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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
19/33

第三話 聖女が三人いる修道院(7)

 礼拝堂の扉が閉まると、外の中庭の音はぐっと遠のいた。


 鍋の蓋が鳴る音。

 桶を置く音。

 子どもの咳。

 それらはまだ壁の向こうにある。

 けれど、厚い石と高い天井に吸われて、ここへ届くころには揺れだけになっていた。


 残るのは、蝋の匂いと薄い香の煙、それから人が息を詰める気配だけだった。


 祭壇の前には三本の燭台が置かれている。

 中央に一本。

 その左右に一本ずつ。

 昔は、その奥に聖像があったのだろう。いまはない。人の背丈ほどの空枠が、祭壇の後ろにそのまま残っている。


 どうしても、そこで目が止まる。


 中へ通されたのは、院長、司教代理、若い書記、サーシャ、それから書記が帳面から抜き出した三人だけだった。

 エレナに手を取られているあいだだけ子が泣きやんだという母親。

 ノエルに西の継ぎ宿だと告げられ、その通り息子の便りが戻った荷車曳きの老人。

 リシェに言われた通りにした晩だけ、眠ったまま外へ出ようとしなかった若い兵。

 母親の袖口は薬湯で濡れていた。

 老人の手の中では、何度も開いた便りの折り目が白くなっている。

 若い兵は剣を持たず、空の鞘だけを抱えていた。

 ほかには、戸口を守る年かさの修道女が一人いるだけだった。


 リュカだけは、扉の外で待っていた。


 書記の小机は長椅子の脇に置かれていた。

 帳面の横には、赤、青、白の札が一枚ずつ並んでいる。

 誰が何の用向きで呼ばれたかを、間違えないための印だった。


 三人の見習いは、最初から離して立たされていた。

 左の柱の脇にエレナ。

 右の長椅子の端にノエル。

 いちばん後ろ、壁際にリシェ。


 まとめて見せるためではない。

 互いに触れ合わず、呼ばれた者だけ前へ出すための置き方だった。

 司教代理は祭壇の前で振り返った。


「今夜うかがうのは、王都へ届いた報告の中身です」


 司教代理は三人を順に見た。


「三人それぞれの恩寵について、確かめます。問われた者だけ答えなさい」


 そこで一度、声を切る。


「ほかの二人は口を開かないこと」


 エレナは唇を引き結んで頷いた。

 ノエルは笑顔を作りかけて、サーシャに一度睨まれ、それをやめた。

 リシェは、空枠から目を離すのに少し時間がかかってから頷いた。


「最初の方を」


 司教代理が言う。


 前へ出たのは、その母親だった。腕の中の子は、いまは息こそ少し楽そうだが、頬はまだ赤い。

 母親は、子の背を支える手だけを動かし続けていた。


「帳面では、手を取ると泣きやみ、目で返した、とあります。相違ありませんか」


「……はい」


 母親がエレナを見る。


「では、今ここでもう一度、手を」


 エレナが一歩前へ出る。


「少しだけ」


 そこで、ノエルの口が動いた。


「……少しだけ」


 小さかった。

 自分でも気づいていないみたいな声だった。


 さらに遅れて、リシェも言った。


「少しだけ」


 書記の筆が止まる。

 サーシャが思わず口を開いた。


「二人とも、喋らないで」


 ノエルははっとして口を押さえた。

 リシェだけは、言葉を落としたあとも空枠のほうを見たままだった。


 司教代理は一瞬だけ三人を見た。

 だが、まだ偶然として流した。


「続けてください」


 そう言われて、エレナは子の手を取った。

 荒かった息が、そこでひとつだけゆるむ。

 母親は深く頭を下げ、下がる。


 次は、荷車曳きの老人だった。

 書記が小机の端の青札へ指を置く。

 老人は便りを懐へ戻せず、胸の前で握ったままだった。


「帳面では、『西だ』との返事から三日後に便りが戻った、とあります。相違ありませんか」


「相違ありません」


 老人は言った。


「だから、今もそこにいるのかを知りたい」


 司教代理はノエルを見た。


「では、あなたが」


 ノエルは目を伏せた。

 それから口を開く。


「まだ西の継ぎ宿だ」


 その声が落ちきる前に、エレナが同じ言葉を口にした。


「まだ西の継ぎ宿だ」


 少し遅れて、リシェも繰り返す。


「……まだ、西の継ぎ宿」


 今度は、誰もすぐには動かなかった。

 エレナが先に自分の口を押さえた。

 ノエルは一拍遅れて目を見開いた。自分が何を口にしたのか、そこでやっと気づいた。

 リシェだけは、驚くより先に少しだけ肩をすくめた。


 サーシャの手が、横でぎゅっと握られた。

 司教代理はそこで初めて、三人を見比べた。

 問われた者だけが答えるはずだった。もう、そうなっていない。


「もう一件だけ」


 そう言ってしまったのは、司教代理のほうだった。

 ここで止めれば確認にならない、とまだ思っていた。


 次に呼ばれたのは、若い兵だった。

 咳をこらえるように喉を押さえ、前へ出る。

 書記が白札の脇へ手を移す。

 空の鞘が腕の中で小さく鳴った。


「帳面では、水と剣を置いた晩だけ外へ出なかった、とあります。相違ありませんか」


「……はい」


 兵は言った。


「でも、三日前からまた、眠ったまま戸口へ向かう。起こされるたび、息が詰まる」


 司教代理はリシェを見た。


「あなたに聞きます」


 リシェは少しだけ顔を上げた。

 まだ答えていない。


 その前に、エレナが息を呑む。

 ノエルが喉を押さえる。

 リシェの指先が、わずかに耳の下へ触れる。


 その次の瞬間、三人の口がほとんど同時に開いた。


「今夜は塩を枕元へ。剣は鞘ごと戸口に寝かせて」

「……塩を枕元。剣は、鞘ごと戸口」

「塩を、枕元。剣は、戸口に」


 声の出る拍だけが、わずかにずれていた。

 残る言葉は、ほとんど同じだった。


 ごうん――


 鐘が鳴った。


 誰も綱を引いていない。

 それでも、鐘楼の上からではなく、もっと近いところで鳴ったみたいに聞こえた。


 燭台の火が、すっと細くなる。


 風ではない。

 どの火も、先だけが祭壇の奥へ寄っていた。


 空枠の内側が、わずかに白んで見えた。


 書記が思わず顔を上げる。

 司教代理も、そこで初めて三人ではなく祭壇の中央を見た。


 気づけば、三人とも最初の位置から半歩ずつ前へ出ていた。

 誰に言われたわけでもない。

 それでも、足だけが祭壇のほうへ寄っている。


「もうやめて」


 サーシャが言った。

 怒鳴る前の、低い声だった。


「まだ確認が――」


 司教代理が返しかける。


「だめです」


 今度はさっきより強かった。


「もう答えさせないで」


 理屈ではない。

 ただ、ここで止めなければまずいとしか言えない声だった。


 その時、小机の端に置かれていた赤札が、かすかに動いた。

 誰も触れていない。

 それでも、青札がそれにつづき、白札もじわりと中央へ寄る。

 それより先に、母親も、老人も、兵も、気づかぬまま祭壇の前の同じ場所へ足を寄せていた。

 三人とも、そこで膝を折りかけている。


 サーシャが息を呑む。

 それまで三人の見習いを見ていた者たちも、今度は祭壇の前のその一点へ目を奪われた。


 その時、戸口の木が小さく鳴った。

 外に残っていたリュカが、自分で扉を押し開けたのだ。

 入口を守っていた年かさの修道女が止めるより先に、リュカは半身ぶんの隙間から礼拝堂へ入った。


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