第三話 聖女が三人いる修道院(4)
入口を変えると決めた瞬間、中庭が一度だけざわついた。
人は、列が長いことには案外慣れる。
待たされることにも、文句を言いながら順応する。
だが、並び方そのものを変えられるのは嫌う。
今まで自分が立っていた場所が「そこではない」と言われるだけで、急に立つ場所を失ったみたいに足が止まる。
正門の前へ、長机を一つ引き出す。
願い札の籠は三つあった。
寄進箱も三つ。
施しを渡す場所まで、いつの間にか礼拝堂寄りと中庭寄りの二か所に分かれていた。
サーシャはそれを見て、まず手近な願い札の籠を持ち上げた。
「これ、正門へ移す!」
年かさの修道女が目を丸くする。
「今から?」
「今から!」
「でも祈りの列が――」
「だから入口で分けるの!」
言いながら、サーシャはそのまま籠を抱えて走った。
リュカは隣の寄進箱を持ち上げる。
中身はたいして重くない。
だが、箱が浮いた瞬間、列の何人かが不安そうにそれを目で追った。
皆、そこが入口だと思い込んでいたのだ。
正門前に机を置く。
願い札の籠を一つにまとめる。
寄進箱も一つに寄せる。
施しの黒パン籠は中庭の端へ下げる。
「札は」
リュカが言った。
サーシャはもう正門脇の物置へ半身を突っ込んでいた。
「色布ならある!」
「紙は」
「記帳用の紙の切れ端!」
「木札は」
「古い施し札を削る!」
返事が速い。
考えるより先に身体を動かす人の物言いだった。
少しして、サーシャは両腕いっぱいに端切れと白木の小札を抱えて戻ってきた。
赤い布、青い布、白布、それに何も巻かれていない木札。
思ったより色は揃っていない。
白は少しくすみ、赤も深い色ではない。
だが、今すぐ使う札にはなった。
リュカは言った。
「赤は熱と傷と寝込み、青は書状と探し物、白は祈り、木は施し」
「……嫌なほど、しっくりくる」
サーシャが言った。
「嬉しくない」
「そうだな」
彼女は木札に布を巻き始めた。
指が速い。
ただ、結び目だけは少し荒い。急いでいるからだ。
リュカはその横で、白木札に簡単な切り込みを入れる。
赤は一本、青は二本、白は丸、木札は何もなし。
色が見えなくても、指でわかるように。
「そこまでやるの?」
サーシャが聞く。
「急いでる時ほど、色は見落とす」
「……そういうところ、本当に嫌」
嫌なのは札じゃない。こういう時でも、その先まで見ているところだ。
嫌そうに言いながらも、サーシャは自分でも白札の縁を指で確かめた。
門前の列は、もうざわつき始めていた。
「何を始めたの?」
「列を替えるの?」
「いま並んでるのはどうなるんだ」
「私はどこへ行けばいいの」
その問いに一つずつ答えていたら、夜になる。
サーシャが机の前へ立ち、息を吸った。
「聞いて!」
その声は、中庭で怒鳴る時より少しだけ張っていた。
門前の人間が、ようやく顔を上げる。
「いまから入口は一つにする! 順番に札を渡すから、それを持って並び直して!」
「何でそんなことを――」
「何でって、いまのままだと熱のある子が祈りの列で倒れるからよ!」
その一言は強かった。
門前にいた何人かが黙る。
「熱、傷、寝込みは赤札! 手紙と探し物は青札! 祈りだけなら白札! 施しは木札!」
門前のざわめきが、そこで少し沈んだ。
「寄進は箱へ一度だけ! 同じ人が三つの列に並ぶのは禁止!」
最後の一言に、いちばん後ろのほうで年かさの巡礼が小さく咳払いをした。図星だったのだろう。
最初に机へ来たのは、さっき熱のある子を祈りの列に並ばせていた母親だった。抱いた子の頬は赤い。額に汗が浮いている。
「札を」
サーシャが言う。
母親は一瞬だけ願い札を見せかけ、それから唇を噛んだ。
「……熱です」
「赤」
サーシャが即座に渡す。
「左の庇。エレナの列。一番前へ」
サーシャは母親の手元を見た。
「願い札はあとでいい」
母親は赤札を握り、少しだけ泣きそうな顔で頷いた。
次は、封書を持った老人。
青札。
その次は、黒パンの欠片を布に包んだ老婆。
木札。
巡礼杖の男は白札。
漁師は青札。
咳をした若い兵は白札を握っていたが、サーシャはその手元を見るなり、それを取り上げて赤札へ替えた。
「祈りたいのはわかる。でも先に熱!」
「……はい」
兵は少し恥ずかしそうに赤札を受け取り、白札の列から半歩外れた。
それを見て、後ろの巡礼も手元の札を見直した。
机の横で、リュカは寄進箱の位置をさらに半歩ずらした。
入口の真正面には置かない。
寄進したくなる相手と、助けを求める相手が近いと、すぐ混ざる。
寄進箱は人を整える道具じゃない。
真正面にあると、願いも施しも先に箱の前で足を止める。
「そこに置くの?」
サーシャが問う。
「寄進は入口のついででやるものじゃない」
「……そういうところが嫌」
嫌なのは言い方じゃない。寄進箱ひとつで、人の流れまで読んでいるところだ。
だが、反対はしない。
正門の列を見返す目つきが、前より流れを掴んでいた。
中庭の奥では、エレナの前に赤札の列ができた。
さっきまで願い札や施し札まで混ざっていた列から、熱で赤くなった額や、傷を押さえた手が前へ出る。
数は減らない。
それでも、エレナの前には触るべき相手だけが残った。
「こっち、布足りる!?」
エレナが声を上げた。
「濡れ布、あと五枚!」
「すぐ!」
サーシャが返した。
返しながらも手は止まらない。机の前へ来た人間に札を渡し、次の問いを短く切る。
「熱? 願い? 施し? 手紙? いま一番要るものを言って」
机の前へ来た者は、そこで一度だけ口をつぐんだ。
いくつも抱えてきた顔で、それでも最後はひとつだけを口にする。
机の前へ出る札は、もうほとんど青だけになっていた。
熱のある子も、施し目当ての者も、そこへ来る前に横へ流れていく。
机にはまだ手紙も小箱も山のようにある。
それでも、机へ新しく載るのは青札の相談ばかりだった。
「返せないのに受けるな」
リュカが机を見て言った。
「知ってる」
ノエルは口元だけで答えた。
「でも今は、一つずつ断ってる時間がないの」
「箱を分けろ」
「どうして?」
「返す先のないものと、あとで回せるものが、同じ机に積まれてる」
ノエルの笑顔が一瞬だけ止まった。
それから、机の端の小箱を二つ、自分で分けた。
「これは返事待ち。こっちは祈り台へ置くもの」
「そうだ」
「……嫌だわ、そういうのすぐわかる人」
そう言いながらも、手紙の山はさっきより少し低くなった。
礼拝堂の前も、変わり始めていた。
白札だけを持つ者が、ようやくそこへ集まる。
列はまだ長い。
それでも、熱の子が泣く声も、施し籠を気にするざわつきも、もう混じらない。
リシェの前に並ぶ者だけが、白札を胸の前で持ち直し、一度だけ目を伏せる。
その仕草が、長い列のあちこちで静かに繰り返された。
「……昨日より、少ない。ここ」
礼拝堂の脇で列を数えていた雑役の少女が、小さく言った。
「少なくていいの」
サーシャは即答した。
「減っていい列は、減らしていいの」
その一言が、中庭じゅうへ広がったわけではない。
だが、施しの籠を抱えていた若い修道女が、自分から木札の列へ移った。
大鍋を見ていた年かさの修道女も、赤札の机のほうへぬるま湯の桶を寄せる。
そこから、流れが少しずつ変わり始めた。
昼を回るころには、正門前の三本の列は消えていた。
代わりに、入口の机の前へ列が一本ついた。
そこから赤、青、白、木の札が、中庭のそれぞれの持ち場へ流れていく。
門前で怒鳴り返す声が減り、列は細く長く前へ伸びた。
サーシャは机に手をつき、やっと深く息を吸って、肩を回した。
「……これで、やっと入口らしくなった」
「どこが」
リュカが聞いた。
「同じ人が、入口の前を何度も行ったり来たりしなくて済む」
「そうか」
「そうよ。いつのまにか、それが当たり前になってたの」
門前では、さっきの熱の子の母親が赤札を握ったまま、今度は施療の列の中で座っていた。唇はまだ固く結ばれていたが、足はもう白札の列へ向かわない。
エレナはその子の額に布を当てながら、ようやく少しだけ顔を上げていた。
ノエルの机には、まだ手紙の山が高く積まれている。それでも、さっきみたいに端から崩れて床へ落ちたりはもうしない。
リシェの前の白札の列は長いままだが、途中で咳き込んだり泣き崩れたりする者は減っていた。そのぶん、礼拝堂の静けさが列のあいだへ少しずつ戻っていた。
怒鳴り声より先に、桶と鍋の音が聞こえるようになっていた。
そこへ、調薬室のほうから年かさの修道女が顔を出した。
「見習い!」
「何!」
「鍋が一つ空いたよ!」
サーシャがぱっと顔を上げた。
「ほんとに?」
「赤札が効いたんだろうね!」
その声のあと、中庭のあちこちで上がりっぱなしだった肩が、ひとつずつ落ちた。
鍋が一つ空いた。
すぐ裏で、布桶を抱えた修道女が一人、その空いた鍋へ回る。
赤札の列では、次の濡れ布が間を置かず、子の額へ乗る。
「……これで」
サーシャが言いかけた。
「言うな」
リュカが先に切った。
「何の話」
「“これでいける”」
サーシャは眉を寄せた。
「言ってないでしょ」
「今、そういう顔をした」
「“見ればわかる”って?」
「そうだ」
「本当に腹立つ」
そう言いながらも、彼女の口元はほんの少しだけ緩んだ。
ほんの少しだ。
それでも、この修道院では大きい。
礼拝堂の戸口を風が撫でた。
燭台の火が細く揺れる。
中央の空いた場所だけが、灯を受けて妙に白く浮いて見えた。




