第三話 聖女が三人いる修道院(7)
礼拝堂の扉が閉まると、外の中庭の音はぐっと遠のいた。
鍋の蓋が鳴る音。
桶を置く音。
子どもの咳。
それらはまだ壁の向こうにある。
けれど、厚い石と高い天井に吸われて、ここへ届くころには揺れだけになっていた。
残るのは、蝋の匂いと薄い香の煙、それから人が息を詰める気配だけだった。
祭壇の前には三本の燭台が置かれている。
中央に一本。
その左右に一本ずつ。
昔は、その奥に聖像があったのだろう。いまはない。人の背丈ほどの空枠が、祭壇の後ろにそのまま残っている。
どうしても、そこで目が止まる。
中へ通されたのは、院長、司教代理、若い書記、サーシャ、それから書記が帳面から抜き出した三人だけだった。
エレナに手を取られているあいだだけ子が泣きやんだという母親。
ノエルに西の継ぎ宿だと告げられ、その通り息子の便りが戻った荷車曳きの老人。
リシェに言われた通りにした晩だけ、眠ったまま外へ出ようとしなかった若い兵。
母親の袖口は薬湯で濡れていた。
老人の手の中では、何度も開いた便りの折り目が白くなっている。
若い兵は剣を持たず、空の鞘だけを抱えていた。
ほかには、戸口を守る年かさの修道女が一人いるだけだった。
リュカだけは、扉の外で待っていた。
書記の小机は長椅子の脇に置かれていた。
帳面の横には、赤、青、白の札が一枚ずつ並んでいる。
誰が何の用向きで呼ばれたかを、間違えないための印だった。
三人の見習いは、最初から離して立たされていた。
左の柱の脇にエレナ。
右の長椅子の端にノエル。
いちばん後ろ、壁際にリシェ。
まとめて見せるためではない。
互いに触れ合わず、呼ばれた者だけ前へ出すための置き方だった。
司教代理は祭壇の前で振り返った。
「今夜うかがうのは、王都へ届いた報告の中身です」
司教代理は三人を順に見た。
「三人それぞれの恩寵について、確かめます。問われた者だけ答えなさい」
そこで一度、声を切る。
「ほかの二人は口を開かないこと」
エレナは唇を引き結んで頷いた。
ノエルは笑顔を作りかけて、サーシャに一度睨まれ、それをやめた。
リシェは、空枠から目を離すのに少し時間がかかってから頷いた。
「最初の方を」
司教代理が言う。
前へ出たのは、その母親だった。腕の中の子は、いまは息こそ少し楽そうだが、頬はまだ赤い。
母親は、子の背を支える手だけを動かし続けていた。
「帳面では、手を取ると泣きやみ、目で返した、とあります。相違ありませんか」
「……はい」
母親がエレナを見る。
「では、今ここでもう一度、手を」
エレナが一歩前へ出る。
「少しだけ」
そこで、ノエルの口が動いた。
「……少しだけ」
小さかった。
自分でも気づいていないみたいな声だった。
さらに遅れて、リシェも言った。
「少しだけ」
書記の筆が止まる。
サーシャが思わず口を開いた。
「二人とも、喋らないで」
ノエルははっとして口を押さえた。
リシェだけは、言葉を落としたあとも空枠のほうを見たままだった。
司教代理は一瞬だけ三人を見た。
だが、まだ偶然として流した。
「続けてください」
そう言われて、エレナは子の手を取った。
荒かった息が、そこでひとつだけゆるむ。
母親は深く頭を下げ、下がる。
次は、荷車曳きの老人だった。
書記が小机の端の青札へ指を置く。
老人は便りを懐へ戻せず、胸の前で握ったままだった。
「帳面では、『西だ』との返事から三日後に便りが戻った、とあります。相違ありませんか」
「相違ありません」
老人は言った。
「だから、今もそこにいるのかを知りたい」
司教代理はノエルを見た。
「では、あなたが」
ノエルは目を伏せた。
それから口を開く。
「まだ西の継ぎ宿だ」
その声が落ちきる前に、エレナが同じ言葉を口にした。
「まだ西の継ぎ宿だ」
少し遅れて、リシェも繰り返す。
「……まだ、西の継ぎ宿」
今度は、誰もすぐには動かなかった。
エレナが先に自分の口を押さえた。
ノエルは一拍遅れて目を見開いた。自分が何を口にしたのか、そこでやっと気づいた。
リシェだけは、驚くより先に少しだけ肩をすくめた。
サーシャの手が、横でぎゅっと握られた。
司教代理はそこで初めて、三人を見比べた。
問われた者だけが答えるはずだった。もう、そうなっていない。
「もう一件だけ」
そう言ってしまったのは、司教代理のほうだった。
ここで止めれば確認にならない、とまだ思っていた。
次に呼ばれたのは、若い兵だった。
咳をこらえるように喉を押さえ、前へ出る。
書記が白札の脇へ手を移す。
空の鞘が腕の中で小さく鳴った。
「帳面では、水と剣を置いた晩だけ外へ出なかった、とあります。相違ありませんか」
「……はい」
兵は言った。
「でも、三日前からまた、眠ったまま戸口へ向かう。起こされるたび、息が詰まる」
司教代理はリシェを見た。
「あなたに聞きます」
リシェは少しだけ顔を上げた。
まだ答えていない。
その前に、エレナが息を呑む。
ノエルが喉を押さえる。
リシェの指先が、わずかに耳の下へ触れる。
その次の瞬間、三人の口がほとんど同時に開いた。
「今夜は塩を枕元へ。剣は鞘ごと戸口に寝かせて」
「……塩を枕元。剣は、鞘ごと戸口」
「塩を、枕元。剣は、戸口に」
声の出る拍だけが、わずかにずれていた。
残る言葉は、ほとんど同じだった。
ごうん――
鐘が鳴った。
誰も綱を引いていない。
それでも、鐘楼の上からではなく、もっと近いところで鳴ったみたいに聞こえた。
燭台の火が、すっと細くなる。
風ではない。
どの火も、先だけが祭壇の奥へ寄っていた。
空枠の内側が、わずかに白んで見えた。
書記が思わず顔を上げる。
司教代理も、そこで初めて三人ではなく祭壇の中央を見た。
気づけば、三人とも最初の位置から半歩ずつ前へ出ていた。
誰に言われたわけでもない。
それでも、足だけが祭壇のほうへ寄っている。
「もうやめて」
サーシャが言った。
怒鳴る前の、低い声だった。
「まだ確認が――」
司教代理が返しかける。
「だめです」
今度はさっきより強かった。
「もう答えさせないで」
理屈ではない。
ただ、ここで止めなければまずいとしか言えない声だった。
その時、小机の端に置かれていた赤札が、かすかに動いた。
誰も触れていない。
それでも、青札がそれにつづき、白札もじわりと中央へ寄る。
それより先に、母親も、老人も、兵も、気づかぬまま祭壇の前の同じ場所へ足を寄せていた。
三人とも、そこで膝を折りかけている。
サーシャが息を呑む。
それまで三人の見習いを見ていた者たちも、今度は祭壇の前のその一点へ目を奪われた。
その時、戸口の木が小さく鳴った。
外に残っていたリュカが、自分で扉を押し開けたのだ。
入口を守っていた年かさの修道女が止めるより先に、リュカは半身ぶんの隙間から礼拝堂へ入った。




