第三話 聖女が三人いる修道院(3)
院長室へ向かうだけのつもりでも、まっすぐ着けるとは最初から思っていなかった。
中庭を横切ったところで、サーシャはまた足を止めた。
施し籠の前で、黒パンを渡す順をめぐって小さな揉め事が起きていた。
老婆が二人、どちらが先に札を出したかで押し問答をしている。
間に入った若い修道女は、片方には「白札の人が先です」と言った。
もう片方には「でも今日は薬を待っているでしょう」と口にしてしまっている。
どちらも間違いではない。
だから、なおさら収まらない。
「ちょっと待って」
サーシャが割って入る。
「白札は戻して、薬待ちは左の庇、パンはここ。順番を混ぜないで」
そう言って、片方の手へ白札を押し戻し、もう片方の肩を左へ向ける。
たったそれだけで場がほどけた。
そこへ今度は薬湯を運ぶ見習いがぶつかりそうになり、サーシャはその肘を取って向きを変えた。
「……毎日こんな感じか」
「もっとひどい日もある」
サーシャは息も整えずに答えた。
「巡礼が少ない日は病人、病人が少ない日は手紙と遺品」
サーシャは歩きながら、まだ揉めている列へ顎を向けた。
「来る人の困り方はばらばらなのに、入口で一緒くたにしてるから」
「受け口は三つある」
「箱も列も三つ。でも中へ入れば、結局ぜんぶぶつかるの」
彼女はそう言ってから、やっと院長室のほうへ歩き出した。
廊下はひんやりしていた。
石壁はまだ昼の熱を通しきらず、窓から射す光だけが床へ四角く落ちている。
その途中で、リュカはもう一度エレナのところを横切った。
熱の子を寝かせた板の脇で、エレナが薬湯を匙に取っている。
匙を持つ手は細く、手首の筋が浮いていた。
熱の子の母親は泣きそうな顔でそれを見ている。
エレナは「少しずつ」と言い、子の喉が動くのを見てから、また一口だけ入れる。
その繰り返しだ。
大きな奇跡には見えない。
だが、ああして細い手を休みなく動かしていれば、人は削れる。
横で、サーシャが小さく言った。
「エレナが触ると、少し落ち着くの」
サーシャが歩きながら言った。
「熱でも、痛みでも、息の乱れでも、触ると少し引く。だから皆、まずあの子に手を出す」
エレナはまた、別の子の額へ布を当てていた。
「でもそのたび、エレナのほうまで苦しそうになる」
「止めないのか」
「止めるわよ。でも、次が来るの」
次に、ノエルの机の前を通った。
こちらはもっと悪かった。
作業台の手紙の束はさっきより増えていた。
布包みも二つ増え、小箱のひとつはもう机の端から半分はみ出していた。
ノエルは笑っていた。
よくできた笑顔だった。
だから余計に、人はそこへ物を置いていってしまう。
「この子に渡せば、何とかなる気がするのよ」
サーシャが言った。
「返す先のないものまで、な」
ちょうどその時、年老いた漁師が小さな木箱を差し出した。
「これは息子の指輪だ。船が戻らん。せめて祈り台の前へ置いてくれ」
ノエルは、ほんの一拍だけ迷った。
だが、結局受け取った。
「預かります」
その「預かります」は、ただ受け取るだけの声ではなかった。相手のものまで一緒に抱え込んでしまう声だった。
リュカは机の脇の帳面へ目をやった。
名前と願いと預かり物の印が、全部同じ欄に押し込まれている。
人の未練には、仕分けの欄がない。
最後に、礼拝堂の入口近くへ向かった。
リシェは動いていなかった。
相変わらず祈り台の前に座り、両手を膝に置いたままだった。
だが近づいてみると、何もしていないわけではないのがわかる。
指先が、布の上でごくわずかに震えている。
聞きたくないものを、じっと聞いている時みたいな震え方だった。
列の先頭にいた巡礼の女が、何かを囁いた。
声は聞こえない。
リシェは頷きもしない。
それでも女は、少しだけ肩を落として下がった。
「何も返したわけじゃない」
リュカが言った。
「でも、返事をもらった気になる」
サーシャが低く答えた。
「だから一番危ない」
礼拝堂の扉は半分だけ開いていた。
奥に長椅子が並び、祭壇の上には燭台が三本立っていた。
中央の壁だけ、周りより板の色が浅い。
昔、そこに聖像が立っていたのだろう。
空いた場所だけ、妙に目を引く。
「院長さま」
サーシャが扉を叩いた。
「旅人を連れてきました」
中から、細い声がした。
「入りなさい」
院長室は、思っていたより片づいていた。
窓辺に乾いた薬瓶。
書き物机には祈祷書。
その横に三冊の帳面。
さらに、色の違う紙片を挟んだ束が二つ。
全部をきれいにしまう余裕まではない。それでも、どこに何があるかだけはきちんと残っている部屋だった。
院長マドレーヌは小柄だった。
痩せていて、膝掛けをかけたまま椅子に座っている。
だが、目だけは眠っていない。
寝不足というより、長く眠らないことに慣れた人の目だった。
「旅の方」
彼女はリュカを見た。
「見習いが、門前で余計なものを拾ってきたと」
「拾ったのは向こうです」
リュカが言った。
サーシャが眉を寄せた。
「可愛げがない」
「よく言われる」
マドレーヌはそこで、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「それで、門前で何を見ましたか」
「三本の列」
「ええ」
「寄進箱が三つ」
「ええ」
「願い札の籠も三つ」
「そうですね」
「足りないのは聖女じゃない。入口で振り分ける手だ」
院長はすぐには返さなかった。
代わりに、手元の三冊の帳面を指先でそろえた。
「施療帳、願い受け帳、施し帳。たしかに三つあります。ですが、これでも減らしたほうです」
「減らしたつもりでも、入口が三つに割れてる」
リュカは言った。
「熱の子が祈りの列にいる。祈りに来た者が鍋場を見る。願いも頼みごとも、ここへ積まれていく」
リュカは窓の外へ目をやった。
「施療の前に、まず分ける手が足りてない」
サーシャが横で息を止めた。
マドレーヌはその反応を見てから、ゆっくり頷いた。
「その通りです」
「院長さま」
サーシャが、少しだけ言いかけた。
「でも……」
「いいのです」
マドレーヌが制した。
「見えているものを、見えないことにはできません」
その言い方では、サーシャも黙るしかなかった。
院長は机の端の紙片を寄せた。
色の違う紙片には、それぞれ家名が書かれていた。同じ家の紙が、三冊にばらけて挟まっていた。
「同じ一家の者が、施療と願い受けと施しにそれぞれ並ぶ。寄進まで加われば四つです」
「誰も嘘はついていない。悪意で列を乱しているわけでもありません」
「ですが、一家ごとに見れば、もう入口の時点で分かれてしまっている」
「だから、そのしわ寄せが三人に来る」
リュカが言った。
院長の目が少しだけ細くなった。
「厳しい言い方ですね」
「厳しくない」
「どう違うのです」
「事実だ」
サーシャが深く息を吐いた。
同意したくないが、もう否定もできない顔だった。
「……ほんと嫌」
「だろうな」
マドレーヌはそのやりとりを見ていたが、口は挟まなかった。代わりに、窓の外の礼拝堂へ一度だけ目をやった。
「今夜、司教代理が来ます。見物ではなく、見定めに来ます」
静かな声だった。
それでも、その一言で部屋の空気が変わった。
「奇跡認定の下見です。噂はもう王都まで届いている」
院長は窓の外の三人を見た。
「王都へ上がった報告には、三人それぞれの恩寵とあります。自分の目で確かめるのでしょう」
サーシャが露骨に顔をしかめた。
「それは嫌」
「そうですね」
院長は疲れたように頷いた。
「ですが追い返せば、寄進は減ります。巡礼も減ります」
院長は、机の端にある紙片を一枚押さえた。
「施療の湯も、冬の備えも細っていく」
紙片を押さえる指に、少しだけ力が入った。
「手紙を運ぶ使いの足まで遠のくでしょう。この院は、清いだけでは回りません」
「だから聖女扱いをやめられない」
リュカが言った。
「ええ」
院長は認めた。
「ここでは、切れば回るものと、切れば立ちゆかなくなるものが、同じ入口から入ってくるのです」
窓の外で、礼拝堂の鐘がひとつ鳴った。
時刻を告げる音ではない。誰かが綱に軽く触れた程度の、半端な響きだった。
リュカは目を上げた。
「鐘楼の綱は何本だ」
「三本」
院長が答えた。
「今は一本しか使っていませんが、古い綱が二本、まだ梁に残っています」
「中央の聖像は」
「火事で失いました。三十年ほど前に」
「空いたままか」
「ええ」
鐘楼には三本ぶんの綱が残っている。
祭壇の中央は空いたまま。
願いを預かる机は三つ。
そこへ三人の見習いが置かれている。
ばらけた役目だけが、古い形の上へ継ぎ足されていた。
「今夜まで待たないほうがいい」
リュカが言った。
サーシャがすぐに返した。
「待ってないわよ。待ってないけど、人は増えるし、湯は減る」
サーシャは窓の外の三本の列を睨んだ。
「受け口は三つのままだし、私は一人しかいないの」
「最初の入口を一つにしろ」
「どうやって」
その問いは、怒鳴りではなく、疲れ切った声だった。
リュカは少し考えてから、手元の三冊の帳面を見た。
「最初に、人を分ける札が要る」
院長もサーシャも、同時にこちらを見た。
「赤は熱と傷、青は書状と探し人、白は祈り、木は施し」
リュカは帳面の端を指で押さえた。
「入口で切れ。中で混ぜるな」
「白札だけじゃ足りないってこと?」
サーシャが言う。
「そうだ」
「人が足りないのに?」
「足りないなら、おまえが立て」
「嫌な命令」
「そうだな」
サーシャは言い返しかけ、それからぐっと飲み込んだ。
頭の中でやってみている顔だった。
きっと、回る形が少し見えてしまったのだろう。
院長マドレーヌは、窓の外の三人を見た。
エレナはまだ熱の子の額へ布を当てている。
ノエルは笑顔のまま、行き場のない願いを引き受けている。
リシェは祈り台で、誰にも聞こえないものへ耳を澄ませたまま座っていた。
「今夜、司教代理が来る前に、入口を変えましょう」
院長が静かに言った。
サーシャが目を見開いた。
「今から?」
「今からです」
「嫌よ」
「わかっています」
「絶対に文句が出る」
「ええ」
「列も崩れる」
「崩れるでしょう」
「それでもやるんですか」
院長はそこで、手元の施療帳を閉じた。
薄い音だった。
だが、その一音でこの部屋の話は決まった。
「今、変えるべきは人の列ではありません。入口です」
サーシャは数拍のあいだ黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……つくづく嫌」
「そうか」
リュカが言った。
「おまえのその返し、たまに本気で腹立つ」
「便利だろ」
「認めたくないけど」
窓の外では、修道院の昼がまだ続いていた。
三人の見習いも、列も、寄進箱も、願い札も、全部そのままだ。
だが、このまま夜へ入れば、三人の口から先に答えがこぼれ始める。もうそう見えていた。
夜が来る前に、入口を変える。
変えるなら今しかない。
遅れれば、礼拝堂のいちばん奥から、三人の誰のものともつかない答えが先に返ってくる。




