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一宿一飯の魔法使い  作者: Sig
第一部 一宿一飯の魔法使い
21/33

第三話 聖女が三人いる修道院(9)

 朝の鐘が、一度だけ鳴った。


 昨夜のような、腹へ響く低い音じゃない。

 修道院に朝を知らせる、いつもの鐘だ。

 空はまだ白みきっていないが、石壁と中庭の井戸枠には、もう薄い朝の色が乗っている。


 正門の前には、列が一本あった。


 三本ではない。

 一本だ。

 昨日までばらけていた人の流れが、今日は一本にまとまっていた。


 机が一つ。

 願い札の籠も一つ。

 寄進箱も一つ。

 机の端には、赤、青、白、木の札を入れた小箱が並び、横には昨夜の紙が残っている。


 この院へ来た願いは、まずここで受ける。


 炭の字は少し滲んでいたが、まだ読めた。

 読めるうちは、そのままでいい。


 机の後ろには、サーシャが立っていた。


 目の下に薄い影はある。

 けれど、昨日の昼みたいに門前じゅうへ目を走らせたりはしない。

 来た人の顔を見て札を渡し、次の札箱へ伸びる手も、もう迷わなかった。


「熱は?」


 子を抱えた母親が頷く。


「赤。左の庇。次」


「手紙を預けたい」


「青。机の前に箱があるから、それに置いて待って。次」


「祈りだけです」


「白。礼拝堂は一人ずつ。戸口で待って」


 短く切っても、列は止まらない。


 昨日は、熱のある子を抱いたまま白札の列へ迷い込む母親がいた。

 今朝は正門で先に札が分かれる。

 赤札を渡された者は左の庇へ向かい、手紙を持った者は青札の箱の前で足を止め、白札だけが礼拝堂の戸口へ流れていく。

 折れた便りを握った老人も、今日は青札の箱の前で待っていた。

 空の鞘を抱えた兵は、白札を受け取っても、すぐ礼拝堂へ入らなかった。


 リュカは井戸の脇に立ち、中庭を見た。


 エレナの前にいるのは、赤札の者だけだ。

 熱の子。

 咳をする老人。

 腕を吊った兵。

 願い札を握ったまま迷い込む者も、施し目当ての者も、もう混ざっていない。

 エレナは相変わらず細い。

 だが今日は、桶から布へ伸びる手が迷わない。

 昨夜みたいに途中で別の声に手を取られず、その往復だけが続いている。

 熱の子に布を当てる前に、エレナは母親の手を桶のほうへ寄せた。


「次は、あなたが押さえて」


 短い声だった。

 けれど、そのぶんエレナの指は、子の額から少し離れられた。


 ノエルの机も、少し違う。


 今日は、封をした手紙が膝へ来る前に仕分けられていく。

 返事待ちの箱。

 祈り台へ回す箱。

 保留の束。

 作業台の端で、浅く分かれている。

 口元はまだ上がる。

 だが笑っても、手はすぐ箱の縁へ戻る。

 昨日みたいに、何でも自分の机へ積んだりはしない。


 リシェは礼拝堂の中にいた。


 祈り台の前だ。

 ただし列は短い。

 一人ずつしか中へ入れないからだ。

 礼拝堂の戸口には白札の者が静かに待ち、雑役の少女が中と外を見ている。

 戻ってきた者は皆、戸口を出るところで一度だけ肩を落としていた。


 昨夜みたいな詰まりは、もう戸口にない。

 皆、戸口をまたぐところでひとつ息を吐き、そのまま白壁沿いへ戻っていく。


 サーシャが、机の合間にこちらを見つけた。


「立ってるなら、せめて箱を押さえて」


 その声に、列の先の巡礼は寄進箱ではなく、先に札を差し出した。

 もう昨日みたいに、声を尖らせるだけではない。


 リュカは寄進箱を少しだけずらした。

 机の正面ではなく、半歩脇へ。

 巡礼の手はまず札へ伸びる。

 箱は、そのあと目に入ればいい。


「まだ寄進箱の置き場所まで気にするのね」


 札を渡しながら、サーシャが言った。


「ここは入口だ」


「……それでいい」


 そう言って、サーシャの口元だけが少しゆるんだ。


「腹立つぐらい、筋が通ってるわね」


 礼拝堂でもう一度、鐘が鳴った。

 朝の二つ目ではない。

 誰かが綱の張りを確かめるみたいに、軽く打っただけの短い音だ。


 昨日みたいに、礼拝堂の奥で余韻がふくらむことはない。


 院長マドレーヌは中庭の奥に立っていた。


 膝掛けは今日もかけたままだ。

 だが、礼拝堂から出てきた巡礼の老女に、自分で水を渡していた。

 老女が受け取るころには、もう次の桶へ手を伸ばしていた。


 その横には、司教代理もいた。


 礼拝堂の戸へ目が戻るたび、口元がまた固くなる。


「院長」


 リュカが声をかけた。


 マドレーヌは小さく頷いた。


「今朝も列は一本です。崩れていません」


「見ればわかる」


 そう言うと、院長の口元が少しだけ緩んだ。


「便利な言い方ですね」


「腹立つけど、たまに役に立つの」


 サーシャが机の向こうから言った。

 その返しに、マドレーヌは何も返さなかった。

 ただ、正門の列をもう一度見た。


 司教代理は礼拝堂の戸へ、もう一度だけ目をやった。


「昨夜のことを、そのまま書き送るわけにはいきません」


 その静かな声に、机の向こうでサーシャの肩先だけが強張った。

 リュカは何も言わなかった。


「ですが」


 司教代理は続けた。


「同じ場へ押し込めても、恩寵は強まらない」


 司教代理は羽根ペンの先を見た。


「そこは理解しました」


 そこでマドレーヌが答えた。


「この院は、増やすより分けるほうが先です」


 マドレーヌは正門の机へ目をやった。


「まず入口で分けることです」


「ええ」


 司教代理は頷いた。


「そのようですね」


 書記の羽根ペンは、その行で止まったきり動かなかった。

 司教代理も、それ以上は言葉を足さなかった。


 サーシャの肩が、そこでほんの少しだけ下がった。


「……そう。いいの」


 机に向いたまま、息にまぎれるような声で言った。


「何か言ったかい」


 列の先頭の老人が聞いた。


「何でもない。青札。手紙はこっち」


 すぐ仕事へ戻った。

 次の札を切る手も、もう列を止めなかった。


 昼前、最後の白札の巡礼が礼拝堂から戻ったあと、リュカは昨日の紙の横へ、もう一枚紙を足した。


 願い札の籠は一つ。

 寄進箱も一つ。

 入口で札を分ける。

 願いを礼拝堂へ寄せない。

 鐘は朝夕に一度ずつ。

 祈りの列は、一人ずつ礼拝堂へ入れる。


 紙を置いた。

 マドレーヌはそれを読み、最後の行で小さく息を吐いた。


「それがいちばん手がかかりますね」


「だろうな」


「でも、いちばん崩れにくい」


「それでいい」


 院長は紙の端を指で押さえた。


「残します」


 短く言って、指だけは紙から離さなかった。


     *


 昼前、リュカは修道院を出る支度をした。


 正門の机は、まだ朝の並びのままそこにあった。

 赤札、青札、白札、木札。

 願い札の籠。

 寄進箱。

 今はどれも、その机を通ってサーシャの手から順に渡っていく。


 サーシャは最後の札束を箱へ戻しかけて、やめた。

 そのまま手元へ寄せた。


「何だ」


 リュカが聞いた。


「今夜また人が増えたら、すぐ出せるところに置いとく」


「そうか」


「そうよ。毎朝、同じ人数とは限らないもの」


 札束は、まだ箱へ戻されないままだった。

 机の角へ揃えたまま、サーシャの手はもう次の巡礼へ伸びていた。


 ノエルが回廊の陰から顔を出した。

 昨日みたいには笑っていない。けれど、朝ほど肩を落としてもいなかった。


「旅人さん」


「何だ」


「置き場の決まってない箱、三つ減った」


「そうか」


「返せたわけじゃないの。でも、どこへ置くかは決まった」


「それでいい」


「……そういう時だけ、嫌なくらいまとも」


 ノエルの机には、返す箱と預かる箱がもう分けて置かれていた。

 ノエルは次の札を取る前に、その二つの箱の縁を指でなぞった。

 迷うたび、先に手で順を確かめていた。

 小箱を抱えた女が泣きそうになると、ノエルは笑顔を作っても受け取らなかった。


「青札の箱へ。私はあとで読む」


 言い切ってから、自分でも少し驚いた顔をした。


 その後ろで、エレナが濡れ布を絞っていた。

 今日はもう、熱の子の列の隣で願い札を受けてはいない。

 手はまだ赤い。

 赤い手は、桶と濡れ布だけを往復していた。

 願い札へは伸びない。

 目の前にいるのも、赤札の者だけだった。


 礼拝堂の戸口では、リシェが白札の最後の一人を見送っていた。

 今日はもう、急いで扉を開けたりしなかった。

 相手の顔を一度だけ見てから、扉を開けた。

 敷居をまたぎ切るまで、扉から手を離さなかった。

 巡礼が振り返りかけると、リシェは戸口の外を指で示した。


「外で、息をして」


 相手は頷き、自分の足で中庭へ戻った。

 昨夜なら抜け落ちていた一拍が、今日は残っていた。

 そのぶんだけ、昨夜の気配は戸口で止まった。


 サーシャが、最後に小さな木札を一枚差し出した。


 白木の札だ。

 片面にだけ、褪せた赤い布の切れ端が巻いてある。

 裏は白木のままだ。


「何だ」


「予備の入口札よ」


 サーシャが言った。


「次の場所で、人の流れが三つ四つに割れてたら、まずこれを置きなさい」


 サーシャは木札を軽く叩いた。


「入口がひとつに決まらないと、その先は全部ばらけるから」


「先に置く」


「そうして」


 彼女は少しだけ笑って、すぐ視線を列の先へ戻した。

 次の札を渡す相手も、もう見失わなかった。


「次に来る時は、会ってすぐ言わないこと」


「何のことだ」


「“足りないのは聖女じゃない。入口で分けることだ”ってやつ」


「気をつける」


「その返しも、もう飽きたわ」


 リュカは札を受け取り、鞄へしまった。


 門を出た。

 香の煙と薬草の匂いが、また風に乗った。

 だが今日は、その二つのあいだに黒パンの湯気が少しだけまじっていた。施しの鍋に、ちゃんと火が入っている匂いだった。


 修道院の正門には、朝から一本の列が続いていた。


 祭壇前の白い跡は、まだ目に残っていた。

 それでも、人は列の先から迷わずそれぞれの持ち場へ流れていた。

 赤札はエレナへ。

 青札はノエルの机へ。

 白札はリシェの戸口へ。

 木札は鍋場へ。

 白い壁の前では、朝の湯気が列の上にだけ細くのぼっていた。

 門前で足を止めて札を見直す者は、もういなかった。


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