第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(3)
この家は、産婆を待っているだけじゃない。
もっと前から、もっと長く、別の誰かを待っている。
エルマは小窓の前に立ったまま、しばらく火を見ていた。
見ているのは火ではないと、誰にでもわかった。
火の向こうに、別の夜を重ねている。
「ロアンは、夜に帰る子だった」
さっきと同じ言葉だったが、今度はその先が続いた。
「昼のうちに戻れる荷でも、あの子が継ぐと、いつも一つ二つ遅くなるの。
積み方を直したり、馬具の鼻革を見たり、相手が困っていれば一言多く聞いたりするから」
ギードが鼻で息を吐く。
「鈍いんじゃない。手を止めすぎた」
「止めたぶん、戻る時は必ずこの窓を見てた」
エルマはそう言って、小窓の板枠へ指を置いた。
「台所の灯より先に、こっちを見る癖があったの。
門の上の返り灯は高すぎて、帰ってきた気がしないって」
ギードは何か言いかけて、やめた。
否定しきれない沈黙だった。
「去年も同じ風だった」
ギードは門の方を見たまま、去年の夜を話し始めた。
話すほど、木槌を握ったまま黙っていた自分の姿まで思い出す。
それでも今夜は、黙っていられなかった。
ロアンは荷の札を見る前に、馬の鼻先へ手を置く。
湿った鼻を親指で拭い、緩んだ鼻革を一穴詰める。
御者が礼を言う前に、荷縄の結び目と相手の顔を見ていた。
ギードに言わせれば、手を止めすぎる。
エルマから見れば、止めたぶんだけ道を確かめて帰る。
だから遅い夜でも、皆が安心しきっていた。
今度はギードが話を引き取った。
木槌もくさびも手放したまま、門の方へ目を向ける。
「もっと冷えてたがな。刈り入れの終わりで、夜になると地べたの風が急に細くなった。
北の低地から戻る荷が一本、日暮れ前に着くはずだった」
ハリムが小さく言う。
「塩袋の荷です」
「ああ」
ギードはうなずいた。
「軽い塩袋だ。馬も道を知ってる。
だから遅れても、門の前までくれば着いたも同じだと、その時は思ってた」
ギードは続けた。
「暗くなってから、向こうに灯が見えた。
高くも低くもない、荷の灯だった。
見えたから、そこで俺は安心した。
門の上の返り灯もある。
台所も明るい。
すぐ来ると思った」
エルマが横から言葉を継いだ。
「でも動かなかった」
ギードが黙る。
「灯が、柳のところから先へ来なかったの。
近づいてるように見えるのに、門までは詰まらない。
近いのに遠い。
遠いのに、声をかければ届きそうで、ずっと嫌な位置にあった」
ハリムは唇を噛んだ。
その場面を見ていたのだろう。
「ロアンが言ったんです」
若い声が補う。
「近いから、自分が迎えに行くって」
ギードは頷いた。
「俺は止めきれなかった」
「止めなかったのよ」
エルマの言い方は静かだった。
責めるために言っていないから、余計に重い。
「あなたは、行くなとは言わなかった。
近いなら大丈夫だろうって顔をした。
私は……」
そこでエルマの声が初めて揺れた。
「私は、その時もここへ灯を置いたの。
戻る時に見えるようにって。
あの子が、いつもこっちを見るから」
広間の誰も動かなかった。
エルマは、いま窓の前に立っているのと同じ姿勢で、去年の夜を思い出していた。
灯を窓際へ寄せ、風で消えないように指で囲った夜を。
「ロアンは門の脇の手提げ灯を取った」
ギードが言う。
「それで敷居をまたいだ。
門の上には返り灯、台所の灯、それからこの窓の灯。
俺たちは、帰る先を三つつくったまま、あいつを出した」
リュカはその言い方を聞いて、ようやくギードが今夜ここまで来られた理由を知った。
この男は、去年の夜の正体を全部は言えなくても、何を増やしてしまったかだけは薄々知っていた。
ハリムが声を落として言う。
「ロアンさんの灯と、向こうの荷の灯が、途中で並んだんです」
その声には、若い目で見た景色が残っていた。
「並んで、それから……」
「それから、ほどけた」
エルマが言った。
「門へ来るなら、二つともこっちへまっすぐ寄るはずだったの。
でもそうじゃなかった。
ロアンの持つ灯が、まず窓の方へ寄った。
荷の灯も、つられるみたいにそっちへ向いた。
道を来ていたはずなのに、草の黒い方へ流れた」
ハリムは目を伏せた。
「馬の音が消えたんです」
ぽつりとこぼした。
「車輪の硬い音も。
かわりに、草を踏む音だけになって……見えなくなった」
「追わなかったのか」
リュカが初めて聞いた。
責める響きはない。
だが、ここは聞かなければならない。
ギードは低く答えた。
「追った」
それだけでは足りないと思ったのか、さらに続ける。
「すぐには追えなかったが、灯が消えてから、俺もハリムも外へ出た。
だが、門を離れたらもう何も見えなかった。
向こうにも灯がない。
こっちにも灯がばらけてる。
どれが門で、どれが窓で、どれが手の灯だったか、自分の側まで曖昧になった」
帰る者だけでなく、待つ者まで、自分で増やした灯に足を乱されていた。
「夜明けまで待って探した」
ギードは門の外を見たまま言った。
「道から外れた草の寝た筋が一本。
それから、手提げ灯の取っ手だけ見つかった。
鉄の輪が曲がってた。
だが人も馬も、荷も出なかった」
夜明けに外へ出ても、探すのは簡単ではなかった。
寝た草は朝日が当たると同じ色になる。
ギードは土を指で押した。
蹄の深い跡はない。
ハリムはもっと先へ行きたがった。
だが門を離れすぎれば、今度は自分たちが戻る灯を失う。
荷も馬も残っている。
継場の主が朝のうちに消えるわけにはいかない。
父としては追いたかった。
主としては戻らなきゃならなかった。
そのどちらも終わらないまま、一年が過ぎていた。
エルマの指が小窓の板をなぞる。
「だから置いてるの。
あの子が帰るなら、今度は門じゃなくても、せめてこの窓は見えるようにって」
ギードはようやくエルマの方を見た。
「その灯で、今夜はミラの産婆まで散らすかもしれん」
「わかってる」
エルマはすぐに答えた。
「わかってるのよ。
だから嫌なの。
理屈がわからないんじゃない。
わかった上で、引けって言われるのが嫌なの」
ここで初めて、エルマの声が少し荒くなった。
「ロアンの時は、置いたせいかもしれない。
置かなかったせいかもしれない。
そんなこと、いまさら誰にも言い切れない。
でも今夜まで置いてきたものを、ミラが苦しい夜に私の手で引けって言われたら、手が止まるのは当たり前でしょう」
その言葉を、誰もすぐには返せなかった。
間違いを認めたくないからではない。
窓の火を下げれば、ロアンを待つ場所まで変わってしまう。
二階からミラの声が落ちてくるまでは。
「母さん」
痛みが少し引いたところで、細い声が降りてきた。
「兄さんを待つのは、やめなくていい。
でも今夜は、道の方で待たないで」
それで広間の空気が、ようやく今夜へ戻った。




