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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
17/33

第三話 聖女が三人いる修道院(5)

 夕方になると、修道院は少しだけ静かになった。


 人が減ったわけではない。

 昼のうちに入口で札を切り分けたぶん、声のぶつかり方が変わっていた。

 正門前の怒鳴り合いがなくなり、中庭を横切る足も、同じ場所で何度も止まらない。

 鍋はまだ鳴っているし、水桶を運ぶ足も何度も往復する。

 それでも、どこが詰まっているのかは前より見えた。


 サーシャは正門の机へ最後の札束を戻すと、ようやく肩を回した。

 昼からずっと上がりっぱなしだった肩が、そこでやっと下りる。


「ちょっと来て」


 そう言って、彼女はリュカの袖を指先で引いた。


「今なら、あの三人を見せられる」


「今しか見せられないのか」


「こういうのは、手を止めた時じゃないと見えないの」


 中庭の喧噪を離れ、主屋の裏へ回る。

 表の白壁と違って、こちらは仕事の匂いが濃い。

 洗い桶、干しかけの布、薬湯で色の変わった雑巾、切り落としたパンの端。

 無造作に置かれていても、明日また同じように使われるのだとわかる並びだった。


 最初にいたのはエレナだった。

 井戸脇の低い石台に腰を下ろし、両手を水桶へ浸している。

 熱の子の額に触れ続けた手だ。

 冬でもないのに指先が赤い。

 桶の水に沈めても、その赤みはすぐには引かない。


「飲みなさい」


 サーシャが水差しを足元へ置いた。


 エレナは顔を上げた。

 額の髪が張りつき、目の下の影も濃い。

 施療の前では大人びて見えたのに、手を止めると頬の細さばかりが目につく。


「まだ半分残ってるし」


 そう言って、彼女は水差しではなく、自分の濡れた手を見た。


「今なら少し冷やせる」


「……その前に、少し飲んで」


 サーシャは水差しを、エレナのほうへそっと押しやった。


「顔色、よくない」


 サーシャが言った。


「赤札、今日は何人だったと思う」


「数えてない」


「嘘」


「……数えたら嫌になるから」


 エレナはやっと水差しへ手を伸ばした。

 飲み方まで急いでいる。

 ひと口飲み、喉を鳴らし、それで終わらせようとする。

 リュカが桶の横へしゃがんだ。


「手を見せろ」


「たいしたことないわよ」


「それは見てから決める」


「……強引ね」


 言いながらも、エレナは手を出した。

 掌の線に沿って、わずかに白い筋が走っている。

 切り傷ではない。

 濡れ布と薬湯と人の熱に、同じ場所を何度も晒した手の荒れ方だ。


「触りすぎだ」


 リュカが言う。


「止める?」


 エレナは穏やかな声で返した。


「止めたら、次に並ぶ子は誰の前に座るの」


 責める声ではなかった。

 ただ、目の前のことを順に口にしただけだった。


「だから入口で振り分けたんでしょ」


 サーシャが横から言った。


「少しは減ったはずだ」


「減ったわよ」


 エレナはうなずいた。


「でも、そのぶん『ここへ来れば見てもらえる』と思って来る人が増えた」


 サーシャは返せなかった。

 井戸脇の列の先から、たしかにそういう目が何人もこちらを見ていた。


 エレナは濡れた手を布で拭きながら、小さく言った。


「長く触ってるとね」


 エレナは濡れた指先を見た。


「その子の熱なのか、自分の熱なのか、途中でわからなくなる時があるの」


 サーシャは顔をしかめた。


「……そんなこと、なんでもないみたいに言わないで」


「ごめん」


 エレナは少し笑った。

 口元だけが先に上がって、目の奥の疲れはまだ消えていなかった。


「なんでもないわけじゃないわよ。いちいち立ち止まってたら、次の子に触れなくなるだけ」


 サーシャは口を閉じた。

 濡れ布を絞る音だけが残った。


 井戸脇を離れて、今度は回廊の陰へ行く。

 ノエルはそこで、手紙の山と小箱の山の間に座っていた。


 昼に机の前でつくっていた笑顔は、もうない。

 口元はふだんの線へ戻っていて、端だけが少し下がっていた。


 膝の上には封を切られていない手紙が三通。

 床には布包みが四つ。

 小箱が二つ。

 ノエルはそれを、返せるものと返せないもの、祈り台へ置くものに分けかけて、途中で手を止めていた。


「どれから?」


 サーシャが聞いた。


「まだ決めてない」


 ノエルは笑わずに答えた。


「昼のうちに台のものを少し減らせたのは助かった。でも、残ったものが前より目につく」


 ノエルの目が、膝の手紙から床の包みへ落ちた。


「これは?」


 リュカが布包みを一つ指した。


 ノエルは見ただけで答えた。


「息子の指輪。船が戻らない漁師の家のもの」


「返す先は」


「ない」


「こっちは」


「遺書。渡す相手がまだ生きてるかどうかわからない」


「それでも受けた」


「受けるしかないでしょ」


 そこだけ、少し声が強くなった。

 怒っているというより、自分に言い聞かせる声だった。


「ここで“受けません”って言ったら、その人、どこへ行けばいいの」


 ノエルは手紙の封を指でなぞり、開きかけた端をまた押し戻した。


「誰かに一度でも受け止めてもらわないと、家へ戻れないものがあるのよ」


 リュカは少し黙ってから言った。


「……受け取っても、返してやれるわけじゃない」


「そう」


 ノエルは即答した。


「だから嫌なの。わかってるのに、先に手が出るから」


 言い終えたあと、喉の奥で声が少し掠れた。


 サーシャが床へ膝をつき、小箱を一つ自分のほうへ寄せた。


「これは明日の便へ回せる。こっちは祈り台。手紙は今夜は開けない」


「わかってる」


「わかってるなら、手を止めなさい」


「手を止めると、今度は余計なことを考えるの」


「それはもっとだめ」


 ノエルはそこで、ようやく少しだけ笑った。

 昼の机の前で張りつけていた笑顔とは違った。口元にだけ浮かんで、すぐ消える小さな笑いだった。


「サーシャ、今日ちょっと怖い」


「いつもより?」


「だいぶ」


「入口を一人で回したんだから当然でしょ」


 そう言い返しながらも、サーシャの手はもう小箱を祈り台用の籠へ移していた。口が荒くても、手順は崩れない。


 最後に、礼拝堂の裏へ回る。


 リシェは祈り台にはいなかった。

 礼拝堂裏の狭い石段に座り、背中を壁につけていた。

 顔は上がっているのに、視線は石段の手前で止まっていた。

 両手の指先が、耳の下へそっと触れている。


 足音に気づくと、すぐに手を下ろした。

 だが、見られる前に戻すには遅かった。


「ここにいた」


 サーシャが言う。


「少し休んでただけ」


 リシェは小さい声で返した。


「休めてるようには見えないわ」


「……うん」


 認める声だけは、すぐ返ってきた。

 近くで見ると、リシェは三人の中で一番小柄だ。

 昼は静かに整って見えたが、今は肩が少し内へ落ちている。

 長く座り続けたせいか、背中の力だけが抜けていた。


「耳か」


 リュカが聞く。


 リシェは一瞬だけ目を上げた。

 それから、少し迷って頷く。


「全部じゃない。残るものだけ、耳から離れない」


 言葉を選ぶたび、声が半拍遅れた。


「でも、祈りの列が長い日は、返ってこない願いほど先に耳の奥へたまる」


 サーシャは目を閉じた。


「やめて」


「ごめん」


「謝るくらいなら、最初から言わないで」


「でも、耳にはそう残るの」


 リシェは壁の石へ指を這わせた。指先に力が入るたび、肩先だけがわずかに礼拝堂のほうへ向いた。


「届く願いなら、その場に置いていける」


 リシェは礼拝堂の壁を見た。


「残るのは、届かない願いだけ。夜になると、そればかり耳から離れない」


 リュカも礼拝堂の中を見た。

 中央の空枠が、こちらからでも見える。

 まだ明るいのに、そこだけ少し薄暗い。


「だから、ここにいたの」


 サーシャは石段へ半歩寄った。

 声を荒げる代わりに、問いだけを短くした。


 リシェはまた頷いた。


「立つと、足が先にそっちへ向くから」


 そう言って、リシェは石段の縁を指でつかみ直した。


 同じ修道服でも、三人の削れ方は違った。

 エレナは、触れた相手の熱を手に残しすぎる。

 桶の水に浸しても、指の節からすぐには抜けない。


 ノエルは、返せないものをいったん膝の上へ置く。

 そうしてからでないと、作業台へ移せない。


 リシェの耳には、届かない願いばかりが残る。

 夜が近づくほど、目の前の声まで遠く聞こえる。

 その違いを見て、サーシャは中庭のほうを振り返った。


 正門の机。

 その脇の色札。

 もう一本になった列。

 門前で、札を握ったまま立ち尽くす者は、もういない。


「守りたいのよ」


 風にまぎれそうなほど小さく、サーシャが言った。


「この三人を?」


 リュカが聞いた。


「そう。……でも、それだけじゃない」


 サーシャは礼拝堂の空枠を見た。


「この院もよ」


 風が細く吹いた。

 裏庭の干し布が一度だけ鳴った。


「聖女が三人いるって噂が立ってから、門前の巡礼は増えた」


 サーシャは礼拝堂ではなく、中庭の鍋のほうを見た。


「寄進箱も前より早く鳴る。黒パンも、薬湯の葉も、冬の薪も、前より残る」


 サーシャはそこで一度だけ息を吸った。


「それは本当」


「だからやめられない」


「そう。やめたらきれいかもしれない。でも、きれいなまま飢えるのは嫌」


 腹が立つほど正しかった。


「司教代理が来る」


 サーシャが続けた。


「きっと、別々に確かめるって顔をする」


 サーシャは唇を噛んだ。


「最後は“どれがいちばんそれらしいか”って目になる。私はそれが嫌い」


 それでも、サーシャはすぐに首を振らなかった。


「でも、院長さまが断りきれないのもわかる。あの人はこの院の冬まで見てるから」


「そうか」


「だから、事情も知らないまま“やめればいい”って言われると腹が立つの」


「言ってない」


「まだね」


「やめられないなら、せめて中で混ぜるな」


 リュカが言った。


 サーシャが顔を上げた。


「何」


「熱の子を願い札の前へ押すな。手紙を祈りの列へ混ぜるな」


 リュカは礼拝堂のほうを見た。


「三人をまとめて“聖女”へ押し込むな」


「……」


「三人を守りたいなら、まず入口で分けろ」


 サーシャはしばらく何も言わなかった。

 入口の札箱へ視線を落とし、唇の端をきつく噛む。

 昼の入口整理が効いたことを、もう否定できない。


「ほんとに嫌」


「そうか」


「でも、たぶんその通り」


 その時、礼拝堂のほうで、誰も綱を引いていないはずの鐘が小さく鳴った。


 高くも低くもない。

 短く、そこで途切れた音だった。


 リシェの肩がぴくりと跳ねた。

 エレナは井戸のほうで顔を上げた。

 ノエルも机の前で手を止めた。


 サーシャが息を呑む。


「……始まる」


「何がだ」


「夕方の戻り。昼に札で分けても、日が落ちかけると青札の人まで礼拝堂を見るの」


 空枠のあたりだけが、ふっと翳った。

 日が落ちるにはまだ早い。

 なのに礼拝堂の奥だけが、先に薄暗んで見えた。


 正門前が静まったぶん、今度は礼拝堂の前で立ち止まる足が増えた。

 白札の列だけじゃない。青札を握ったまま、そちらへ目をやる者もいる。

 三人の疲れ方は違う。それでも礼拝堂の気配が変わると、三人とも真っ先にそちらを見た。


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