持って、エレナの列へ向かう。


 左の庇の下だけ、昼前だというのに、もう夕方みたいに空気が沈んでいた。

 熱のある子を抱えた母親。

 足に布を巻いた老人。

 咳き込む若い兵。

 エレナはその真ん中で、誰かの手を取っていた。


 近くで見ると、思っていた以上に若い。

 サーシャとそう変わらない年だろう。

 だが、サーシャよりずっと疲れて見える。

 目が細いのではなく、瞼の上に重さが乗っていた。


「これ」


 リュカが赤紐の袋を差し出す。

 エレナは一瞬だけ顔を上げた。


「……助かる」


 礼は言う。だが、それで終わりではなく、もう次の人の額へ濡れ布を当てていた。


「熱が強い子がいる。湯を増やして」


「どの子だ」


「そこの……」


 そこまで言って、別の子どもが膝から崩れた。

 列の後ろで、祈りの白札を握っていた女の子だ。

 まだ十にもならない。

 頬が赤く、肩で息をしている。

 母親が悲鳴を上げる。


「こっちじゃなかった、ごめんなさい、ごめんなさい、でもこの子、朝から……!」


「謝らなくていいから、寝かせて!」


 エレナが叫ぶ。

 だが庇の下は狭い。寝かせる場所も、布も、湯も足りない。

 リュカは女の子を抱き上げた。軽い。軽いのに、熱だけが重い。


「どこだ」


 エレナは迷わず足元の板を蹴って空けた。


「そこ。寝台代わりにしてる。頭だけこっちへ!」


 女の子を寝かせる。

 母親が泣きそうな顔でついてくる。

 白札が母親の手から落ちる。

 祈りの列にいたのだろう。

 熱の列でも、施しの列でもない。

 白札は汗でふやけ、角が丸くなっていた。

 何度も握り直した紙だった。


 エレナがそれを一目見て、小さく息を詰めた。


「……また」


 その一言に、修道院の今がそのまま入っていた。


 熱のある子が、祈りの列にいる。

 手には願い札しかない。

 だが要るのは、祈りじゃなく薬だった。


 列が三本あっても、人の困りごとは三つに割れない。困っている人間ほど、どの列へ並べばいいのかわからなくなる。


「布」


 エレナが言う。


 リュカは近くの籠から布を取った。濡らして渡す。母親に持たせる。エレナは薬湯をぬるい水で割り、女の子の口へ少しだけ流し込んだ。


「吐かせないで。喉が動いたら、もう一口」


「は、はい」


「次の人、待って!」


 列へ向かってそう言いながらも、エレナの手は止まらない。


 リュカはそこを離れた。

 ここに長く立っていると、自分まで熱のある子へ手を伸ばしそうになる。

 長く立つ場所じゃない。

 次に手の足りないところへ行くべきだった。


 中庭を横切る。

 正面の回廊の柱の下にノエルがいた。

 こちらも若い。

 笑顔の作り方がうまい。

 だが、うますぎる笑顔はたいてい、人の荷まで余分に背負う。

 作業台には願い札、書状、封の切られていない小箱、布包み、半分ほど空いた寄進袋。

 願いも相談も、区別なくそこへ積まれていた。


「はい、ここへ置いてください。預かります」


 ノエルが言う。


「いつ届くかは言えません。でも、確かに受けます」


「本当に?」


 巡礼の男が、封をした手紙を差し出す。

 封の角は、指で押されすぎて白く擦れていた。


「本当に読むの?」


「読みます」


「返事は」


「……返せる時はあります」


 嘘ではない。

 だが、それで足りるかどうかは別だった。


 隣には、亡くなった家族の指輪を包んだ女がいた。

 さらにその後ろでは、船の消息を知りたい漁師が札を握っていた。

 願いを受ける場というより、持ち込まれた未練の置き場になっていた。


「そちらは」


 ノエルがリュカに気づいた。


「荷物持ち?」


「腹の減った旅人だ」


「変わった自己紹介ね」


「よく言われる」


 ノエルは少しだけ笑ったが、その笑みはすぐ次の人へ向いた。


「ごめんなさい、次の方」


 彼女は机の端に積まれた手紙の束を、無意識に手元へ引き寄せた。そのぶんだけ、台の余白が減っていった。


 ノエルの机には、預かりものが多すぎる。

 願い札の箱。

 寄進の小袋。

 手紙の束。

 遺品の小箱。

 どれも人が持ち込むものばかりで、受けたあとの行き先がない。


 嫌な机だ。


「サーシャ」


 リュカが中庭の向こうへ声を投げた。


 木箱を抱えて戻ってきたサーシャが、振り向いた。


「何」


「この机、受け取るばかりだ」


「見ればわかるでしょ」


「その先は」


「ないから積んでるの!」


 怒鳴り返したあと、サーシャは息を吐いた。


「ノエルは何でも受ける。だから人が集まる。でも、受けたものの先がない」


「なら入口で振り分けろ」


「振り分けられたら苦労しないわよ」


 そう言いながらも、サーシャはノエルの机の端へ木箱を一つ置いた。

 机の前が物で塞がりすぎないよう、少しだけ空きを作る。

 箱の置き場一つで、人は無意識に机へ載せる量を変える。

 そういう手加減を、サーシャはもう体で覚えていた。


 礼拝堂の入口近くへ向かう。


 そこに、リシェがいた。


 小柄で、細い。

 膝の上に両手を重ね、祈り台の前に座っている。

 音を立てる気配がまるでない。

 何もしていないように見える。

 だが、列はここがいちばん長い。


 人は、よく喋る相手より、黙って聞く相手に深い願いを置きたがる時がある。


「……まだ二十人」


 祈り台の脇にいた少女が、小声で数えていた。

 見習いではなく、雑役の子らしい。

 ただ列の数だけを数えている。


「昨日より少ないか」


 リュカが聞いた。


 少女は驚いてこちらを見た。


「し、知らない人が喋った」


「悪いな」


「十六人、いや十八人……」


 数え直している。礼拝堂の前まで来ると、皆少し声を落とす。門前や中庭と違って、ここにはまだ祈りの場らしい空気が残っていた。


 リシェは人の顔を見ない。

 祈り台の上の小さな燭台と、その先の、空いた礼拝堂の中央だけを見ている。

 だが、ときどき肩がほんのわずかに震える。耳の奥へ何かが刺さる時の震え方だった。


「座ってるだけなのに、人が並ぶ」


 リュカが言った。


 いつの間にか横へ来ていたサーシャが、ため息混じりに答えた。


「だから厄介なの」


「何も返してないだろ」


「そう見えるだけ」


「違うのか」


「返事はなくても、胸の中のものを少し置いて帰れそうに見えるのよ。あの子は」


 ひどく曖昧な言い方だった。

 だが、こういう場では曖昧な言葉ほど当たることがある。


 中庭の向こうで、鍋の蓋が落ちる音がした。続いて、施し籠の数をめぐって言い争う声。


 サーシャが顔をしかめた。


「ちょっと待ってて」


「どこで」


「中庭の真ん中にでも!」


「雑だな」


「もう雑にしか回せないの!」


 そう言って、サーシャは走り出した。

 木箱。鍋。布。願い札。

 手の足りないところへ、最後にはいつもサーシャが回されるらしい。それでも足を止めない程度には、この見習い修道女は頑丈だった。


 リュカは中庭の真ん中に立った。


 左に施療。

 正面に願い受け。

 右に祈り。

 奥に施しの黒パン。

 その全部のあいだを、同じ人たちが行ったり来たりしている。


 熱のある子を抱えた母親が、施療の列を少し外れて、願い受けのほうを見る。

 願いを聞いてほしい巡礼が、祈り台を諦めて施しのほうへ目をやる。

 ノエルの前に手紙を出した漁師が、結局リシェの列にも並び直す。


 困りごとが増えているだけじゃない。

 行き先を増やしても、人はきれいに分かれない。


 だから同じ人が、三度並ぶ。


「……困りごとが三回並んでる」


 小さくそう言った時、すぐ脇で誰かが足を止めた。

 サーシャだった。

 いつ戻ってきたのか、黒パンの籠を腰で支えている。


「何」


「聖女が三人いるんじゃない」


 リュカは中庭を見た。


「困りごとが三回並んでる」


 サーシャは少しのあいだ、何も言わなかった。

 否定したい顔だった。

 だが、目の前では熱のある子が祈りの列にいて、手紙を持った男が施しのほうを見ている。否定できるほど、現場はきれいではない。


「……たまに、本当にその通りだから腹立つのよ」


 言ってから、彼女は籠を机へ置いた。


「院長さまに会う?」


「会う」


「偉い人にそのまま言わないで」


「たぶん言う」


「ほんと嫌」


 そう言いながらも、サーシャは断らなかった。


 中庭の向こうでは、エレナがまだ熱の子へ濡れ布を当てている。

 ノエルは笑顔のまま、行き場のない願いをまた受けている。

 リシェは座ったまま、聞かなくていいものまで聞いてしまいそうな目で、まっすぐ礼拝堂の奥を見ていた。


 修道院は、まだ昼のうちから削れている。


 院長に会うなら、今のうちだ。

 夕方になれば、中庭は静かになる代わりに、願いは礼拝堂へ集まり始める。


 その前に見せなければならない。

 この並びは、もう崩れかけている。


 見ればわかる。

 礼拝堂の中央だけが、まだ誰も立っていない場所みたいに空いていた。


 入口を変えるだけでは足りない。

 あの空きを背に三人が並べば、聖女ひとりに向くはずの願いが、三つに割れて流れていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ