第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(1)
結論から言う。
夜の平原で、真っ先に引っ込めるべきなのは、人を待つ家の灯だ。
リュカはその宿へ、腹を空かせて着いた。
外套の裾には、平原の乾いた草の匂いが絡んでいる。
足裏には、硬い土を半日踏んだ痺れが残っていた。
日が落ちきる前から、風割り継場には落ち着きがなかった。
平原のまんなかにある、宿を兼ねた小さな継場だ。
昼なら、門と宿の建物と厩が一つずつあるだけの場所に見える。
けれど日暮れの青い暗さの中では、まるで違っていた。
門柱をつなぐ横木の中央に、鉄輪で吊った返り灯がひとつ。
平原から帰る者へ、ここが風割り継場だと知らせる灯だ。
台所には、鍋の湯気を透かす灯がひとつ。
二階の窓には、低く置かれた灯がひとつ。
厩の板の隙間からは、橙の細い筋がひとつ。
それから道に面した小窓に、指先ほどの火がひとつ。
宿は一つのはずだった。
それなのに、夜道を来る者には
門の横木に吊られた高い灯のほかにも
帰り着く先がいくつも並んでいるように見えた。
風割り継場のまわりには、視界を遮るものがない。
低い柵と、馬をつなぐ杭があるだけだ。
昼なら見渡せるぶん助かるが、夜にはそれが逆に働く。
遠いはずの灯が近く見え、低く近い火ほど道の終わりに見える。
平原に慣れた者ほど、その怖さを知っている。
だから本来、夜の継場が外へ向ける目印は一つでいい。
高い返り灯だけを目印にして、ほかの明かりは家の内へ収める。
そういう夜の手順が、ここでは少しずつ崩れてきたのだろう。
リュカはそこまで見て、門の前で足を止めた。
門柱の脇では、若い男が平原を見ていた。
肩はまだ広がりきらず、手足ばかりが長い。
風が吹くたび、目を細めて遠くをのぞく。
そのたびに、建物の中から声が飛ぶ。
「ハリム、見えたか」
「まだだ」
返事の声も落ち着かない。
門の反対側では、年かさの男が門栓のくさびを木槌で打ち直していた。
槌は重く、手つきは慣れている。
それなのに、打つ間隔だけが一定しない。
平原に耳を残したまま打っている。
男はリュカに気づくと、木槌を止めた。
「泊まりか」
「一晩」
「宿はある。飯も出す。ただし今夜は客の相手をする余裕はない」
「構わない。手が足りなければ呼べ」
男はうなずきもしないで、木槌を腰へ差した。
「ギードだ。入れ」
その時、建物の扉が開き、女が湯の桶を抱えて出てきた。
湯気が白く流れ、頬は赤く濡れている。
年はギードとそう離れていない。
肩からずれた布を素早く上げ、階段へ向かいかけて足を止める。
まず門の外を見た。
「まだ?」
ハリムが首を振ると、女は一瞬だけ目を閉じ、湯の桶を抱え直した。
「二階、また来たわ。布をもう一枚。熱いのを」
「すぐ持ってくる」
ハリムが駆け込もうとした時、二階からくぐもった声が落ちてきた。
痛みをこらえ、短く息を吐く音に近かった。
女は階段へ向かいながら、振り向きもせずに言った。
「騒がないで。ミラに聞こえる」
ギードの口元が少しだけ固くなる。その背中を見送りながら、リュカは聞いた。
「産気づいてるのか」
「娘だ」
「呼びに出た者は」
「産婆は日暮れ前に着くはずだった」
言い終わる前に、ギードはまた門の外を見た。
言葉より先に、目がそちらへ行く。
待ち続けている目だった。
しかも今夜、遅れているのはただの客ではない。
産婆が来る夜は、宿の中の時間が丸ごと変わる。
それをリュカは、言葉より先に、桶や布を運ぶ人の動きで察した。
台所の火のそばには薬草の匂いがうっすら残り、桶の一つにはもうぬるま湯が張ってある。
階段の柱には、いつでもほどけるように布紐が一本巻いてあった。
陣痛の間に握らせるのか、布を吊るすのか、ここでは当たり前の備えだった。
つまりこの家は、産婆が来る前から、来たあとの夜に備えている。
それなのに、いちばん外に向いた場所にだけ、用意ではなく願いの灯がある。
用意と願いが一つの家に同居している夜は、たいてい厄介だ。
リュカは、外を向いたまま誰にも触れられていない火が嫌いだった。
誰かがそこに立ったまま、暗い道を見続けているように見える。
足りるわけがない、とリュカは思った。
この家の者は誰も、いま目に見えている用事だけで動いていない。
広間へ一歩入るだけで、それがわかる。
宿としてはよく片づいていた。
床板に泥の塊はなく、桶も薪も決まった場所にある。
厩の扉も、閉まりきらない癖に合わせて木片を噛ませてあった。
荒れているのは手順ではなく、人の目線だった。
どの目も、同じ方を向いている。
ギードは門のくさびを打ち直していた。
打ち直しが必要なほど傷んではいない。
くさびの頭も、門柱の穴も、まだ十分持つ。
なのに木槌を握っていたのは、握っていないと外ばかり見てしまうからだ。
ハリムは布を抱えていても桶を運んでいても、すぐ門へ顔を向ける。
若い足が余るほど、家の中は落ち着かなくなる。
エルマの動きは、もっとはっきりしていた。
上から下りる時も、下から上がる時も、路側の小窓の前で半歩だけ遅れる。
火皿の火を見ているのか、窓の向こうを見ているのか、そばにいる者にもわからない。
ただ通るたび、必ずそこへ目が行く。
階段の途中には、上へ持っていくはずの布の束が残っていた。
桶のそばでは乾いた布と湿った布が混じり、灰を寄せる鉄棒は火から離れたところへ置きっぱなしだった。
家の中に、いくつも小さな「途中」が残っている。
リュカは、その散らばりを見た。
途中のものが多い家は、たいてい待っている。
上でミラが息を吐いた。
痛みの波がいったん引く時の息だ。
叫ぶでもなく、泣くでもなく、歯の間から細く長く出す息だ。
そのあとに少し間がある。
その間に、下の者が急いで動く。
次の波が来る前に、できることを片づける動きだった。
ハリムが階段に置かれた布へ手を伸ばし、そこでまた外を見た。
伸ばした手が布の端をつかんだまま止まる。
「見に行ってこい」
ギードが言う。
怒った声ではない。
言われなくても走り出しそうなハリムを、先に仕事へ変える声だった。
ハリムは頷き、門へ向かう。
その背中が敷居をまたぐ瞬間、二階からミラの声が落ちてきた。
「母さん」
エルマが階段を上がりかけて振り返る。
「いるわ」
「……そこ、まだ明るい?」
エルマの目が、すぐ小窓へ行った。
ただの明るさのことではない。
それがわかる目だった。
ミラは上から続ける。
「壁に影が出るの。あの窓の灯がつくと、手すりの影が揺れる」
エルマは何も言わない。
リュカはそこで初めて、階段脇の白い壁へ目をやった。
路側の小窓の火があると、手すりの影が一本だけ斜めに伸びる。
二階で横になっていれば、見ようとしなくても目に入る影だ。
「また置いたの」
ミラが聞く。
「ミラ」
「わかるのよ。あの影で」
短い返事に、何度も繰り返してきたやり取りの跡があった。
エルマはやっと答えた。
「今夜だけは黙って」
「今夜だから言ってる」
上で布の擦れる音がした。
寝返りではない。
痛みをやり過ごすために、身の置き場を少し変えた音だ。
「兄さんの灯でしょ」
広間の空気がそこで固まった。
ハリムは門の外で聞こえないふりをしている。
ギードは木槌に手をかけたまま動かない。
リュカだけが階段の影と小窓の火を見比べていた。
「今夜はやめて」
ミラの声はさっきより低かった。
泣き言ではない。
苦しい息の合間から、言うべきことだけを先に出そうとしている。
「産婆まで迷う」
エルマはその場で目を閉じた。
否定しない。
否定できることではなかった。
ギードがようやく木槌を腰へ戻した。
「聞こえただろ」
エルマは上を向いたまま答える。
「聞こえたわ」
「なら、引け」
「でも置く」
その言い切り方が、いちばん重い。
理屈を知らないからではない。
知っていて、なお置くと言っている。




