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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第三話 聖女が三人いる修道院(6)

 日が沈みきる前から、修道院では夜の支度が始まっていた。


 正門の列は一本にしたままだ。

 門前は静かになった。

 そのぶん、奥で進む支度の音がよく聞こえた。

 中庭の奥では、古い卓が拭かれていた。

 礼拝堂の床には薄い布が敷き直されている。

 普段は箱にしまってある銀縁の燭台まで、今日は持ち出されていた。


 祈りの場として客を迎える支度だ。

 礼拝堂の支度が始まると、サーシャの手つきはすぐにこわばった。

 入口の机を片づけながら、彼女はずっと無言だった。

 木札を箱へ戻す指に、昼より少し力がこもる。

 白札は白札、赤札は赤札で重ねる。

 そのたび、端を揃える手つきだけが妙にきつい。


「そこはそのまま」


 リュカが言った。

 机の隅へ残してあった木札の束を、サーシャが箱へしまおうとしていた。


「何よ」


「入口の札をしまうな」


「今夜は礼拝堂が先」


「だから残せ」


 サーシャは眉をつり上げた。


「これを?」


 木札の束を少し持ち上げた。赤、青、白、木。昼のあいだ散々、人の流れを分けた札だ。


「司教代理が来るのよ。礼拝堂の入口に、昼の札をまだ置いておけって?」


「その札がないと、明日の朝また入口が混ざる」


 リュカがそう言うと、サーシャは少しだけ口を結んだ。

 一度だけ札束を見下ろし、舌打ちを飲みこんだ。

 結局、札束は箱へしまわず、机の下段へ寄せた。目にはつかないが、手を伸ばせばすぐ届く位置だ。


「本当に嫌」


「わかってる」


「そう返せば済むの、便利よね」


「当たってるからだろ」


「それが腹立つの」


 門の外で、馬車の車輪が石を噛む音がした。

 重くはない。護衛も少ない。

 だが、止まり方だけが妙にきちんとしていた。

 城からの使いでも、商会の荷でもない。

 礼拝堂の前へ人を降ろす馬車みたいに、ぴたりと止まった。

 中庭の空気が一段だけ張った。


「来た」


 サーシャは先に正門へ向かった。

 声を荒げる前に、まず相手の靴と随行の数を見る。


 夕方の光が石壁を浅く染める中、馬車は一台だけ止まっていた。

 車体は飾りすぎていない。

 だが、車輪も金具もよく磨かれている。

 護衛の騎馬が二騎、僧服を着た若い書記が一人。

 馬車の扉が開き、司教代理が降りてきた。


 痩せても太ってもいない、中年の男だった。

 紫の帯をきちんと締め、裾についた泥だけが、ここまでの道の長さを見せている。

 顔立ちはやわらかい。

 だが、目だけは先に動き、門、机、列、立っている人の数を順に拾っていった。


「マドレーヌ院長」


 司教代理は、門のところまで出てきた院長に軽く頭を下げた。


「お迎えいただき恐縮です」


「遠いところをようこそ」


 院長も礼を返した。小柄な体で、今日も膝掛けは外さない。だが、声だけは細くても折れない。


 司教代理の視線が、正門の机へ落ちた。


 札束。

 まだ残っている願い札の籠。

 ひとつにまとまった寄進箱。

 それらを一目でさらった。


「少し様子が変わりましたな」


 言い方は穏やかだった。

 だが、その声のまま、目だけが机の端をなめていく。

 責めるより先に、値踏みする目だった。


「入口を一本にしました」


 院長が答えた。


「昼のうちは、そのほうが門前で迷う者を減らせますので」


「三人の恩寵を、入口で一つにまとめるのですか」


 司教代理はそう言って、口元だけで微笑んだ。

 やわらかい笑いだったが、目は一度だけ入口の机へ戻った。


「施療、願い受け、祈りを、入口で振り分けるだけです」


 院長が言った。


「恩寵まで混ぜるつもりはありません」


「そうですか」


 司教代理は、そこで追及しなかった。

 代わりに、視線だけを礼拝堂のほうへ移した。


「三人は」


「それぞれ持ち場におります」


「では今宵、日暮れの鐘のあと、礼拝堂を閉じてお会いしたい」


 横で、サーシャの肩がわずかに動いた。

 それでも口は開かない。先に奥歯を噛みしめた。


 院長は一拍置いた。


「本日はかなり人が多く」


「承知しております」


 司教代理が重ねた。


「ですから長くは取りません。ただ、噂はもう噂で済ませられなくなっている」


「三人それぞれに恩寵が現れたとの報告が、すでに王都へ届いています」


 司教代理の視線が、礼拝堂の戸へ戻った。


「今夜はその事実関係を、この目で確かめたい」


「帳面に残っていて、あとで確かめのついた件を三つだけ見ます」


 そこで初めて、サーシャが顔を上げた。


「……あの子たちも?」


「入れてもらいます。ですが並べて見せよとは申しません」


 司教代理は若い書記へ目を向けた。


「礼拝堂は閉じます。こちらで話を通した者だけを入れる」


 書記の筆先が、帳面の上で止まった。


「呼ばれた者だけ前へ。一件ずつ、短くうかがう」


 見世物ではなく、調べる場だと示されると、横にいた年かさの修道女まで口をつぐんだ。はね返しにくい種類の頼みだった。


 院長は少しだけ目を伏せ、それから頷いた。


「日暮れのあと、礼拝堂にて」


「感謝します」


 司教代理は頭を下げた。

 横で書記が帳面を開き、院長の言葉に合わせていくつか名前を書きつける。

 今夜、礼拝堂へ通す者を控えているのだ。

 護衛は動かない。

 こういう場に慣れた動きだった。


 だが、門の内側では誰も息を抜かなかった。

 年かさの者は口を閉ざし、若い見習いたちは視線を泳がせる。

 誰も大声では反対しない。

 大声で逆らえる相手ではないからだ。


 司教代理が礼拝堂へ向かう間、サーシャはずっと唇を結んでいた。

 人目が少し切れたところで、ようやく押し殺した声で聞いた。


「……それでも、あの子たちに答えさせるんですか」


「ええ」


 院長は短く答えた。


「断れません」


 サーシャはすぐには言い返さなかった。

 それでも、飲みこみきれないものだけが残る。


「……どうして」


「今ここで断れば、噂だけが先にひとり歩きするからです」


 院長は声を上げなかった。


「見ないまま帰せば、王都ではもっと勝手な聖女像だけが広まります」


 院長の声は静かなままだった。


「なら、こちらの目の届くところで、一度見せたほうがまだましです」


「その“まだまし”のために、あの三人が削れる」


「そうですね」


 院長は目をそらさなかった。


「だから、長くはしません。呼ばれた者だけ前へ出します」


 サーシャは奥歯を噛んだまま、何も言わなかった。

 司教代理が礼拝堂へ消えたあと、中庭にはまた仕事の音が戻った。

 だが、昼と同じ音に戻ったわけではない。


 修道女たちは、施療や施しの手を動かしながらも、耳だけは礼拝堂のほうへ向けていた。

 願い札の籠を動かす手つきまで、いつもより静かだ。

 紙が鳴るたび、何人かの目が礼拝堂の戸へ流れる。


 サーシャが舌打ちして言った。


「確かめるって、どこまで削らせる気よ」


「今のままを出すしかない」


 リュカが言った。


「それが一番まずいのよ」


「わかってる」


 サーシャは本気で睨んだ。


「“わかってる”ばっかりね」


「今はそれしかない」


「腹立つ」


 そう言ってから、サーシャは勢いよく踵を返した。


「来て」


「どこだ」


「三人のところ。中へ入る前に、せめて息だけでも落ち着かせないと」


 最初にエレナのところへ行く。

 井戸脇で冷やした手は、もう乾いていた。

 だが、乾いたぶん白さがかえって目立つ。

 施療の列は少し減ったとはいえ、その白さが薄れるほどではなかった。


「夜、立てる?」


 サーシャが単刀直入に聞いた。

 エレナは少しだけ笑う。


「立っていられる」


「そういう返し方、嫌」


「ごめん」


「笑わないで」


 エレナは肩をすくめた。


「笑わないと、かえって皆が不安になるもの」


 水差しを持つ指が少しだけ震えた。

 それを隠すみたいに、彼女はすぐ別の仕事へ手を伸ばそうとした。

 サーシャが先にその手首を押さえた。


「もう触らないで」


「あと一人だけ」


「だめ」


「でも、熱が」


「鍋は回ってる。今は座って」


 エレナは抗いかけ、そこで初めて膝の力を抜いた。

 座れと言われて、ようやく自分の膝がふらついていることを認めた。


 次はノエルの机へ向かった。

 机の山は少し低くなっていた。だが、口元だけは昼より重く結ばれていた。


「夜、立てる?」


 サーシャが聞く。


「立ってはいられる」


「その言い方やめて」


「じゃあ、“立てるけど、立ちたくはない”」


 ノエルは笑わずに言った。


「どうせ皆、自分の聞きたいことを、あたしの口で確かめたいんでしょう」


「それは司教代理の役目でしょ」


「違うわよ」


 ノエルは手元の手紙を見た。


「見に来る人って、胸の中にもう聞きたい返事を持ってるものよ」


 ノエルの指先が、手元の封をひとつ、かすかに鳴らした。


「今は、やさしい顔しないで立って」


 サーシャが言う。


「え?」


「そういうやさしい顔すると、余計に皆が預けに来る」


「……それ、かなりひどい」


「ひどいけど、そう見えるの」


 最後にリシェのところへ行く。


 さっきまで礼拝堂の裏で座っていたのに、もう立っていた。

 だが、立っているだけで少し揺れている。

 風ではない。膝と肩が半拍ずつ遅れてついてくる。体の芯だけ、まだ座ったままみたいな揺れ方だった。


「大丈夫?」


 サーシャが聞く。


 リシェはすぐには答えなかった。

 礼拝堂の中を見ていた。

 中央の空枠。

 三本の燭台。

 まだ誰も立っていないのに、そこだけ先に人を立たせる場所みたいに見えた。


「夕方になると、届かない願いだけが耳から離れなくなる」


 リシェが言った。


「人が少なくても?」


 サーシャが聞く。


 リシェは少し迷ってから頷いた。


「少ないぶん、かえってはっきりする時もある」


 サーシャは顔をしかめた。


「だから嫌なのよ」


 リシェは目を伏せた。

 礼拝堂の戸口に立っているだけなのに、つま先だけがわずかに中へ寄っていた。


 そこへ、礼拝堂の中で燭台を整えていた若い書記が出てきた。司教代理の連れだ。細い顔立ちで、三人の顔より、戸口と中の空きを見ている目だった。


「間もなくです」


 恭しく頭を下げた。


「司教代理殿は、日没の鐘のあと、礼拝堂を閉じます」


 書記は帳面の端を指で押さえた。


「名を呼ばれた者だけ中へ。三名の見習いは、先にお入りくださいとのこと」


 扉を閉じる、と先に言われる。

 サーシャの肩が強張る。


「祈りの列は」


「今夜は外で待っていただきます。確認が済むまで、誰も中へは入れません」


 その言葉で、リシェがわずかに目を上げた。

 サーシャの口元だけが歪む。

 列の先で足が止まり、後ろの息も浅くなる。

 それでも書記の目は、礼拝堂の中から戻らなかった。


「短く済ませます」


 書記はそう言って、すぐ礼拝堂へ戻った。


 サーシャが深く息を吐いた。


「何を基準に短いって言ってるんだか」


「測る側には短いんだろう」


 リュカが言った。


「立つ側には長いのに」


「そうだな」


 そこへ、院長マドレーヌが静かに歩いてきた。膝掛けは外していないが、足音まで静かだった。


「三人とも」


 院長が言う。


「今夜は名を呼ばれた者だけ前へ。問われた者だけ答えなさい。ほかの二人は口を開かないこと」


 エレナが小さく頷いた。

 ノエルは口元を押さえた。

 リシェは、少し時間をかけてから頷いた。


 中庭の空気は、もう昼とは違っていた。

 鍋は静かに煮え、願い受けの机も片づいている。礼拝堂の前だけが、灯で少し明るい。

 年かさの修道女が、帳面を抱えて呼ぶ名を確かめていく。

 二度目の熱を出した子の母親。

 西の継ぎ宿から息子の便りが戻った荷車曳きの老人。

 言われた通りにした晩だけ、眠ったまま外へ出ようとしなかった若い兵。

 呼ばれた者だけが戸口の脇へ寄り、そのたび後ろの列が短く息をついた。


 礼拝堂の戸口で、リュカは足を止めた。


 中央の空枠の前に三本の燭台が立ち、布もきちんと整えられていた。

 だが今夜はその手前に広く空きを作ってはいない。

 左の柱の脇、右の長椅子の端、いちばん後ろの壁際に、それぞれ一人ずつ立てるだけの間が空けてあった。


 三人を分けて見るための配置だった。

 それでも中央の空きだけは、何もないはずなのに、そこへ誰かを立たせるために残されているように見えた。


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