第四話 帰りを待つ灯が夜道を消す継場(4)
エルマは目を閉じた。
開いた時には、小窓の火ではなく、その向こうの夜を見ていた。
平原は真っ暗だった。
一年ぶんの視線が、窓の板に染みついていた。
やがて、エルマは火皿を持ち上げた。
火は小さく揺れたが、消えなかった。
窓から離しただけで、広間の空気が少し変わった。
指先ほどの火なのに、そこにあった時より重い。
エルマは皿を両手で支えたまま、どこへ置けばいいのかわからず立ち尽くす。
「そこじゃだめだ」
リュカが言っても、エルマは振り向かない。
「どこへ持っていっても、同じじゃないの」
「同じじゃない」
リュカは広間の奥を指した。
階段の裏に、壁へ寄せた細い棚がある。
普段は匙や油差しの蓋を置く場所で、出入口からは見えない。
家の中にいる者だけが目に入る位置だ。
「家の内へ置け」
エルマは火皿を抱えたまま、まだ窓の方を向いている。
けれど外はもう黒く、道も草も同じ色だった。
ミラが二階で息を詰める。
その短い音で、エルマはようやく足を動かした。
一歩。
二歩。
窓から離れるたび、火の明かりは道ではなく床を照らし始めた。
板の継ぎ目、桶の縁、柱の擦り跡。
去年まで外へ向いていたものが、いまは家の中の傷を照らしている。
棚の前まで行って、エルマはまた止まった。
そこは空ではなかった。
使いかけの麻糸、欠けた木の匙、鈴のついていない古い馬の革輪が一つ。
エルマはその革輪を見て、指にわずかに力を入れた。
ロアンのものだと、誰も言わなかった。
言わなくてもわかる沈黙が、その場に広がった。
エルマはゆっくり火皿を棚へ置いた。
火は少し高くなって、壁へ淡い輪をつくる。
もう道からは見えない。
けれど家の者には見える。
それでもエルマは、すぐ手を離せなかった。
皿の縁に指を置いたまま、「まだここにいる」と誰かへ言い聞かせるように動かない。
ギードが口を開いた。
「ハリム」
「はい」
「門脇の手提げ灯を下ろせ。掛けたままにするな」
ハリムは返事をしたものの、すぐには動かなかった。
ついさっき、その灯を持って外へ出たからだ。
よかれと思ってやったことが、灯を散らしたのかもしれない。
その手応えがまだ腕に残っている。
「聞こえなかったか」
「……聞こえました」
ハリムは門脇へ行き、鉤から手提げ灯を外した。
火を吹き消すのではなく、板囲いの内へ戻す。
広間の隅へ置く時、金具が小さく鳴る。
その音は、外へ出る道具をひとつ奥へしまった音に聞こえた。
ギードは続けた。
「厩の扉を寄せろ。隙間を半分でいい。全部閉めるな、馬が騒ぐ」
ハリムは今度はためらわなかった。
厩へ走り、扉を引いた。
橙の細い筋が、板の隙間でふっと痩せる。
外から見える明かりが、一本減った。
ギードは階段へ向かって顔を上げた。
「ミラ。二階の扉、半分だけ閉めるぞ」
上から、痛みの合間を縫うように声が返る。
「いい。暗くはしないで」
「暗くしない」
エルマがようやく棚から手を離し、そのまま階段へ向かった。
さっきまで窓辺に立っていた人と同じ足取りではない。
速くもないが、迷いが少し減っている。
二階で扉のこすれる音がする。
全部は閉めない。
風が抜け、産室の灯は消さず、ただ外へ漏れる口だけを細くする。
ギードは台所の方を向いた。
「台所の灯を奥へ」
台所にいた女が、黙って明かりを台ごと持ち上げる。
鍋の湯気が一瞬大きく影をつくり、すぐ広間の側へ引く。
出入口から見えていた明るさがまた一つ、後ろへ下がる。
リュカは門の敷居をまたぎ、もう一度だけ外から宿を見返した。
さっきまでばらけていた明かりが、一つの目印へまとまりつつある。
台所の明るみは扉の陰へ退き、厩の漏れ火は痩せ、二階は扉の隙間に細く切られた。
残るのは、門柱の上の横木から吊った返り灯だけだった。
その一灯だけが高く、夜の中で輪郭を持った。
まだ足りない。
リュカはそう思って、首をわずかに傾ける。
門の上の返り灯だけが、宿を示す目印になる。
だがその下に、広間からこぼれる明るさが少しある。
夜道からは最後の数十歩で迷いになる。
「扉をもう少し」
ギードが振り返る。
「どこをだ」
「門の正面から見える分だけ、広間を絞れ」
ギードは言い返しかけて、やめた。
外へ出て、リュカの立っている位置まで来る。
そこから宿を見返し、短く息を吐いた。
やっと同じものに気づいたらしかった。
「ハリム。出入口の脇板、寄せろ」
門ではない。
建物の出入口の脇に立てかけてある風除けの板だ。
普段は強い横風の日だけ使う板だった。
ハリムがそれを引いて出入口の片側へ寄せると、広間の奥の明るさが切られる。
残ったのは、門の上の高い灯と、家の中の気配だけだった。
火を引くのは、思ったより大仕事だった。
火皿一つなら指先で動く。
板の扉一枚なら肩で寄せられる。
けれど動かすたび、誰かが一つずつ我慢する。
ハリムは迎えに出たいのをこらえ、厩の明かりを奥へ引いた。
二階の扉を半分閉めた時、ミラは自分を助けるための灯まで少し引くことになった。
宿が急に遠くなる。
いや、遠くなったのではない。
外へ向いていたものが引いたせいで、宿が一つにまとまった。
ギードはしばらく黙って立ち、そのまま二階を見上げた。
エルマはまだ降りてこない。
上ではミラが息を整え、誰かが湯を絞り、布を替えている物音がする。
家の中の明るさは消えていない。
ただ、外へ撒かなくなっただけだ。
「……これで着けるか」
ギードの問いは、リュカに向いているようで、半分は自分へ向いていた。
「そうするしかない」
リュカは門の上を見た。
「目印は一つでいい」
ギードもつられて見上げる。
返り灯は風に揺れていた。
高いところにあるぶん、さっきまで気にならなかった横揺れが目につく。
紐がきしみ、鉄輪が鳴る。
消えるほどではない。
けれど、今この宿が外へ向けて残した明るさは、もうあれ一つしかない。
ギードの表情がまた固くなる。
「……あれが落ちたら、門の目印がなくなる」
リュカも見上げた。
今度の揺れはさっきより深い。
紐の擦れる音が、風の合間に細く混じる。
門の上の一灯だけで宿を立たせるなら、次に来るのはそこだと、もう見えていた。




