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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
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第三話 聖女が三人いる修道院(8)

 三人の見習いは、祭壇の前からまだ動けずにいた。

 エレナの指先は白いままだ。

 ノエルは口を閉じたまま、行き場のない言葉を喉の奥へ押し戻している。

 リシェは空枠から目を離せず、細い肩だけが上下していた。


 燭台の火が、もう一度だけ揺れた。

 中央の一本。左右の二本。

 三つの火は同じふうには揺れていない。

 火先だけが、空いた中央へ少しずつ寄っていた。


 リュカは祭壇の前へ一歩出た。


「院長」


 マドレーヌが視線だけで応じる。


「今夜、願いを受けるのはどこだ」


 司教代理が眉をひそめた。


「それは、いま立っている三人が、それぞれ――」


「違う」


 リュカが切る。


「三人に返事をさせるな。願いはいったん院で引き取れ」


 司教代理が口を開く。


「しかし、それでは三人それぞれの恩寵が見えなくなる」


「見たいのは、本当にそこか」


 リュカは言った。


「それは、あの三人を代償にしてまで見るべきことか」


 その返しに、司教代理は一瞬だけ言葉を失った。

 石床も燭台もきれいに整っている。

 だが、いま目の前で削れているのは燭台でも祭壇でもない。

 立たされている三人だ。

 そこを見誤れば、何を見定めに来たのかまで見失う。


 マドレーヌが前へ出た。


 小柄な体だ。

 だが祭壇の前へ立つと、誰がこの場を収めるのかだけははっきりした。


「今夜、三人には答えさせません」


 細い声なのに、礼拝堂の端までよく届いた。


「寄せられた願いは、いったん院で受けます。今夜はもう、あの子たちの前へ流しません」


 司教代理が口を挟む。


「院長、それでは確認が――」


「今は確認より先に、あの子たちを下げます」


 マドレーヌは答えた。


「この院が先に守るのは、称号ではありません。あの子たちです」


 その言葉で、サーシャの肩が落ちた。

 噛みしめていた顎の力が、そこでやっとゆるんだ。


「紙」


 リュカが言った。


「サーシャ。厚いやつだ。炭も」


「ある」


 返事は早かった。

 彼女は礼拝堂脇の机から、願い札に使う厚紙と短い炭を持ってきた。手は少し震えていた。だが止まらない。


「何て書く」


「願いは院で受ける」


 リュカが言った。


「それだけ?」


「今はそれでいい」


 サーシャは膝をつき、祭壇の段へ紙を置いた。

 炭が紙の上を走った。

 願いは院で受ける。

 急いだ字だった。

 それでも読めた。

 三人へ割らず、いったん院へ戻す。そこだけ読めればよかった。


「籠も一つ」


 リュカが言った。


 サーシャは小机の札と紙片を一つずつ拾い始めた。

 赤札。青札。白札。

 書記が広げていた紙。呼ばれた者の名を書いた控え。

 それを三つには分けない。

 まとめて一つの籠へ入れた。

 もう、あの三人の前へは戻さないつもりの手つきだった。


「三人とも、祭壇から下がりなさい」


 マドレーヌが言った。


「今夜はもう、そこへ立たなくていい」


 エレナはすぐ布の外へ下がった。

 ノエルも唇を噛みながら従う。

 リシェだけは少し遅れた。

 目だけが、まだ空枠から戻らない。サーシャに袖を引かれて、ようやく踵が布の外へ出た。


 三人ぶんの影が、祭壇の前から引いた。


 リュカは燭台へ手を伸ばした。

 左の一本を取った。

 見た目より重い。

 右も取った。

 中央へ寄せる。

 三本を一つの前へ並べた。


 司教代理が言った。


「燭台まで動かすのですか」


「三本のままだと、目がまた割れる」


 リュカは答えた。


 燭台の火が揺れた。

 左右の細い炎が、中央へ少しずつ寄っている。

 風ではない。礼拝堂じゅうの目が、火先といっしょに真ん中へ引かれていた。


 リュカは箱を開けた。

 細い針。糸。小さな鉛印。


 司教代理の連れの書記が、そこで息を呑んだ。

 礼拝堂の祭壇へ出す道具ではない。だから余計に気味が悪いのだろう。


 だがもう、ここで見栄えのいいものを選んでいる場合ではない。


「……嫌いなんだよ」


 リュカが小さく言った。


「こういう間に合わせは」


 一本目の針を、祭壇の石へ。

 石は古い。乾いた手応えが返る。

 二本目を、空いた中央の枠の下へ。

 こちらのほうが、もっと嫌だった。

 何もないはずなのに、まだ誰かを立たせるための場所に見えた。

 三本目を、サーシャが集めた願い札の籠へ。

 白札も青札も、木札の欠片も、その下で小さく鳴った。

 最後の一本を、紙へ。

 さっき書いた文の、「院」の字のすぐ脇で留める。


 細い糸を順にかけ、最後に鉛印を噛ませた。

 白い粉が、祭壇前の石床へひとすじ落ちる。


 耳の奥で、嫌な軋みがした。

 母親も、老人も、兵も、そこでそれ以上は前へ出なかった。

 さっきまで三人の見習いへ寄っていた目が、いっせいに紙と籠のほうへ移った。


 リシェの肩がびくりと跳ねた。

 エレナが思わず片手を胸に当てた。

 ノエルは膝の上の指をほどき、そのまま少しだけ前へ傾いた。


 ごうん――


 鐘が鳴った。


 今度は、空枠の奥だけで鳴った音ではない。

 鐘楼も祭壇も、燭台も、籠も紙も、短くひとつ震えた。


 祭壇前の真ん中だけが、一瞬、白く見えた。

 像にも、人の形にもならない。ただ、そこへ寄っていた目と足だけが、ふっとほどけた。


 エレナは胸に当てた手をゆっくり下ろして、低く息を吐いた。


「……軽い」


 ノエルは目を閉じたまま、膝の上の手をほどいた。


「……返す言葉を探さなくていい」


 声は、息にまぎれるほど低かった。


 リシェだけは、まだ空枠を見ていた。

 だが、足はもう前へ出なかった。

 ひとつ瞬きをすると、視線が祭壇の紙へ戻った。

 肩の力も、そこでほんの少し抜けた。


「静か」


 小さく言った。


 礼拝堂の端にいた立ち会いの者たちは、互いの顔を見たきり、誰も前へ出なかった。

 三人へ手を伸ばす者も、ひざまずく者も、もう出なかった。

 歓声も、そのあとに続く声も、もうなかった。


 司教代理も、もう口を挟まなかった。

 書記へ目をやり、祭壇へ視線を戻した。

 それきり何も言わなかった。


 マドレーヌが、そこで初めて礼拝堂じゅうへ向けて言った。


「今夜は、ここで止めます」


 細い声が、礼拝堂の端まで届いた。


「願い札は入口で受けます。施療は庇へ、祈りは礼拝堂へ、施しは鍋場へ戻します」


 一拍置いて、マドレーヌは三人を見た。


「今夜、ここで三人に答えを言わせません」


 礼拝堂の端にくすぶっていたざわめきも、そこでようやく切れた。


 サーシャが小さく笑った。

 こらえきれず、吐いた息にだけ笑いがまじった。


「遅い」


「知っています」


 院長が答えた。

 礼拝堂の隅で、誰かがやっと息をついた。


 白い跡はまだ、祭壇前の石床から、籠と紙の脇まで細く残っていた。

 夜明けまで残れば、その役目は果たせる。


 祭壇前で、さっきまで人の目を引いていた場所も、もうただの石床に戻りつつあった。


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