第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(2)
リュカは追わなかった。
かわりに、広間の奥から椀を受け取った。
豆と根菜の煮込みに、干し肉が少し入っている。
腹を満たすには十分な匂いだ。
けれど家の者は誰もまともに座らない。
立ったまま口へ運び、飲み込みきる前にまた二階か門へ目をやる。
小窓の火は、仕事の火にしては低すぎる。
手元を照らすなら、もっと腕の動く高さに置くはずだ。
客を迎える火なら、門か台所へ寄せる。
道の様子を見るためなら、窓のそばに人が立つ。
けれどその火皿は、誰の手にも近すぎず、誰の目からも遠すぎないところへ、ただ「見えるように」置かれていた。
意味を知らない者には半端な火だ。
意味を知っている者には、半端だからこそ離しにくい火でもある。
宿は待っていた。
門も、台所も、階段も、窓も、同じ一人を待っていた。
椀を手にしても、リュカはすぐには口をつけなかった。
湯気が上がるたび、家の者たちが階段と門のどちらへ先に動くか迷うのが見えたからだ。
腹は減っている。
ただ、この家ではもう「手を止めて座る」方が難しい。
ハリムは匙を持っても立ったままだった。
二口運んでは外を見、三口目の前で二階の物音に顔を上げる。
若い者は、腹が減っている時ほど落ち着かなさが隠せない。
ギードはもう少し器用だった。
椀を持つ手は安定しているが、視線だけが門の外につながったままだ。
宿の主は、こういう夜には食べているふりがうまい。
エルマだけは、口へ運ぶことすら忘れがちだった。
匙を持ったまま階段で呼ばれ、呼ばれなくても上へ行き、行きかけては窓の前で止まる。
火のそばにいる者ほど、火を余計に増やしたくなるのかもしれない。
リュカはそう思った。
その時、外でハリムが息をのんだ。
「見えた」
広間にいた全員が、一斉に門へ顔を向けた。
平原の向こう、風に倒れた草の上に、小さな灯がひとつ浮いていた。
高くない。
人が手に持つには少し低く、馬の首に下げるには少し揺れが大きい。
距離のせいで、何の灯かはわからない。
ただ、こちらを向いていた。
「産婆か」
エルマの声が二階から落ちてくる。
「まだわからん」
そう答えながら、ギードはもう半歩、門へ寄った。ハリムが門脇の手提げ灯に手を伸ばす。
「少し出て見ます」
「待て」
言ったのはリュカとギード、ほとんど同時だった。
だがハリムの足はもう止まらない。
ハリムは手提げ灯をつかみ、門の外へ二、三歩出た。
風が灯を舐め、火が細くなる。
ハリムは片手で庇い、もう二歩だけ前へ出る。
その瞬間だった。
遠くの灯が、門へまっすぐ来ない。
ほんの少し横へ寄った。
まっすぐなら、返り灯の真下を目指すはずだった。
なのに、ハリムの持つ低い灯の方へ、するりと向きを変えた。
リュカは椀を置いた。
もう一度、風が来る。
遠くの灯が揺れる。
揺れたのは火だけじゃなかった。
硬い土を踏むはずの車輪の音が、一瞬だけ消えた。
代わりに、乾いた草を寝かせる柔らかい擦れ音がした。
「戻れ!」
ギードが怒鳴る。
ハリムははっとして振り向き、門へ走って戻る。
手提げ灯の火が大きく揺れ、その拍子に遠くの灯がまた流れた。
今度は門でもハリムでもなく、厩の脇へ向かうように流れた。
だがそこへ着く前に、横風が吹きつける。
灯はふっと低くなり、そのまま見えなくなった。
見違いと言い切るには、音がはっきりしすぎていた。
門へ来る荷の音は、だいたい似ている。
遠いうちは乾き、近づくにつれて土を刻み、最後の十歩で宿の板壁へ跳ね返る。
だが今の音は、最後だけが抜け落ちていた。
門まで来るなら鳴るはずの、板への返りがない。
代わりに、草へ沈む柔らかい音だけが残った。
ギードもハリムも、その違いを耳で知っている。
だからこそ「見違いだ」と口にするまでに、一拍置かなければならなかった。
誰もすぐには口を開かなかった。
ハリムが門の内へ戻ってきても、息を整える音だけが先に立った。
ギードは門の外をにらんだまま動かない。
二階ではミラが一度、短く息を詰め、それからまた痛みの呼吸へ戻っていく。
「……見違いだ」
ハリムが言った。
自分に言い聞かせている声だった。
「風で流れただけかもしれない」
ギードは返事をしない。
リュカは門の外ではなく、路側の小窓を見た。
まだ小さな火がある。
門の返り灯、台所の明かり、二階の灯、厩の漏れ火、それからあの窓の小さな灯。
近くへ寄れば一つの宿だが、夜道の向こうから見れば、帰り着く先がひとつに見えない。
ギードは、リュカの顔をまっすぐには見ない。
旅人ひとりに口を出されたくない意地もある。
だがそれ以上に、今夜の自分の家が外からどう見えるかをずっと避けてきたのだ。
宿の主は、家の中から灯を見ることに慣れている。
夜道から見返した時、自分の家がいくつの終わりに割れているかまでは確かめない。
今夜は、そのままでは済まない夜だった。
ギードがようやく口を開いた。
「おまえ、何を見た」
リュカは答える前に、小窓の火を指した。
「まず、あれを引っ込めろ」
ギードの顔が、そこで初めてはっきり変わった。
怒ったというより、家の真ん中へ泥靴で踏み込まれた時の目つきだった。
客に見せる顔でも、家の者へ向ける顔でもない。
言われたくないところへ、先に手をかけられた顔だ。
「宿の灯に口を出すな」
「宿の灯じゃない」
リュカは小窓を指した。
「道へ向いた灯だ」
ハリムが、布を抱えたまま小窓を見た。
さっきまで何でもないように見ていた火が、いまは急に目につく。
火皿ひとつ分の小さな火だ。
風に舐められないよう、窓の内側ぎりぎりへ寄せてある。
消えそうで消えない、細い火だ。
ギードは短く言った。
「たかが火皿だ」
「夜道から見れば、たかがじゃない」
リュカは椀を机へ戻し、背の荷から細い測り棒を抜いて門口へ向かった。
門の敷居をまたいで半歩外へ出て、平原の暗がりへ目を凝らす。
さっき消えた灯はもう見えない。
だが、消えたからこそ、いま宿の輪郭はわかる。
「来い」
ギードは動かなかった。
代わりにハリムが、ためらいながら一歩出る。
リュカは門柱へ手をかけ、測り棒の先を返り灯の真下へ置いた。
そこから道へ向けて、硬い土を短く削った。
「門へ入るなら、最後はここへ戻る」
リュカは測り棒を少しずらし、小窓の下からも同じように土を削った。
二つの削り跡は、門の手前で指二本ぶんほど離れている。
ハリムが息をついた。
近くでは、ただの細いずれだ。
けれど膝を少し折り、夜道の高さへ目を落とすと、低い火の方が先に刺さる。
リュカは爪先を返り灯の下から伸びる跡に置き、そこから小窓側の跡へ滑らせた。
靴底が乾いた土を削る。
「最後の数十歩は、こうなる」
「理屈だ」
「さっき見ただろ」
そこでギードが言い返せずに口を閉じた。
ハリムが手提げ灯を持って出た時、遠くの灯が門を外れた。
ギードも、それを見ていた。
二階でミラが短くうめいた。
その声で、広間の空気がまた家の中へ引き戻される。
エルマが階段を下りてきた。
空いた桶を手にしている。
額の髪が汗で張りつき、口元は強く結ばれていた。
だが一階へ下りるなり、夫と旅人とハリムの目線が小窓へ揃っているのを見た。
それだけで、何の話になっているか察したらしかった。
「何」
誰にともなく聞く。
ギードは答えない。
ハリムも黙る。
リュカが代わりに言った。
「その窓の灯を引っ込める」
エルマの手から桶が少し滑った。
木の縁が階段の角へ当たって、鈍い音がする。
「だめ」
すぐに返ってきた。
強い声だ。
取りつくろう気も、言い換える気もない。
ギードが眉を寄せる。
「エルマ」
「だめ」
同じ言い方で、もう一度。
「外が暗いのに、どうして引っ込めるの」
「暗いからだ」
リュカは外を指した。
「暗いと、低い灯が先に目へ入る」
「そんなもの、たかが窓の火じゃない」
「さっきのは、たかがで道を外した」
エルマは桶を床へ置いた。
両手を空けるためだったのか、言い返すためだったのか、本人にもわかっていない。
指先に湯気が残っている。
その手で窓へ行きかけ、途中で止まる。
「違うわ」
「何が」
「産婆を呼ぶために置いたんじゃない」
「道から見えるなら同じだ」
「同じじゃない。あれは、帰ってくる子に見せる火よ」
エルマは小窓の前へ立った。
火を庇うように、リュカたちへ背を向ける。
リュカは言い返そうとして、やめた。
代わりにギードを見た。
ギードは視線をそらした。
ここでようやく、リュカは腑に落ちた。




